全集第23巻P62〜
ヨハネ第一書3章1〜3節研究
(京都会合における第一回講演大意)
大正6年(1917年)1月10日
「聖書之研究」198号
1節 汝等視よ、我等称へられて神の子たることを得。是れ父の
我等に賜ひし何等(いかばかり)の愛ぞ。世は父を識らず。是に由りて我等
をも識らざる也。
2節 愛する者よ、我等今神の子たり。後如何未(いま)だ露(あら
わ)れず。其の現れん時には必ず神に肖(に)んことを知る。そは我等その
真状(まことのさま)を見るべければ也。
3節 凡(およ)そ神に由る此望(のぞみ)を懐く者は、其の潔(きよ)
きが如く自己(みずから)を潔くす。
◎ 「
汝等視よ」 ここに驚くべき事がある。君達眼を見開いて、注意して見なさい。
◎ 「
我等称へられて神の子たることを得」 「得」という文字は、原文には無い。故に除くべきである。「
我等神の子と称へられんためには」と訳すべきである。
「
我等」 神から離れ罪の人である私達。 「
我れ天と汝の前に罪を犯したれば、汝の子と称ふるに足らざる也」(ルカ伝15章21節)と言うべき私達。
「
神の子」
神の実子のことである。神と性質を同じくする者キリストが、神の子であるという意味においての子である。神の子として
採用されたのではない。神の子と
されたのである。神の養子ではない。彼の実子である。
「
称へらる」 認められる、または扱われるという意味である。「
彼を接(う)け其名を信ぜし者には、神の子たるの権(ちから)(権利)を賜ひたり」(ヨハネ伝1章12節)とあるその事である。
◎ 「
父の我等に賜ひし何等(いかばかり)の愛ぞ」 「賜ひし」であって、「現はしゝ」ではない。愛の
表現ではない。その
下賜である。分与である。父がその愛を私達に分け与えて下さって、私達は彼の実質を受けて彼の子となることが出来るのである。
「
いかばかり」と言うのは、愛の
分量を言うのではない。「
いかよう」と言って、その
性質を言うのである。「父が我等に賜ひし如何様(いかよう)の愛ぞ」と訳すべきである。
ヨハネは言ったのである、「ここに驚くべき事がある。注意して見なさい。我等罪の子が、神の実子としての権利に与るために、父は御自身が愛であられるその愛を我等にお与え下さった。これはどのような愛であろうか」と。
実に眼は未だ見ず、耳は未だ聞かず、人の心は未だ思ったことのない愛である。私達が神を愛するのは、彼が先ず私達を愛したからである(4章19節)。
私達が自ら求めて神の子となることが出来たのではない。神がその愛を私達に与えて下さったので、私達は神の子となることが出来たのである。これは「
いかばかり」の愛であろうか。
どのような愛であろうか。
◎ 「
世は父を識らず。是に由りて我等をも識らざる也」 私達は神に愛され、彼の子として認められるに至った。それと同時に、世に知られないようになった。神に知られることは、世に知られないことである。私達は神に就いて、世に背くのである。
私達が神の子となることが出来たまぎれもない証拠の一つは、私達が世に知られず、世に誤解されるようになった事である。そして世が神の子を解し得ないのは、神を解し得ないからである。
父を解し得なければ、子を解し得ない。真の神を解し得なければ、キリスト者を解することは出来ない。私達は、世に向って自己の弁護に努めても無益である。世は、私達の父を解することが出来るようになるまでは、私達を解し得ない。
世に解されないことは、苦痛であり続ける。しかし、これは神の子となることが出来た必然の結果であることを知って、私達は感謝せざるを得ない。
前半節に「神の子と称へらる」と言って、後半節に「世に識られず」と言う。大きな対照である。しかも意味深い慰安に富んだ対照である。
◎ 「
愛する者よ」 神に愛され、彼の愛を賜った者、ゆえに世に知られはしないが、私達、互に相愛する者。キリスト者相互の愛は、彼等が神に愛されると同時に、世に憎まれる事による。
◎ 「
我等今神の子たり」 神の子と
称えられた信者は、実(まこと)に神の子であるのである。単に神の子の名称を付せられたのではない。神の子としての実質を賦与されたのである。
信者は名実共に神の子なのである。彼は今既に、神の子である。単に未来において神の子となるように予定されたのではない。
◎ 「
後いかん未だ露(あらわ)れず」 信者は今既に神の子である。しかしながら、既に完成された神の子ではない。「
蓋(そは)神の種その衷(うち)に在るに因る」(9節)とある。
信者は神の子であると言っても、今既に完全の人なのではない。彼は神の種をその内に播(ま)かれた者であって、今や成長発達の途上にある者である。そして播かれた種の成熟した状態、その事は未だ現れていないのである。
彼は罪を犯すことが出来ない者であるが、実際には今なお罪を犯す者である(2章1節)。彼は不朽の生命(いのち)を賜った者であるが、一度は死を味わわなければならない者である。彼は神の子であるが、しかし今なお肉に宿っていて人の子である。矛盾は彼が免れられないところである。
◎ 「
其現れん時には」 「其」ではない。「彼」である。「彼れ現れ給はん時には」と訳すべきである。そして「彼」はもちろん私達の主イエス・キリストである。
彼は今天に居られ、父の右に座して、私達の眼には隠れて居られるのである。しかしながら、彼は何時までも隠れて居られるのではない。時が至れば彼は現れられるのである。キリストの再臨と言い、また再顕と言うのはこの事である。
「
此イエスは汝等が彼の天に昇るを見たる如く、亦(また)臨(きた)らん」(使徒行伝1章11節)とあるように、彼は必ず再び顕(あらわれ)れられるのである。そして彼が顕れられる時が、信者が完成される時である。
「
夫(そ)れ主……自(みず)から天より降らん。其時キリストに在りて死(しに)し者甦り云々」(テサロニケ前書4章19節)とある。また「
我等の生命(いのち)なるキリストの顕はれ給はん時、我等も亦彼と共に栄(さかえ)の中に顕るゝ也」(コロサイ書3章4節)とある。
信者の希望とは、この事である。キリストが神の子の栄光と権威とを以て顕れられる時に、私達もまた彼に似て、神の子として実現することである。
◎ 「
必ず神に肖(に)んことを知る」 信者は今既に神の種を心に播かれた者、神の子として取り扱われる者である。しかし、未だ神に似て完全な者ではない。
「
天に在(いま)す汝等の父が完全(まった)きが如く、汝等も完全(まった)くすべし」(マタイ伝5章48節)と教えられて、完全は彼が追求すべき者であるが、しかし彼は既にこれに達した者ではない。父の子であって、未だ父に似ていない者である。
信者の苦痛はここに在る。彼の実際は、彼の理想にそわない。彼は罪から救われて、今なお罪を犯す者である。「
噫(ああ)我れ困苦(なやめ)る人なる哉(かな)。此死の体(からだ)より我を救はん者は誰ぞや」(ロマ書7章24節)とは、彼がしばしば発する嘆声である。
彼は既に救われたと言っても、希望(のぞみ)において救われたのである(ロマ書8章24節)。即ち希望の中に救われたのである。救拯(すくい)の希望を授けられたのである。
しかしながら、彼は何時までも希望に憧れて、理想の追求に苦しむ者ではない。彼の希望が充たされ、彼の理想が実現する時は必ず到来するのである。主が顕れられる時には、彼は必ず神に似る者となるのである。
その時宇宙は一変し、万物は改造され、新しい天と新しい地とは現れ、彼もまた朽ちることのない体(からだ)を与えられて、ここに彼の救拯(すくい)は全うされて、彼は父が完全であるように、完全になることが出来るのである。
信者は今なお救拯(すくい)の途中に在るのである。神は彼に在って善工(よいわざ)を始められて、これをイエス・キリストの日において全うされるのである(ピリピ書1章6節)。
それだから私達は、今は完全になれなくても、敢えて悲しむべきではない。私達は、今は罪の身で罪の世に在るのである。私達の外も汚れ、私達の内もまた汚れており、私達は、今は完全を求めても得られない者である。
そしてそのような状態に在るので、「
聖霊の初めて結べる実(み)を有(もて)る我等も自(みずか)ら心の中に歎(なげ)きて(神の)子と成らんこと即ち我等の体(からだ)の救はれんことを俟(ま)」(ロマ書8章23節)つのである。
そしてこの待望(たいぼう)は、空望(くうぼう)として終らないのである。それが実現する時は、必ず到来するのである。
「
彼れ顕はれ給はん時には、必ず神に肖(に)んことを知る」とある。キリストの再臨は、単に彼の再臨に止まらないのである。信者の救拯(すくい)が完成されるのも、その時である。
彼の体(からだ)が救われる時、即ち彼が復活する時、この朽ちる者が朽ちない者を着、死ぬ者が死なない者を着る時は、この時である。
信者が待望む喜びの時、聖国を来らせ給えと祈って日々待ち焦がれるその時、彼の忍耐と練達と希望とが、その報賞(むくい)に与かる時、ハレルヤの声は揚がって、信仰が事実となって証明される時……彼が再び顕れられる時がその時であるのである。
(以下次回に続く)