全集第23巻P237〜
義なるキリスト
大正6年(1917年)5月10日
「聖書之研究」202号
4月22日諏訪湖畔における本誌読者の会合において述べたこと
其日ユダは救(すくい)を得、イスラエルは安(やすき)に居らん。其名は「エ
ホバ我等の義」と称(とな)へらるべし。(エレミヤ記23章6節)
汝等は神に由りてキリスト・イエスに在り。イエスは神に立られて、汝
等の智慧また義また聖(きよき)また贖(あがない)となり給へり。
(コリント前書1章30節)
◎ キリストは単に私達を義とする者ではない。私達の義である。そして私達の義であるので、私達を義とする者である。
世に義人はいない。一人もいない。昔もそうであったし、今なおそうである。そして義人でなければ、神の前に立つことは出来ない。ゆえに人と言う人は、一人も神の前に立ち得ないのである。
ところがここに、一人の義者がいたのである。即ち「
義なるイエス・キリスト」(ヨハネ一書2章1節)である。
彼だけは聖父(ちち)が完全であるように完全な人であって、聖父の喜ばれる者、その聖意(みこころ)に適う者であった。
彼は神の子であって、また真(まこと)の人であった。彼に在って、義は完全に行われたのである。
◎ 私達は不義の子である。神の子と称えられるに足りない者である。ところが神は、私達を憐れんで下さる。
その限りない憐憫(あわれみ)により、その独子(ひとりご)子を世に降して、彼に完全(まった)き人としての生涯を送らせ、義を完全に行わせ、そして彼を人類の代表者としてお受けになり、彼に在って人類を赦し、これを義とし、聖(きよ)め、かつ贖って下さった。
神は今やキリストに在って、人類を見ておられるのである。神の眼中に今や罪に死んだ人類はなく、ただ義に生きた人の子即ち人類の代表者であるキリスト・イエスがあるだけである。
そのような次第で、人は自己が罪に死んだことと、キリストが自分に代って義を完行(まっとう)して下さったことを自覚し、かつ告白すれば、その時直ちに救われるのである。
私達は既に贖われた世に在るのであるから、贖われたことを自白する時に、直ちに贖われるのである。私達は今から奮闘努力して、義を完行(まっとう)して神の前に立つ資格を作る必要はないのである。たとえまた、その資格を作ろうと思っても、とうてい作り得ないのである。
私達は
信仰により今直ちに、イエスの義を私達の義とすることが出来るのである。私達がイエスを信じれば、神はイエスに在って私達を見て下さり、彼の義を、私達の義として認めて下さるのである。
恩恵の極とはこの事である。私達は不義の子であるにもかかわらず、キリスト・イエスを信じるという理由で、彼の義を私達の義とすることが出来て、神が義なるイエスを扱われるその扱い方を自分に受けることが出来るのである。
「
イエスは神に立てられて、汝等の義となり給へり」と言う。イエスが信者の義である。私達の志操、品性、善行のどれもが、神が私達に要求される義に適うことが出来ない。
私達は、私達の罪のゆえに渡され、私達が義とされたので甦らされたイエスを私達の義として、恐れることなく聖父(ちち)の台前に立つことが出来るのである。
◎ イエスは私達の義である。私達は自分で織った義の衣を着て、王の婚筵の席に出るのではない。イエスを私達が義の衣として着て、王の招きに応じるのである(マタイ伝22章)。
これこそは潔(きよ)くて光ある細布の衣であって、「
此細布は聖徒の義なり」(黙示録19章8節)とあるその義の衣である。善者もこれを着て王の前に出ることが出来る。悪者もまたこれを被って聖筵に与かることが出来るのである(マタイ伝22章8〜12節)。
信者はイエスに在って神に至り、神はイエスに在って信者を受けて下さるのである。神は人から完全な義を要求されて、これをイエスにおいて得られたのである。そして人は、イエスに在って神のこの要求に応じることが出来るのである。
こうして神はイエスを信じる者を義として(義人として扱われて)、なお自ら義であられるのである(ロマ書3章26節)。これは新約聖書が明らかに示している教義である。
人はその品性により、人格により、善行によって神の前に義とされるであろうとは、今人が唱えていることであって、聖書が教えていることではない。
◎ イエスは信者の義である。ところが現時のキリスト信者はこれに対して言うのである。もしそうであるならば、人は神の恩恵に慣れて、安んじて罪を犯すようになるであろう。ゆえに恩恵は恩恵として残し、その他に人の側における奮闘努力を主張しなければならないと。
実に信と行(ぎょう)とを折衷した、賢い言葉のように聞こえる。しかしこれは、神の義が何であるかを知らない者の言葉である。そしてまたそのようにしては、信も行も挙がらないのである。
信は単純であることを要する。行を混じた信は、不純なので微力である。そして信を混じた行は、信なき行と変じ易くなる。そして信を離れて、行は無効に帰するのである。
信は単純であって能力(ちから)があるのである。自分の義を離れ、神の子イエスの義を自分の義と信じて、我が信は興(おこ)り、行もまた挙がるのである。
これはパウロ以来、アウグスティヌスを経てルーテルに至り、また彼等によってすべて信仰によってイエスの義を自分の義として受けた者が実験したことである。
信と行とを併(あわ)せて説けば、信は冷え、行は衰える。行を離れた信を説けば、信は興り、行もまたこれに伴う。これは人類の信仰史が等しく証明するところである。
欧州においてはルーテルとカルビン、我が国においては法然と親鸞、彼等は等しく行を離れた信を説いて、死んだ宗教を復活させて、新光明を霊界の深い所に放ったのである。
◎ 私達の義は、私達が救われることに関係がないと言うならば、私達は義を行わないであろうか。いや、そうではない。
私達は実に救われるために義を行おうとしない。私達に救拯(すくい)を獲させるものは、イエスの義である。私達の義は、私達を神の前に義とするに足りない。
しかし、既に神の子によって神の前に義とされているので、私は今や安んじて人の前に自己を義とする行為に出ることが出来るのである。
即ちイエスによって神に対する私の大負債を弁済することが出来て、人に対する私の小負債を容易く弁済することが出来るようになるのである。
この世のいわゆる道徳は、すべて人に対する道徳である。私の隣人に対して私が負うもの、これを称して道徳または義務と言うのである。
ところが不信者の場合においては、神に対する負債が重いので、人に対する負債を償(つぐな)う余裕がないのである。常に良心に責められながら人を愛し、その要求に応じることが出来ないのである。
ところが神に招かれて、彼がその聖子に在って行って下さった罪の贖(あがな)い、即ち負債の弁済の恩恵に与かることが出来て、私の負債は著しく軽減され、その結果として私は容易く人に対する義務責任を果し得るようになるのである。
キリスト者が行(ぎょう)を離れた信を高唱するに関わらず、この世の善行において、常に不信者に勝るのは、全くこのためである。
人は誰でも、彼が自覚するかしないかに関わらず、神に対して大きな債務を負う者である。これを果さなければ、彼は重荷を担う者である。ゆえに必然的に陰鬱(いんうつ)であり、厭世的であり、怏々(おうおう
:心が満ち足りないさま。晴れ晴れしないさま)として人生を楽しみ得ないのである。
しかし、一朝神が、その子によって人類の神に対する負債を悉(ことごと)く拭い去って下さったことを悟り、自分も信じてその恩恵に与かることが出来て、彼が担っていた重荷の大部分は取り除かれ、残る小部分は容易くこれを担えるようになるのである。信が興って行もまた挙がる説明は、この辺にあるのであると思う。
◎ しかし、事はここに止まらないのである。神に対する負債償却と同時に、大きな特権と栄光とが、私達に加えられるのである。
呪詛(のろい)が私達を離れると同時に、恩恵は私達に臨むのである。イエスの義を私の義として、彼の栄もまた、私の栄となるのである。イエスに臨んだ復活と昇天と永生との栄光が、私にもまた臨むのである。
栄光はすべて、義の付随物である。イエスの義があって、彼に臨んだ栄光があったのである。
人は生まれながらにして復活し得る者ではない。義の結果として、あるいはその報償(むくい)として、復活するのである。イエスが復活されたのは、彼が義を完行(まっと)うされたからである。
そして私達は、信仰によってイエスの完全な義を自分の義とすることが出来て、イエスに臨んだ復活永生の栄光がまた、自分にも臨むのである。
ああ、神の愛は何と大きいのであろうか。罪人である私にもまた、復活永生の恩恵が臨むと言う。そしてそれが臨むことに、明白な理由があるのである。
完全な義の結果として臨むのである。しかも罪人の場合においては、これに与かる資格が無いのである。ゆえに神はその独子(ひとりご)を送り、彼に罪人に代って(彼等を代表して)義を完全に行わせて、彼等に、信仰によって彼の義を自分の義とさせ、彼の義に伴う栄光に与らせられると言う。
この事を覚って、私達はパウロと共に叫ばざるを得ないのである。
或ひは死、或ひは生、或ひは今在る者、或ひは後在らん者、或ひは高き
或ひは深き、また他の被造物(つくられしもの)は、我等を我主イエス・キ
リストに由れる神の愛より絶(はなち)すること能(あた)はざる也。
(ロマ書8章38、39節)
と。
◎この大感謝と大歓喜とがあるのだから、私達は善事に活動しまいと思っても、それは出来ない。
かつてクロムウェルが言ったことがある、「私は既に神から大金の前払いを受けているので、大いに彼のために尽さざるを得ない」と。そしてこの感恩の念に励まされて、英民族の自由は起ったのである。
感恩の念に励まされずには、大事は挙がらない。単に理想を追ってではない。また義務に追われてではない。感謝の念に励まされて、キリスト教国におけるすべての大事は為されたのである。
偉大な絵画、偉大な音楽、偉大な建築、偉大な慈善、その他永久的に人類を益し、かつ慰める偉大な事業は、すべてキリストによって罪の束縛を解かれ、内に自由な者となって、歓喜と感謝とに溢れる結果、自ずから善行と成って、外に現れた者である。
神は人から功績をお求めにならない。人に恩恵を施して、人に由って功績を挙げられる。
◎ イエスは私達の義である。信者の義の宝は、イエスと共に神の中に蔵(かく)れている。あたかも大銀行に、大金が彼の名義で預けられているようにである。
そして「
有(もて)る者は与(あた)へられてなほ余(あまり)あり。有たぬ者はその有る物をも奪はるゝ也」であって、
既にキリストに在って神の前に完全な義を有(も)っている信者は、義の追求に焦らないので、反って多くの義を為し、
正義正義と叫んで、義の追求に日もまた足りないこの世の道徳家や教会信者等は、常に義に渇いているので、反って義を行い得ないのである。
私以外、我が救主において私の義を有(も)って、私は義において富んでいる者となって、さらにその上に善行の義を加えることが出来る。即ち私の信仰によって得た大義の上に、さらに自分の行為によって得た小義を加えることが出来る。
この世のいわゆる正義、人道、道徳はみな、神の目の前では小義である。私達は神の大義であるイエス・キリストを我がものとして、容易くこれ等の小義を行うことが出来る。
◎ キリストは、私達の知恵であり、義であり、聖であり、贖であると言う。「知恵」とは、今日の言葉で言えば、哲学である。そして哲学は、宇宙と人生との解釈である。そしてキリストは、信者の哲学、即ち宇宙と人生の解釈である。
即ち、コロサイ書1章15節以下18節までに書かれている通りである。私達キリスト者にもまた哲学がある。私達の信仰は、哲学を避ける者ではない。たとえ哲学の上に立つ者ではないとしても、少なくとも哲学と並立する者である。
しかしそれは、カント哲学、オイケン哲学、ベルグソン哲学と称するような者ではない。
キリスト哲学である。「
万物彼(キリスト)に由りて存(たも)つ(成立する)ことを得る也」(コロサイ書1章17節)と唱える者である。
◎ キリストは私達の義であり、聖であり、贖である。我が道徳であり、宗教であり、救拯(すくい)である。キリストに在って、神に対して私が為すべきことは、すべて為されたのである。
私は、私が不義のこのまま、
キリストを信じて神の義者として彼の前に立つことが出来るのである。
私は私の汚穢(けがれ)のこのまま、
キリストを信じて神の聖者として彼の前に立つことが出来るのである。
私は未だ救われた者ではないけれども、
キリストを信じて既に救われた者として、神に取扱われるのである。完全な救拯(すくい)は神から出て、信仰によって私のものとなるのである。
これはユダヤ人には躓くもの、ギリシャ人には愚かなものである。しかし召された者には、最大の真理、最高の哲学である。真正(まこと)のキリスト教はこれである。
人の義をまじえない神の義を説くので、人が義を怠るであろうことを恐れて、救拯(すくい)の条件として信仰と
共に行為の必要を説く者などは、神の道を乱す者である。
今時(いま)の教会のキリスト教が、生ぬるくて徹底していないのは、その信仰が単純でなくて、複雑だからである。神の義をキリストにおいてだけ求めずに、これを人の義で補おうとするからである。
完