全集第23巻P59〜
聖書の欠点 他
大正6年(1917年)1月10日
「聖書之研究」198号
1.聖書の欠点
ある教会信者が私の家を訪れた。彼は組合教会の信者であった。聖書の偉大を私が唱えると、彼は質問の矢を放って言った。「聖書にも欠点があるではありませんか」と。
私は驚いた。いやしくもキリスト信者たる者が、聖書の名を聞いて、この質問が先ずその心に浮かぶとは!
私は彼に答えて言った、「有るかも知れません。しかしながら、私共は聖書の放つ光があまりに大きいので、その欠点に気づかないのです。あたかも望遠鏡を使って調べれば、太陽に多くの欠点があることを認めますが、その輝きがあまりにまぶしいので、その欠点に注意を払わないのと同然です」と。
今や教会において聖書研究と言えば、先ずその欠点を指摘して、それから後にその倫理的価値を定めるのを常とする。これを研究的態度と言うのであろうが、そのような態度ではどのような書物でも解らない。
同情は解釈するための第一のカギである。同情が無ければ、美点に憬(あこが)れなければ、どのような書物でも解らない。殊に神の書物である聖書は解らない。
2.キリスト教の重心点
キリスト教の重心点は、その道徳ではない。キリスト教の重心点は、その奇跡である。殊に奇跡的人格であるキリストである。彼の奇跡的出生である。彼の奇跡的生涯である。彼が死んで後の復活である。復活後の昇天である。
神の子の受肉、その聖い行為、復活、昇天、そして来るべき再臨、キリスト教の重心点はこれである。その道徳なるものは、これに根拠した道徳である。その慰安と歓喜と希望とは、これを信じることから来る慰安と歓喜と希望とである。キリスト教からその奇跡を除けば、何も残らない。
神御自身が人の間に臨まれたのである。天が地に接触したのである。生が終に死に勝ったのである。その事実と事績とがキリスト教である。
単に高遠な理想ではない。単に純潔な道徳ではない。単に偉大な社会的勢力ではない。キリスト教は奇跡である。超自然的事実また勢力である。神が人として生れ、罪を除き、死を滅ぼし、永生を与えて下さったとの事である。奇跡でないキリスト教は、これをキリスト教として認めることは出来ない。
3.伝道志願
信者は誰でも伝道を志願するべきである。あたかも国難に際して、国民は誰でも出陣を志願すべきであるのと同然である。この時に際して出陣を志願しない者は、非国民と呼ばれる。
それと同じように、この暗い世に在って、自分は天からの光に接しながら、伝道を志願しない者は、偽信者と言われても、弁解の言葉がないのである。
もちろん信者の伝道志願が、悉(ことごと)く神に採用されるとは限らない。あたかも国民の出征志願が悉く皇帝に採用されないのと同然である。神がもし、私が伝道以外の業に就くことを善しとされるなら、私は止むを得ず彼の聖旨(みこころ)に従うのである。
しかし、私の第一の志望は、伝道であるべきである。信仰の剣を取って、福音の戦線に立つことである。キリストが受けられた謗(そし)りを身に受けながら、生命(いのち)の言葉を伝えることである。
神が禁じられない限りは、信者は誰でも争って伝道師となるべきである。この精神があれば国家は維持される。この精神があれば福音は宣揚される。しかしああ、事実はどうか。キリストは泣いておられる。
4.運命と信仰
世に運命というものがある。善い運命の人がいる。悪い運命の人がいる。そして人は信仰によってその運命を変えることは出来ない。
信仰は運命を変えるものではない。これを支配するものである。
人は神を信じて、悪い運命に勝って、これを善用することが出来る。また善い運命に生れて、その誘惑に勝つことが出来る。「
凡(すべ)ての事は、神の旨(みこころ)に依りて召され神を愛する者の為に悉(ことごと)く働きて益をなす」(ロマ書8章28節)とある通りである。
そして内なる人の利害を考えれば、悪い運命は善い運命に勝って善い。「
患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず」(ロマ書5章3、4節)とある通りである。
あなたは善い運命を以て生れたのか。神を信じて彼に感謝し、それが彼のために善用されることを祈れ。
あなたは悪い運命を以て生れたのか。神を信じてこれを気に留めるな。何故なら、あなたは彼に依ってあなたの悪運に勝ち得て余りあるからである。
人の幸不幸は、その運命においてあるのではない。その信仰においてあるのである。神を信じることが出来た者、その人が幸福である。信じられなかった者、その人が不幸である。
完