全集第24巻P292〜
マタイ伝第13章の研究
(東京神田三崎町バプチスト中央会堂において 6月23日)
大正7年(1918年)8月10日
「聖書之研究」217号
内村鑑三述、藤井武筆記
聖書の研究は、困難な事業である。その研究の結果、限りない生命(いのち)の泉を汲むことが出来るが、ここに達するまでには、大きな努力を要する。それはあたかも金銀の採掘のようなものである。
金で身を装い、銀で物を飾るのはうるわしいけれども、これを採掘するのは、容易ではない事業である。
聖書もまたそうである。その研究には人の知らない苦心がある。聖書の一言一句を、その前後の関係に照合して穿鑿(せんさく)し、注意に注意を重ねて、その意義を探究しなければならない。
しかしながら、困難ではあるけれども、これは最も貴い事業である。聖書研究の困難を解せず、またその意義を解しない者は、ややもすれば、これを伝道事業と別視するのである。
彼等は言う、聖書学者は伝道をしないと。また言う、もはや聖書を棄て、起って国民を救えと。
しかしながら、聖書研究に勝る伝道はないのである。聖書以外に、他に国民を救う道はどこにあるか。努めるべきは、聖書研究である。勧めるべきは、神の言葉の探究である。
今ここにマタイ伝第13章の講解を試みようとするのは、即ち聖書研究がどのようなものかについて、その例を示したいと思うからである。説教者は多く、聖書中の一句を題文(テクスト)として、縦横に論を進める。これは必ずしも悪い事ではない。
しかしながら、またある時は、マタイ伝もしくはロマ書等の全体について、それが何を教えるかを説かなければならない。一書または一章を題文(テクスト)としての説教もまた甚だ必要である。
マタイ伝第13章は何を教えるか、これが今日の題目である。そしてこの一章が、一つの大きな教訓を与えるものであることを、明らかにしようと思うのである。
マタイ伝第13章は、七個の比喩(たとえ)から成る。そして七は聖書に在って完全を示す数である。七教会、七封印、七福、七日、七年または四十九年等がその例である。そして七個の比喩の内容は、次の通りである。
第一 種播きの比喩
第二 カラス麦の比喩
第三 芥種(からしだね)の比喩
第四 パン種の比喩
第五 隠れた宝の比喩
第六 真珠の比喩
第七 網打の比喩
いわゆる高等批評家は言う、「マタイ伝は、順序を追って編集された書ではない。イエスの事績または教訓をその種類によって選択分類したものである。ゆえに山上の垂訓または奇跡または比喩または預言等を各々その題目の下に一括して記述したに過ぎない。
教訓相互の間または比喩相互の間には、何等の関係もなく、ただ雑然として、籠(かご)の中に投入したようなものである」と。
果してそうであるか。もしそうであるなら、少なくともマタイ伝は、全く文学上の価値を有しない書である。そのような粗雑な編集をしたマタイは、とうてい文学者としての資格を要求することが出来ない。
しかしながら、マタイ伝の価値は、人がよく知っているところである。世界に有名な文学者がこの書を評して、「人類に最大の感化を与えた書」と呼んでいるのである。
そのような貴重な書の記録が、雑然とした羅列に過ぎず、その相互の間に何の関係もなく、一貫してある大きな真理を伝えていないとは、どうしても受取ることが出来ない。
換言すれば、イエスはここに七個の比喩によって断片的に別個の真理を語られたのではなくて、
本章全体が、七個の比喩を使った一つの大説教であることを疑うことが出来ない。
七は完全の数である。ゆえに七個の比喩は、全体として一つの真理を教えるものであって、その相互の間には深い関係があると見るのは、極めて適切な解釈である。そしてこれは、本章を解するための第一のカギである。
次に注意すべきは、七という数の中の四と三との順序である。聖書に在っては四は地の数であって、三は天または霊の数である。
そして見よ、七個の比喩中第一の種播きは、地に属する事である。第二のカラス麦の成長もまた同じである。ゆえに第三第四もまた同様であろうと想像することが出来る。
終りの三つは、明白に天または霊の事である。隠れた宝の発見と言い、真珠の発見と言い、いずれも地以上の事である。殊に最後の網打は審判であって、神が自ら為される事である。四と三、地と天、これは本章を解する上において第二のカギである。
このように解して来れば、本章の意義はますます明白である。即ち
種播きで始まり網打で終る七個の比喩は、神の言葉が初めて地に播かれてから、世の終りに至るまでの福音史を預言した大預言である。
これは一個の仮説であるけれども、確実な根拠に基づく仮説であって、そして七個の比喩の内容は、歴史上の事実と相まって、この説が誤っていないことを証明するのである。
第一の種播きの比喩が教えているのは、キリスト御自身が説かれた福音が、その効を奏することが甚だ少ないという事実である。
そのある者は、路傍に落ちて空中の鳥についばまれ、ある者はパレスチナ地方通有の岩上の土の浅い所に落ちて、直ちに枯れ、ある者はイバラの中に落ちておおわれ、そしてほんの少数の者だけが、沃地に落ちて三十倍、六十倍、または百倍の実(み)を結ぶという。
即ちこれを一言で言えば、福音が説かれると、その実を結ぶものは決して全体ではなくて、わずかにその一小部分に過ぎないということである。これはキリスト御自身の実験であって、また後の事実の預言であった。
それではその沃地に落ちた少数の種は、健全な発育を遂げるかと言うと、そうではない。その中にカラス麦が現れるのである。カラス麦とは、パレスチナ地方に生ずる「チツァニア」であって、結実前は真の麦と区別することが出来ない。
ゆえに農夫はこれを引き抜かずに、収穫の時を待つと言う。即ち少数の麦の間には、偽りの麦が存在するであろうと。これが第二の預言である。
次に来るものは芥種(からしだね)の比喩である。この比喩は、通常福音の膨張力を示すものと解されている。しかしながら、注意すべきはここに来てその枝に宿るという「空の鳥」は、同じ本章の中に既に
悪い者という意味に用いられているだけでなく、聖書の他の部分に在ってもまた同様なことである。
あるいは「空中に権威を握る者」と言い、全て悪魔は上空に在って、人を狙い、あたかも鷹(たか)が小鳥をさらうように人をさらうという思想がある。
ゆえに芥種(からしだね)の比喩もまた、前後の関係からこれを見て、むしろ教会の俗化を表すものと解すべきである。そしてこれは、事実が証明するところである。
キリストの教会は、始は微小であったが、次第に増大して、遂にローマ帝国の国教会となるに至った。かつてユーセビアスはローマ皇帝の卓側(たくそく)に座し、一座の光景を指して言った、「陛下よ、ヨハネ黙示録にいわゆる新しいエルサレムとは即ちこれである」と。
しかしながら、教会がそのように増大して、空の鳥を宿すに至ったその事が、最大の不幸であった。
空の鳥とは何か。悪魔彼自身である。前には福音の種をついばんだ者が、後には自ら教会に入って、勢力を振るうのである。
そして教会は悪魔を迎えれば、一夜にして増大するのである。これは単に欧州における事実だけではない。我国においてもまた同様である。
教会は芥種(からしだね)のように小さく、キリスト者は必ず迫害を免れなかったのは、近い過去の事実である。ところが今や、キリスト教はこの国においても、一大勢力と成りつつある。
富豪はこれを迎え、政治家はこれに近づく。キリスト教会の牧師が、総理大臣の許(もと)に出入りするようなことは、果して何の徴(しるし)であるか。ああ空の鳥は、既に我国の教会にも来て宿ったのである。
第四のパン種の比喩はどうか。パン種は感化力を表すので、この比喩は福音の社会に対する感化力を示すものと解せられる。しかしながら、単に感化力ならば、その反対もまた事実である。
いや、むしろ悪魔の感化力は、福音の感化力よりもさらに顕著である。ゆえにこの比喩の意味は、他にあると見ざるを得ない。
ここにパン種と言い、また婦(おんな)これを取り云々と言う。聖書において、パン種は常に異端の意味に解せられる。キリスト自ら、その弟子に対し、「汝等パン種を慎めよ」と言われたのは、パリサイ派およびサドカイ派の異端を慎みなさいという意味であった(マタイ伝16章12節)。
そしてまた、聖書において婦(おんな)と言えば、たいてい悪い意味に用いられる。ヨハネがテアテラの教会に宛てた書簡中、「汝は……婦(おんな)イエザベルを容れ置けり」とあるのは、言うまでもなく甚だ悪い婦人であった(黙示録2章20節)。
それだけではない。古来異端は多く婦人が作出するものである。現今欧州において勢力を有するキリスト教科学(クリスチャンサイエンス
http://en.wikipedia.org/wiki/Christian_Science )を創始した者は、エディー夫人である。
霊智学を代表する者は、ベザント夫人である。再臨に関する異端第七日アドベンチストの開祖はホワイト夫人である。そしてこれ等の事実が暗示するところは、よく聖書の言葉に適合するのである。
よって知る、パン種の比喩は、教会内部における異端の出現とその感化力とを示すことを。俗化した教会に純福音は迎えられない。ここにおいて、新神学者なる者が現れて、俗物を喜ばす異端を唱える。
そして信者はみな、これに感化される。教会の俗化時代に次ぐものは、異端出現の時代である。これは古今東西の教会史が等しく証明するところである。
それでは福音の前途は全く絶望であるか。教会の歴史は悉く失敗であるか。いやそうではない。神はこの暗黒中にさらに光明を投じられるのである。
教会を挙げて異端に心酔する時に、神がお選びになった少数者が、隠れていた貴い宝を発見するのである。腐敗した群の中に、なお聖(きよ)い男女がいて、この宝を発見し得るのは、実に感謝すべき恵みである。
そしてこの事もまた歴史上の事実であった。多くの注解者は、隠れた宝の比喩を、ルーテルの聖書発見と解する点で一致している。
前四個の比喩については、全く別様の解釈を取る学者も、この点においては一致する者が多い。
隠れた宝とは何か。
聖書である。神の言葉である。教会内に俗物が跋扈(ばっこ)し、異端が横行する時、隠れた聖書の発見があった。そして発見者は、これを胸に抱いて喜び、たとえ教会から破門されて、身を焼かれても、この貴い宝さえあれば足りるとしたのである。
もし宝の比喩が、本当に聖書の発見であれば、次に来る真珠の発見の意味もまた、探るのは難しくない。宝とは、宝の一団の意味であって、箱または鞄(かばん)等に収められたものと見ることが出来る。
ところが真珠は一個の宝である。即ち一団の宝の中でもさらに貴いものである。始に宝の発見があり、次にその中のさらに貴い真珠の発見がある。
聖書中の最も貴い真理とは何であるか。贖罪か、復活か、昇天か、この点について私達は独断的であってはならない。しかしながら、A.J.ゴードン(
http://en.wikipedia.org/wiki/Adoniram_Judson_Gordon )等が説いた
真珠とは再臨の真理であるという説明は、侮れない思想である。
再臨を聖書の中心的真理と信じて、これのためには自己の一切の所有を放棄するのも顧みないとなす者は、決して少なくない。私自身にとっても、再臨を信じて聖書全体がさらに価値あるものとなったのである。
宝の発見に続いて真珠の発見がある。このようにして、俗化した教会に光明は臨むのである。
そして最後に網が打たれるのである。善も悪も一度は神の前に出て、火に焼かれ、その価値を試される時が来るのである。
真の信者も偽の信者も最後にはキリストの台前に立って、大きな審判を受ける日が来るのである。
聖書は、近代人が考えるような、進化的審判を説かない。教会が徐々に発達進歩し、全世界を包容する黄金時代を実現すべきであると言うような思想は、聖書と全然相容れない思想である。
聖書は明白に善と共に悪が成長するであろうと預言する。そして最後に審判が行われることを預言するのである。
このように解釈すれば、七個の比喩は、全体として一貫した大真理を教えるのである。
福音の種は播かれるが、これを受ける者は少数に過ぎない。そしてその少数者中にさらに偽りの信者が入って来る。そうして教会は俗化して、富豪、政治家等に近づき、神学者は彼等におもねって、異端を唱える。
しかし、悪魔の子等の間にまた神の子が現れて、隠れた宝および真珠を発見し、それによって死に瀕した教会の復活がある。そして後に最終審判は行なわれるのである。
ゆえにマタイ伝第13章は、一つの大預言である。その中に死の半面があり、また生の半面がある。暗黒がありまた光明がある。神の深い真理が、明白に伝えられるのである。
そして本章だけでなく、マタイ伝全体がそうである。いや、聖書全体がそうである。
聖書は、個々の言葉を単独で読めば、その意味を取るのが誤りやすい。しかしながら、その全体を読んで、キリストの精神の存する所を受けるなら、私達の霊を充実させると共に、またこれを寛容にし、深さと共に広さを与える点で、この書に匹敵するものは、他にないのである。
聖書研究の秘訣はここにある。これは実に、何物を以てしても代えることの出来ない、貴い事業である。
付記: 近頃ある人はキリスト再臨の信仰を起し、歓喜に耐え難く、そ
の所有の全てを持って来て言った、「今慎んでこれを聖前に献げる。願
わくはこれが福音宣伝のために使用されることを」と。
こうして、「一の値(あたい)高き真珠を見出さばその所有(もちもの)を尽
(ことごと)く売りて之を買ふなり」とある聖書の言葉にかなった。
完