内村鑑三全集を読むのは、ちょっと休憩して、
「隅谷三喜男著作集」(岩波書店)第8巻の中で、内村先生について取り上げている個所を読んでみたいと思います。
それは、著作集第8巻の306頁から324頁に書かれている「内村鑑三と現代―――座標軸をもつ思想」という部分です。
隅谷先生は教会の人で、経済学者ですが、思想史家として、内村鑑三の思想を、非常によく理解されているように思います。
私達は、内村鑑三全集によって内村鑑三の思想・信仰に直に接すると共に、たまには第三者の客観的観点から、内村鑑三を理解しようとすることも必要なのではないかと思います。
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内村鑑三と現代―――座標軸をもつ思想
1 グレート・エックス
第二次大戦が終わって、日本に平和憲法が制定された頃、内村鑑三は郵便切手の肖像となって、日本に姿を現わした。内村が日露戦争に際して反戦の思想家として戦ったことが、敗戦後の日本にとって記憶されるべき人物として、彼を想起させたのである。
これより少し前、敗戦後間もない1946年3月、内村の弟子であった矢内原忠雄は、「内村鑑三の十の戦」と題する講演で、こう言った。
「今や日本は惨憺たる崩壊であります。……今は建物が崩れ落ちて、多
くの人が焼け死んで、邑全体が焼野原になっておる。関東大震災の何倍
もの大きな惨禍が東京に、否日本全国の町々に及んでいる。この時に当
り内村鑑三はなお生きている。彼は生き返ったのであります。日本が崩
壊した時に、内村鑑三は復興しました」。
もちろん内村は、一部の人たちの間ではきわめて鮮明なイメージをもって記憶され、生き続けていた。だが、社会的にいえば、内村は一介のキリスト教の伝道者、思想家として、社会の片隅に生きたのであり、1930年に永眠して以後は、ほとんど忘れられた存在であった。
それが敗戦とともに、矢内原の言うように「生き返った」のである。そして切手の肖像となって、打ちひしがれた日本人に語りかけることとなったわけである。
ところで、内村鑑三とは、いかなる人物であるか。諸家の見解はまちまちである。弟子の一人であった政池仁は、その「内村鑑三伝」(1953年)の冒頭に、こう記している。
「ある人は先生を天使であると言い、ある人は先生を悪魔であると言っ
た。ある人は先生を矛盾の人だと言い、またある人はグレート・エック
スだと言った」。
内村に対する評価が分かれるのは、彼の思想や行動の中にしばしば矛盾が存在したからである。たとえば、彼の年若い友人で同じ「万朝報」で働いていた山県五十雄が、日露開戦という段階で、開戦論に賛成した時、内村は憤然テーブルを叩いて「君までが」と一喝した。「プルータス、お前もか!」というわけである。
ところがその内村は、旅順沖の海戦で日本艦隊が大勝利を得たと聞くと、「四隣へ鳴り響く程声高く万歳を三唱した」と、当の山県に手紙を書いているのである。そしてこれに続けて「嗚呼(ああ)我れ矛盾せる人なる哉(かな)!」と自ら記している。
それゆえ、「矛盾の人」という批評は、単に第三者のものに止まらず、自分でもそう認識していたのである。
この点は、内村の思想をその生涯にわたって統一的にとらえようとすると、いっそう明白になる。
たとえば、日本にキリスト教を根づかせるためには、キリスト教を日本化する必要があるのではないかという問いは、繰り返し出される問題であるが、この点について内村は、1904年、日露開戦に反対し、世界的視野が優越していた時点では、
「最も多くの場合に於ては、日本人は基督教を日本化せんと努めて、日
本を基督教化せんとはしない。こうして日本化した基督教を受けて、自
ら基督教徒なりと称する。而かも其純粋の基督教でないことが直にわか
る。日本化された基督教は、俗化したる基督教と成りて終わる」
と批判したのに対し、第一次大戦後、日本への関心が強くなった段階では、「日本的基督教のみ能く日本と日本人とを救うことが出来る」(「聖書之研究」1920年12月)と主張するのである。
このような矛盾が、内村に近い人を内村から遠ざけることとなった。しかしそこに、内村の苦闘をみることも可能であろう。
だが、「矛盾の人」というだけでは消極的な評価に止まる。グレート・エックスでも内村の内実は知ることができない。矢内原は内村の積極的な評価として、要約すると二つの点をあげている。
第一は、預言者としての内村である。
「基督教の信仰・道徳及び正義感を輸入せずして、西洋の技術と学芸を
輸入することの、国家百年の計を謬る所以なることを通論した。之が内
村の政治評論の根底たり真髄たるものであった。其の意味に於いて彼は
実に預言者的愛国者であった」(「内村鑑三論」1940年)。
内村は祭司であることを拒否し、預言者として語ったというのである。だが、矢内原が「預言者」的性格以上に重視したのは、矢内原らしく「戦士としての内村」であった。
「内村鑑三は戦闘の人であった。彼は政府と戦い国民と戦い、宣教師と
戦い、教会と戦い、骨肉と戦い弟子と戦った。……彼の信仰は戦うべき
敵を前にもつ時、最も強く、最も精彩を放った」(同上)。
内村自身も社会に対する姿勢を次のように記している。
「教会が社会を私するときに教会は腐敗し、社会もまた腐敗す。教会が
社会と戦うとき、教会は健全にして社会もまた健全なり。教会と社会と
はもともと敵にして味方にあらず。……われらもし社会の幸福を計らば、
これに対して常に反抗、交戦の態度をとるべきなり」(「聖書之研究」1906年)
「世と闘い永久にこれと和睦せざるもの、これ真の信者なり、キリスト信者の真偽は容易にこれを分かつを得るなり」(同上、1907年)とも記している。恐らく内村の対社会の基本姿勢を示すものとしては、この「戦闘の人」がもっともふさわしいであろう。
2 戦いの生涯
内村を「戦闘の人」とみるとして、彼は何と戦ったのであろうか。矢内原は上記「内村鑑三の十の戦」と題する講演の中で、社会との戦いを五つあげたあと、「社会の目に見えない所で、先生の心の戦があった」として、
罪に対する戦い、誤解と迫害とに対する戦い、家庭生活における戦い、貧困との戦い、および病気と死に対する戦いの五つをあげている。
しかし、迫害や貧困は社会との戦いに必然的に伴ったものであるから、心の戦いとしては何よりも最初の罪の戦いをあげなければならない。そこにこそ、内村の全存在はかけられていたと言ってよいであろう。
内村は1877(明治10)年、北海道開拓使が設立した札幌農学校の生徒募集に応じ、その第二期生徒となった。周知のように、この農学校創設の時教頭として赴任したのが、アメリカ・マサチュセッツ農科大学の学長であったウィリアム・S・クラークである。
内村が入学した時、クラークの影響で第一期生の大部分は、「イエスを信ずる者の契約」に署名して、キリスト教徒となっていた。内村はこれら上級生から改宗を強要された時、頑強にこれを拒絶し続けた。
しかし、上級生の熱心と強圧に屈して、半年後にはついに「契約」に署名し、翌年メソジスト教会で彼が生涯尊敬したM・C・ハリスから洗礼を受け、キリスト教会の一員となったのである。
その時、彼はどのようにキリスト教を理解して、それを受けいれたのであろうか。この点を理解するには、当時の高等教育の実情を知る必要がある。講義の多くは外国人教師により、外国語で行なわれたのである。
内村自身、その勉学と研究の時代を回顧して、「余はすべて高貴なもの、有用なもの、向上的なものを英語という運搬車を通して学んだ。余は余の聖書を英語で読んだ」(『余は如何にして基督信徒となりし乎』)と記している。
このような西欧文化と一体化したもの、あるいはその根底にあるものとして、キリスト教を受けいれたのである。内村研究としてはユニークな亀井俊介「内村鑑三」(1977年)は、内村のこのキリスト教への転回を「キリスト教への回心というより、キリスト教文明への回心というべきではなかろうか」、とさえ述べている。
内村自身、後年自己の信仰歴を顧み、「三度の大変化」があったとしてこう記している。
「その第一回は、余がキリスト教によって始めて独一無二の神を認めた
時であった。……その時、天地万物の造り主を唯一の神と認め、ここに
余の思想は統一せられ、混乱せる万物を完備せる宇宙と化し、余は迷信
の域を去りて科学の人となった」(『聖書之研究』1918年)。
ここにわれわれは、近代思想の一つである理神論的合理主義の匂いを嗅ぎとることも不可能ではないであろう。
だが、それよりいっそう顕著なのは、アメリカ的ピューリタニズムと「武士道」の禁欲主義との混合物であった。戒律的な倫理主義である。
「イエスを信ずる者の契約」の後半は、モーゼの「十戒」を多少補正したものであって、そこには「以下の誡めは我々の地上の生涯のあらゆる転変を通じてこれを記憶しこれに服従することを約する」と記され、会員の倫理綱領が列挙されていた。そこではたとえば、観劇さえ反倫理的と見なされた。
受洗直後の出来事として次のような記録が見出される。
「余ははなはだ曇りのない良心をもって(芝居見物に)行ったのではない。
これは洗礼を受けてから二度目であったが。しかしこれは余の生涯にお
いていかなる種類でも劇場の敷居をまたいだ最後であった。
……劇場に行くことは姦淫が罪であるような罪ではない。しかしもし余
がこういう「悩殺する娯楽」なしにやって行けるならば、余は余の肉体
と精神とに対する多くの損失なしにそういうことから遠ざかることもま
たできると信ずる」(『余は如何にして基督信徒となりし乎』)。
このような倫理的厳粛主義は、内村や内村のグループに限られたものではなく、日本の精神的土壌に人格的一神教が受けいれられた時、一般的にみられた明治前期キリスト教の大きな特徴であった。それは日本の初期キリスト教徒のバックボーンであった。
だが、倫理主義はやがて行きづまらざるをえなかった。戒律との戦いに敗れざるをえなかったからである。前述した第一回の回心に続けて、アメリカ滞在中に生じた第二回の変化について、内村はこう記している。
「その第二回は、余がキリストの十字架において余の罪の贖(あがない)
を認めし時であった。その時余の心の煩悶はやんだ。いかにして神の前
に義しからんとて悶え苦しみ、余は、「仰ぎ見よ、ただ信ぜよ」と教えら
れて、余の心の重荷は一時に落ちた。余はその時、道徳家たるをやめて
信仰家となった」。
キリストによる罪からの救いこそ、内村がその後死に至るまで揺ぐことなく絶ち続けた彼の存在の基盤であった。しかしそれは、第一の倫理主義が否定され、捨て去られて、贖罪信仰がこれに代わったというのではない。前者の基底の上に、それを超えるものとして、キリストによる救いがおかれたのである。
内村のもう一つの戦いは、社会的不正・不義との戦いであった。その中でももっとも際立っているのは、天皇制との衝突、いわゆる不敬事件と、日露戦争に際しての反戦の戦いである、といってよいであろう。
前者は、その外形からすれば、親署のある教育勅語に対する敬礼の仕方が不十分であったという点をとらえて、キリスト教攻撃の機をうかがっていた反動勢力が、内村をまず血祭にあげたという歴史的事件にすぎない。だが、それは日本の近代社会史上きわめて重大な事件だったのである。
日本は明治維新によってその封建体制を再編し、近代的社会形成を目指すことになった。ところで、封建的価値体系は解体していったが、これに代わって「近代的」日本を統合する原理は、必ずしも自明なものではなかった。
自由民権や、キリスト教や、進化論や、さまざまな新思想が流入する一方で、伝統思想も根強く自己を主張していた。日本の指導者達は、このような混乱の中で、日本国建設のためには国民統合の原理が不可欠と考え、それは天皇制の確立以外にないと確信するに至った。
明治10年代には、国民にとって天皇は権力的には徳川家に代わって日本の支配者となったものである、という以上の存在ではなかったから、国民統合のため何とかこれに絶対的権威を持たせようと試みたのである。
その政治的表現が明治憲法であり、「天皇は神聖にして侵すべから」ざるものとされたのである。
他方、その思想的表現が1890年の「教育勅語」であった。天皇制の思想的基盤確立のため、それは神聖なものとして受けとらなければならなかったのであり、親署のあるものに対しては拝礼こそふさわしいもの、とされたのである。
内村は唯一の神以外に拝すべきものはないと考えた。そこに内村の天皇制との戦いがあったし、天皇制の側から激しい攻撃が起こったゆえんでもある。
内村は非国民として社会的に葬られ、それから数年流竄の生活を送らなければならなかった。それは天皇制とキリスト教に代表される反皇帝崇拝との最初の激突であった。
もう一つの内村の社会的不義との戦いは、日露戦争に際しての反戦の戦いである。
内村は元来愛国者であり、世界史における日本の使命を重く考えていたから、日清戦争に際しては、この戦争は朝鮮民族をその隷属的状態から解放しようとする義戦であると考え、「日清戦争の義」と題する英文の一編を書いて、世界に訴えることさえした。
しかし彼は、戦争が終わると賠償金をとり、領土の割譲を要求し、朝鮮に利権を求める日本を見て、自分の考えが間違っていたことを思い知らされた。
「余輩の如き馬鹿者ありて彼等(日本の指導者)の宣言を真面目に受け、余
輩の廻らぬ英文を綴り、「日清戦争の義」を世界に訴うるあれば、日本の
政治家と新聞記者とは心密かに笑って曰う「善いかな彼れ正直者よ」と。
義戦とは名義なりとは彼等の智者が公言を憚らざる所なり」
(「時勢の観察」1896年)
このようなにがい経験をもった内村は、日露開戦に際しては断乎反対の立場をとった。その頃、彼は「万朝報」の客員として論陣を張っていたのであるが、「万朝報」が開戦論にふみ切った時、社会主義者の幸徳秋水、堺枯川とともに退社した。
しかし、幸徳、堺が社会主義の立場から反戦を主張したのに対し、内村は自分のよって立つキリスト教信仰のゆえに、開戦に賛成した「万朝報」に止まりえないと決断したのである。
「小生は日露開戦に同意することを以て日本国の滅亡に同意することと
確信いたし候。然りとて国民こぞって開戦と決する以上は之に反対する
は情として小生の忍ぶ能わざる所に御座候。然りとて又論者として世に
立つ以上は確信を語らざるは志士の本分に反くことに存候」。
戦争は神の愛と正義に反するがゆえに、必然的に亡国につながらざるをえない、というのが彼の言わんとするところであった。彼の社会悪との戦いは、つねにこの原点に立っていたことにその特色がある。
このような内村の戦いを通して明らかなことは、彼が不義と考えることに対して一切の妥協を排した、ということである。それは彼が霊魂と呼んだ人間存在の根源を、常に自らの前において問題としたからである。
「この世では、貴いものといえば、すぐに生命と財産であると申します
が、しかしこれとても霊魂ほどに尊いものではございません。それゆえ
に聖書には「人もし全世界を得るとも、その霊魂を失わば、何の益あら
んや」と書いてあります。
……ゆえに聖書にまた「身を殺して魂を殺すことあたわざる者を恐るゝ
なかれ。ただなんじら、魂と身とを地獄に滅ぼし得るものを恐れよ」と
書いてあります」(『宗教座談』1900年)。
彼にとって区々たるこの世の成功や不成功は問題ではなかった。事業を成功させるために政治や社会と妥協することを、彼はいっさい拒否したのである。彼の思想と行動の特色は、そこから生じた潔癖さにある、といってよい。
「幸福のあるところ」と題する所感(1905年)に、彼はこう記している。
「幸福は政治の外にある。政治に野心がある、奸策がある、結党がある。
政治は清浄を愛し、潔白を求むる者の入らんと欲するところではない。
幸福は教会の外にある。教会に競争がある、嫉妬がある、陥穽(かんせい)
がある。教会は神の自由を愛する者の長くとどまるところではない」。
この「潔白主義」が彼の魅力の根源であるとともに、多くの反発と批判とを生み出す原因ともなった。それが彼を困窮に陥らせたにもかかわらず、自分の立っている場こそ、神の正義の場であると確信し、やがて神の正義が勝利をえることを待ち望んで動じなかったのである。
彼の特愛の人物の一人はクロムウェルであったが、「彼の理想と信仰とは確固として動かず、彼は彼の事業の永続すべからざるを知るといえどもなお彼の最初の理想に向って進み、内乱再起の徴あるも顧みず、彼の勝算全く絶えしにも関せず、終生一主義を貫徹して死せり」(『基督信徒のなぐさめ』)と記すとき、それは内村自身の身の処し方でもあった。
内村の目から見ても、クロムウェルの事業は失敗であった。「彼の事業は一つとして跡を留めざるがごときに至れり」である。だが内村は、神の正義が実現することを疑わなかった。その後のイギリスの歴史は、クロムウェルの理想が徐々に実現したことを示している、というのである。
「コロムウェルありしが故に英国に十八世紀の革命なかりしなり、仏王
ヘンリーの譲退(プロテスタントからカトリックへの改宗)は、仏国民一
百年間の堕落と流血とを招き、コロムウェルありしが故に英国民は他欧
州国民に先立つ百年すでに健全なる憲法的自由を有せり」。
内村は札幌農学校で自然科学を学んだ。そして、当時キリスト教にとって大きな問題であった進化論も、神の摂理の中で理解していた。それゆえ、内村の歴史観の中には、神の計画に媒介されたある種の進歩史観が存在していた。神の正義の実現も、この史観によって支えられていたと言ってよい。
だが、この神の進歩史観は、第一次大戦の勃発とアメリカの参戦とによって、大きく動揺せざるをえなかった。神の正義はこの世の不義に打ち勝って、一進一退はあっても、徐々にその勢力を拡大していくという彼の信仰は、重大な試練に直面したのである。
「米国の堕落ここに至りて、人類の望みはもはや断絶したりと言わざる
を得ないではないか、今や平和の出現を期待すべき所は地上いずこにも
見当たらないのである。
かくのごとくにして、余の学問の傾向と時勢の成り行きとは、余をし
て絶望の深淵におちいらしめた。余はここに行きづまったのである」。
(『聖書之研究1918年』)
ここで内村の歴史観は一変する。彼の三回目の「大変化」である。彼は終末の信仰に目覚めることによって、全く新しい視座を確立したのである。
「余は、キリストの再臨を確信するを得て余の生涯に大革命の臨みし事
を認むる。これ確かに余の生涯に新時期を画せる大事件である。
この事がわかってすべてがわかるのである」(『聖書之研究』1918年)。
神の正義とそれをおおい隠すこの世の不義との、ますます高まる緊張関係は、終りの日に神が勝利するという終末の信仰の中で解決されたのである。
自由主義的な楽観的な信仰と神学と思想とが支配的であった、この第一次大戦の当時に、それを乗りこえた内村の苦闘と信仰の成果とは、日本の思想史の中においても記憶されるべき一事件といってよいであろう。
3 思想の座標軸
以上記した内村の思想は、またその戦いは、今日のわれわれにとって、どのような意味があるであろうか。それは一言でいえば、明確な座標軸をもっていたということである。
丸山真男は「日本の思想」の中で、日本の思想の特色として、「すべての思想的立場がそれとの関係で―――否定を通してでも―――自己を歴史的に位置づけるような中核、あるいは座標軸に当る思想的伝統は、わが国には形成されなかった」ことをあげて、
「近代日本においてこうした意味をもって登場したのが、明治のキリスト教であり、大正末期からのマルクス主義にほかならない。つまりキリスト教とマルクス主義は究極的には正反対の立場に立つにもかかわらず、日本の知的風土においてある共通した精神詩的役割をになう運命をもったのである」と記した。
内村はそのような座標軸をもって、流れに抗した日本思想上の代表的人物といってよいであろう。
たしかにキリスト教は、明治前半期において、その全く新しい価値体系のゆえに、日本の伝統的社会と悪戦苦闘しながらも、その基軸を動かすことがなかった。
だが、天皇制の確立過程において、内村が不敬事件の中で流竄の生活を余儀なくされている頃、キリスト教の大勢はしだいに天皇制社会との妥協を図るようになっていった。内村の教会批判はこの頃から顕著となる。
教会の主流が日露戦争に協力したあとで、内村はこう記した。
「戦争開けて盛んに戦争を謳歌し、平和成りて直ちに平和協会を興す。
これ今日のキリスト信者のなすところなり。言ありいわく、「生ける魚は
水流に逆らいて游ぎ、死せる魚は水流とともに流る」と。
かつて一回も世に逆らいしことなく、常にその潮流にしたがいて往来す
るわが国今日のキリスト信者は、死せる魚の類にあらずして何ぞや」
(「死魚の類」1907年)
それは誠に辛辣な批判である。キリスト教という座標軸をもっているはずの信者たちが、時代と共に流れていくことに内村は我慢がならなかったのである。
ところで、座標軸という限り、横軸と縦軸とがなければならない。この二つがあって始めて位置づけができるのである。日本に座標軸がないというのは、実をいえば、横軸だけがあって縦軸がない、ということにほかならない。
流れのまにまに流されるということ、内村流にいえば、「死魚の類」というのは、横軸との関係で動いて行くということである。日本人が人生について楽観的で、処世に比較的巧みであるということは、横軸だけを見、それとの距離を適当にとりながら人生を処していることを意味している。
内村が育ち、内村が取りまかれていた日本の社会が、横軸一つの社会であったから、彼自身の中にもそのように生きようとする誘惑が弱くはなかった。
「正義公道とは天使の国においては実際に行わるべけれども、この人間
の世界においては多少の法略と混合するにあらざれば決して行わるべき
ものにあらず、汝今日より少しく大人気なれ、真理だとか愛国だとかい
うことは好い加減にせよ、
然らざれば汝自身失敗に失敗を重ねるのみならず、罪なき汝の妻子父母
も汝とともに悲哀の中に一生を送らざるを得ず、かつまた汝の益せんと
する公衆も汝の方法を改むるにあらざれば汝より益を得ることなし。
ああ誰かこの巧みなる論鋒に敵するものあらんや」(「基督信徒のなぐさめ」)。
これはまさに日本的発想であるが、内村は断乎としてこのサタンの誘惑を退ける。神の「正義は事業より大なるものなり」というのである。内村の思想と行動とは、もう一つの軸、神の義という軸があって、彼を規定していたが故に、彼は人生の途を基本的に踏みはずすことはなかったのである。
内村が不敬事件で世の非難攻撃を受けていた時に、帝国大学教授井上哲次郎は、教育勅語とキリスト教は相入れないものとして、「眇(びょう)たる内村鑑三」の姿勢を論難した。
先に記した山県五十雄は、この二人を対比してこう記している。
「「眇たる」先生は今日大思想家として世界的に知られ、眇たらざりし井
上博士の名はこの狭い日本に於ても覚えている者は殆ど無い。何故この
ような廻(めぐ)り合わせになったかというと、内村先生の思想には真理と
いう確固たる根底があり、従て不滅であるが、井上博士の学説は時の潮
流に迎合して作り上げられたのであるから、時代が変るにつれて捨てら
れたのだと私は思う」。
言い換えれば、井上には横軸だけしかなかったのに対し、内村は縦軸ももっていたがゆえに、時代をこえた思想的内実があった、というわけである。
ところで、内村のこの縦軸と横軸は、またしばしば「二つのJ」、JESUS と JAPAN というようにも表現される。
「二つの美わしき名あり、その一はキリストにしてその二は日本たり。
前なる者は理想の人にして後なる者は理想の国たり、吾人はかれとこれ
とのために尽して吾人の生涯は理想的ならざるをえず」(「美しき名二つ」
1901年)。
「私共にとりましては、愛すべき名とて天上天下唯二つあるのみであり
ます。その一つはイエスでありまして、その他は日本であります。二つ
ともJの字を以て始まっておりますから、私はこれを称して二つのジェ
―の字と申します。私共は、この二つの愛すべき名のために私共の生命
を献げようと欲(おも)うものであります」(「失望と希望」1903年)。
二つのJは二つの平行線ではない。それは前述の座標軸でいえば縦軸と横軸である。縦軸であるイエスと交叉し、その照射の中にある限り、横軸である日本は「理想の国」であり、そのために生命を捨ててもよいものであった。
もっとも彼が愛した日本は、われわれの前に展開する国土でもなければ、国民でもなかったし、まして日本の政治的現実でもなかった。彼によれば「日本国は精神にして、ソールなり」(「日本」1901年)であった。日本の存在の根源といってもよいであろう。
それは現実の日本というより、内村によって思われた日本、「理想」化された日本であった。
かつて家永三郎は内村の「武士道」に対する理想化を批判して、「内村が武士道と考えていたものは、実は彼が西洋から学んだピューリタン主義を日本に投射して画き出した幻影に過ぎぬ」(「近代精神とその限界」1950年)と記した。
だが、内村は現実の日本や武士道の問題性を知らなかったわけではない。したがってしばしば、日本の状況を罵倒し、武士道の限界も指摘した。たとえば後者について次のように記している。
「「武士道」即ち日本の道徳にて十分である、これは基督教その者より高
くして偉大である、と信ずることは、誤謬である。それはこの世の一つ
の道徳にすぎない。
……その美しさに拘らず、それは万邦無比の富士山のごとくである……
万邦無比である、併(しか)し活動することなき死火山である」(「代表的
日本人」ドイツ語版跋)。
縦軸のゆえに、横軸もその存在の意義を高められると同時に、その限界を示され、相対化されることとなるのである。それゆえ、日本をいたずらに批判することも、無批判に讃美することも、内村のとるところではなかった。
日本を、そして世界を相対化することができたのは、縦軸という絶対的な軸があったからである。彼は「革命の希望」(1903年)と題する短文で、こう記している。
「日本人によって日本国を救わんと欲(おも)うことなかれ。神によって日
本国を救わんと欲うべし。日本国の多数は詐欺師なり、偽善者なり、収
賄者なり、神の聖名を汚すものなり。
しかれども神は日本人全体よりも強し、しかして神は日本国を愛し給う。
ゆえにわれらは神に頼りて日本人多数の意向に反して、われらの愛する
この日本国を救うをうるなり」。
4 緊張関係と動揺
だが、縦軸と横軸とをもったということは、内村の思想と行動とがこの座標軸の中で安定していた、ということを意味するものではない。内村はこの二つの軸で区切られた世界の中で、きびしい緊張関係におかれ、しばしば動揺した。内村が「矛盾の人」と呼ばれるのは、この動揺のためである。
彼が日露戦争に対して反戦の戦いをしたのは、縦軸に対して真実でなければならないと決断したからである。ところがその彼が、日本海軍の勝利を聞いて「帝国万歳」を叫んだのは、横軸に傾斜したがゆえであった。
二つの軸をもつことは、その立脚点を測定するには好都合であるが、どこに立つべきかを決断する際には、深刻なディレンマに陥る。日露開戦に際しては反戦を主張した内村も、戦争突入後には自らの立脚点をどこに定めるべきか、大いに迷わざるをえなかった。
「出征軍を送って感あり」と題する一文(1904年)で、内村はその苦悩をこう記している。
「今の時にあたって不可能事を企てて直ちに戦争を廃せんとする何の益
かある。戦争は非戦論を唱えて止むべきものにあらずして、キリストの
福音を伝えて廃すべきものなるべし。
ああ、われは覚れり、われは千百年の将来を期して、わが目前に目撃す
る惨事を根絶せんために、わが世にあらんかぎりさらに熱心にキリスト
の福音の宣伝に従事せん」。
この点で、開戦後もなお反戦の運動をやめなかった幸徳や堺ら社会主義者とは、その姿勢を異にすることとなったのである。
内村は横軸である現実社会における抗しがたい悪の勢力に対抗しうるものは、縦軸である神の力以外にないと考えたのである。この緊張関係はやがて第一次大戦後に、再臨信仰として彼の中で解決されることとなったわけである。
ところで、内村の座標軸の中での動揺と、そこから生まれた彼の言動の矛盾には、もう一つの問題があった。彼の横軸の二重性である。
彼は日本を熱愛した。日本にこそ真のキリスト教が、武士道の廉直(れんちょく)、誠実と結びついて生れうる、とも考えた。しかし、その場合の武士道は、先にも指摘したように、現実の武士道ではなく、内村の中で昇華された武士道以外の何ものでもなかった。
そこで言われる日本も、決して現実の日本ではなく、彼の中で「理想」化された日本であった。もちろん彼は、前述したように、現実の日本や武士道に眼を閉じていたわけではない。
「キリストを信ぜざる武士は野蛮人である」ことを認めた上で、「武士がその魂を失わずして直ちにキリストを信ぜし者が余輩の理想」(「キリストと武士」1903年)ということになっている。
このような縦軸の規制がきいている時、彼の論理の切れ味はよいのであるが、しばしば縦軸からの照射のない横軸の讃美論も聞かれる。このような傾向がもっとも顕著に現われたのは、彼が非国民として非難攻撃されている流竄の生活の中で、彼の愛国の熱情をこめて書いた「日本および日本人」である。
その中で内村は、たとえば「新日本の建設者」として西郷隆盛をとりあげ、「彼の偉大はコロムウェル的の偉大であった。ただ彼にピューリタニズムがなかったために、彼はピューリタンでなかっただけであると思う」と、最大限の賛辞を呈している。
しかも、「我国の歴史に二人の最も偉大な名を挙げるならば、余は躊躇なく太閤秀吉と西郷隆盛を指名するものである。両者は共に大陸的雄図を懐き、全世界をその行動の分野として有っていた」とさえ記している。
もっともこれは、彼の「日清戦争の義」と同じ時点で書かれ、同じ視点に支えられていたということも指摘しておかなければなるまい。
内村が武士道を高く評価し、日本を愛し、農村を愛す等々という時、そこに内村の中で思われた武士道や農村や日本だけでなく、しばしばありのままの日本や農村が、愛や讃美の対象として姿を現わす。そこに彼の横軸の二重性があった。
とはいえ、それらは必ず縦軸との関連の中でとらえられたから、流れのまにまに流されることはなかった。
内村の座標軸との関連で、社会主義の座標軸が何であったかに一言ふれておく必要があろう。彼らもまた時代の流れのままに流される存在ではなかった。幸徳や堺らは日露戦争に際して、内村より頑強に反戦の姿勢を貫いた。
その座標軸は何であったのか。それは一言でいえば、マルクス主義の唯物史観も含めた意味で、進歩史観であったといってよいであろう。
社会の変革を通して人類の理想社会はやがて実現する、それは歴史の発展の必然的方向である、という確信である。内村も第一次大戦後再臨信仰に立つまでは、このような進歩史観に立っていたことは、前述したとおりである。
明治の社会主義者たちの多くは、スペンサー的な社会進化論の影響を何らかの点で受けていた。彼らが社会の流れに逆い、非国民といわれようともその節を守っていけたのは、社会主義の実現は「世界の大勢」であり、「歴史の必然」であると考えたからである。
この点は昭和初期における共産主義の運動についても本質的に異ならない。もちろん、この「世界の大勢」は、必ずしも現実の世界の動きを示すものではない。そこには反動もあれば動揺もある。しかしそれらを貫いて、歴史は目標に向かって前進する。それが歴史の法則であると確信していたのである。
この確信が社会主義者の縦軸であった。流れのまにまに流される横軸一つの日本の伝統の中で、歴史を切るこの縦軸をもった点に、昭和初期のマルクス主義の新鮮さがあったわけである。
丸山が、明治のキリスト教と大正末期からのマルクス主義が、正反対の立場に立ちながら、「日本の知的風土においてある共通した精神史的役割をにな」ったというのは、以上のように解しなければなるまい。
内村が縦軸と横軸との間で動揺したように、マルクス主義者もこの二つの軸の間で苦闘し、しばしば躓いた。
5 内村鑑三と現代
横軸しかなかった日本の社会に、縦軸を持ちこんだ明治のキリスト教は、社会の流れに激しく抵抗しなければならなかった。内村の不敬事件はその代表的かつ象徴的な出来事であったと言ってよい。この激流にキリスト教はしばしば押し流された。
そのような中で毅然として立ち続けたという点で、内村はきわ立っていた。内村自身その点をはっきり自覚していた。彼は日本の預言者たろうと志したのである。
「われは預言者たるべし、祭司たらざるべし」(1909年)。このような自覚は、早く彼がアメリカの精神薄弱児施設で働いていた時に与えられたものである。
彼は預言者エレミヤの書を読んで感激した。「余はキリストと彼の使徒たちからは如何にして余の霊魂を救うべきかを学んだ。しかし預言者たちからは如何にして余の国を救うべきかを学んだのである」。憂国の預言者に、彼は座標軸の中に設定すべき自己のあり方を見出した。
ところで、預言者とは神の言葉を預ったもののことであって、本来予言者でも先見者でもない。未来について語り、将来について警告するものではなく、現に生じつつある事態について、神がいかにこれを見、いかに判断しようとしているかを、神に命じられて語るもののことである。
歴史の流れに押し流されない判断の基準、縦軸をもっているが故に、社会の姿に対してきびしい批判を行なった。
内村の主要関心事もまた彼の前に展開しつつあった日本の姿であった。教育勅語やその親署に拝礼をすることを拒否し、資本家の暴虐を糾弾し、日露開戦に反対した。それは彼の信仰が許さず、愛する祖国の運命を心痛したからである。
しかし、彼は社会の病根が深いものであることを、幾度となく思い知らされた。彼は日本の亡国さえ預言する。
「われわれが愛するこの国を今日直ちに済いえざるべし。わが小なる事
業が救済の功を奏するまでには、わが国は幾回となく亡ぶることもあら
ん」(「わが愛国心」1904年)。
「誰か知らん、日本国の真の興隆は彼が悲境の極に達した後にある事を。
……日本人の世界的勢力もまた、亡国とまでは至らざるも、その第一等
国たるの地位を抛(なげう)ちて後の事であると思う。神が今、日本国を
むち打ちたまいつつあるは、この準備のためではあるまいか」(日本の天
職」1924年)。
日本は第二次大戦後、帝国主義を放棄し、軍国主義を廃し、明治的天皇制を廃棄した。それらに代わったのが「民主主義」であった。しかし、縦軸のない民主主義はエゴの限りない自己主張に転落する。経済活動だけが拡大され、発展し、人間自体はしだいに空洞化している。
こうした主体が衰弱した民主主義は、急速に活力を失いつつある。民主主義自体が歴史の流れの中で浮遊しはじめたのである。今日、内村鑑三をあらしめたならば、このような事態に対して何と言うであろうか。
縦軸のない日本社会は、くり返し述べたように、元来浮遊することをもって良しとしてきたのである。流れに掉させば流されるのである。
戦後民主主義は縦軸の代用物の役割を果たしてきたが、流れの早さに押し倒されようとしている。
世界情勢の急転回の中で、再軍備を見直そうとする動きが顕在化する一方、平和憲法押しつけ論がしだいに力をえようとしている。
内村流にいえば、平和憲法は神が占領軍を媒介として日本に与えたものである。だが、縦軸のないところでは横軸の流れだけが方向を決定する。マルクス主義も今日では座標軸の役割を果たしえなくなっている。
あれこれの手当では、歴史の流れを止めることは困難である。そこに今日の日本の真の危機がある。座標軸の構築こそが、内村が日本の思想史に残した遺産であり、その再構築が今問われている。
完