全集第24巻P419〜
イエスの系図について
(マタイ伝第1章の研究)
12月第2安息日クリスマス準備講演として青年会館において述べたことの大意
大正8年(1919年)1月10日
「聖書之研究」222号
◎ 新約聖書は、乾燥無味の系図を以て始まっている。実に人を引き寄せるには最も拙劣な方法である。いわく、誰、誰を生むと。そしてその名が四十二もの多さに達するのである。
何故にイエスの山上の垂訓を以て始めないのか。何故にパウロの愛の讃美を以て始めないのか。
アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み云々と劈頭(へきとう)第一に掲げて、読者はこれに辟易(へきえき)して、神の言葉であると称せられる聖書を捨てるに至るのではなかろうか。これは、パンを求める者に石を与える類ではなかろうか。
論語は「学んで而(しか)して時に之を習ふ、亦(また)説(よろこ)ばしからずや」を以て始まり、法華経、阿弥陀経、太平記はみな相応の美辞を以て始まる。
ところが新約聖書だけは、「アブラハムの裔(すえ)にしてダビデの裔(すえ)なるイエス・キリストの系図」と言って、発音しにくい人名の羅列(られつ)を以て始まる。無愛想もまた甚だしいではないか。
書の本質は、その劈頭の一句に表れると言う。本当にそうであるならば、新約聖書は乾燥無味、読むに耐えない書ではないのか。
◎ 私はこれに答えて言う、「実にその通りである」と。実に新約聖書がどのような書であるかは、その劈頭(へきとう)の第一節に表れていると思う。
砂礫(されき)もこれを顕微鏡の下に調べて見れば、その中に珠玉の美を見るように、マタイ伝第1章も、深くこれを究めれば、これまた宝玉の言葉であって、実に神の真理を伝えるものである。
実にキリストの福音そのものが、よく新約聖書劈頭(へきとう)のこれ等の文字に表れているのである。
「
我等が見るべき麗はしき容(かたち)なく、美(うつく)しき貌(かたち)なく、我等が慕ふべき艶色(みばえ)なし」とは、預言者がキリストについて語ったところである。そしてこの人が、神の子であって、真善美の極であったのである。
見るべき麗(うるわ)しい容(かたち)はなくて、しかもその内に宇宙の真理を宿すもの、それが神の子であって、また神の言(ことば)である。「アブラハムの裔にしてダビデの裔なるイエス・キリストの系図」で始まる聖書、その聖書が実に神の言葉である。
見て美しいのは人の言葉である。慕うべき見栄えのないのは神の言葉である。新約聖書が何であるかは、よくその劈頭(へきとう)第一の言葉に表れている。
◎ 系図は伝記である。伝記は歴史である。そして明白な系図を有(も)ったイエス・キリストは、疑いもなく歴史的人物である。彼は小説的人物ではない。神話的性格ではない。彼は実在者であって、歴史的人物である。
キリスト者は、自己の理想を描いてこれを神として拝する者ではない。彼は、アブラハムの裔(すえ)でダビデの裔であるナザレのイエスを神の子として崇(あが)め、かつこれに仕える者である。
系図を以て始まった聖書は、歴史的記事である。「巧(たくみ)なる奇談」を伝える書ではない。系図を以て始まる書は、信頼するに足りる。これは詩でもなく歌でもない。哲学でもない。もちろん小説でもない。飾らない、事実ありのままの歴史である。
◎ 神の子が人の裔(すえ)として世に来られたと言う。これはまた、大きな福音である。彼は突然星が降るように、世に来られなかった。彼は人の家にお生まれになった。即ち
神は歴史に入られたのである。
神は即ち個々別々に人に顕(あらわ)れられずに人類の中に入られたのである。即ち神はキリストに在って、世(人類全体)を御自分と和らがせられたのである(コリント後書5章19節)。
したがってキリストの救済は世界的である。私は単独で救われるのではない。世界と共に救われるのである。いや実に、宇宙と共に救われるのである。
ゆえに世界の事、人類の事は、「我」に関係のない事ではない。世界歴史の中に御自分を投げ入れられたキリストは、全世界を化して御自分の有(もの)とするのでなければ、お止めにならない。
◎ イエス・キリストは第一にダビデの子である。神が預言者ナタンによってダビデに告げられた言葉は、次の通りである。
又エホバ汝に告ぐ、エホバ汝のために家をたてん、汝の日の満ちて、汝
が汝の父祖等と共に寝(ねむ)らん時に我汝の身より出(いづ)る汝の種子(こ)
を汝の後に立て、其国を堅うせん、彼れ我が名のために家を建(たて)ん、
我れ永く其国の位(くらい)を堅うせん、我は彼の父となり、彼は我が子と
なるべし……汝の家と汝の国は、汝の前に永く保つべし、汝の位は永く
堅うせらるべし。
(サムエル後書7章11〜16節)
そしてこの約束に適って生まれた者が、ナザレのイエスであった。彼は真正の意味においてのダビデの「種子」であった。
ソロモンによってではなく、イエスによってダビデの国を堅くされ、その国は永く保つのである。イエスに在って、神がダビデに約束された全ての約束は成就されるのである。
◎ イエスは第二にアブラハムの子である。神が初めにアブラハムに約束された言葉は、次の通りであった。
茲(ここ)にエホバ、アブラハムに言ひ給ひけるは、汝の国を出で、汝の父
の家を離れて、我が汝に示さん其地に至るべし。我れ汝を大なる国民(たみ)
と成し、汝を恵み汝の名を大ならしめん。
汝は福祉(さいわい)の基となるべし。我は汝を祝する者を祝し、汝を詛(の
ろ)ふ者を詛はん、天下の諸(もろもろ)の宗族(やから)汝によりて福祉(さ
いわい)を獲ん。
(創世記12章1〜3節)
そしてこの約束を成就するために生まれた者がイエスであった。アブラハムの本当の嗣子は、イサクではなくて、イエスであった。イエスに在ってのみ、「天下の諸(もろもろ)の宗族(やから)」は「福祉(さいわい)を獲」ようとしつつある。彼が再び現れられる時に、万国は化して彼の民となるのである。
◎ このようにして、イエスはダビデの子であって、同時にアブラハムの子であった。イエスに在って神が選民に約束された全ての約束が成就されるのであった。
イエスは本当のソロモンであって、同時にまた本当のイサクであった。イエスに在って、選民の理想は悉(ことごと)くかつ完全に実現されるのである。
◎ こうして新約は、旧約の続きである。新約は、旧約にとって代わって世に出たものではない。旧約の継承者として現れたものである。直ちに天から降ったイエス・キリストではない。アブラハムの子であって、ダビデの子であるイエス・キリストである。
「
我れ律法(おきて)と預言者を廃(すつ)る為に来れりと思ふ勿れ。我れ来りて之を廃(すつ)るに非ず、成就せん為なり」と彼は言われた。
神は過去を重んじられる。
彼は進歩を愛されるけれども、歴史を無視する革新は行なわれない。キリスト教はユダヤ教から生まれ出たものである。イエスはダビデの子であって、またアブラハムの子であった。
彼はモーセの律法に従われた。預言者の言葉を重んじられた。彼は、旧約の預言と希望とを実行するために世に出た者である。
◎ 系図は一見すると名の羅列(られつ)に過ぎない。しかし、名は無意味なものではない。
人の一生の事績を短縮したものが名である。名は最も簡単な伝記である。ダビデと言い、アブラハムと言って、その内に長い歴史がある。
ワシントンという名の内に米国の起源史がある。西郷隆盛という名の内に日本の維新史がある。
イエスの祖先を組成する四十二人の名の内に、キリスト以前のユダヤ史の全部がある。マタイ伝1章1〜17節は、アブラハムからイエスに至るまでのユダヤ史のあらましである。
「この歴史があって、この人が生まれたのだ」と言われている。そしてこの歴史を詳(つまび)らかにしようと思うなら、旧約三十九巻をひもとかなければならない。旧約の研究は、新約を解するために必要である。
◎ 名の字義を知ることによって、その名前の人(あるいはその名前を付けた、その父母)の性格を察することが出来る。ヘブライ人の名に「ヨ」または「ヤ」の音が多いのは注意すべき事である。「ヨ」または「ヤ」は、「エホバ」の短縮形である。
アビア(
ヤ)は、「エホバは彼の父なり」という意味である。
ヨサパテは、「エホバはお裁きになる」という意味、
ヨラムは「エホバは崇められる」という意味、
ウツ
ヤは、「エホバの力」、
ヨタムは「エホバは正しい」という意味、ヘゼキ
ヤは「エホバの権能」、
ヨシア(
ヤ)は「エホバが癒される者」という意味である。エホバを信じる民の王の名として、いずれも意味あるものである。
その他レハベヤムは「民を大きくならせる者」、アサは「癒す者」、アカズは「所有者」、マナセは「忘れる者」、即ち「罪を忘れる者」という意味であって、いずれもエホバに奉った尊称を取って、王の名にしたものと思われる。
人の理想は、その名に表れる。殊にその子の名に表れる。ユダの王達が付けられた名前の意味を調べてみると、ダビデの家が、如何に信仰の家であったかを察することが出来る。
◎ 神の子イエスに系図があった。神は彼をダビデの家に降された。神は、その子を世に降すに当って、適当な家を選ばれた。こうして
神は家族主義をお取りになる。個人主義に由られない。神の恩恵(めぐみ)は家族に臨み、その呪詛(のろい)もまた家族に臨む。
十戒の第二条に言う、「
我れエホバ汝の神は嫉(ねた)む神なれば、我を悪(にく)む者にむかひては父の罪を子に報いて三四代に及ぼし、我を愛し我が戒命(いましめ)を守る者には、恩恵(めぐみ)を施して千代に到るなり」(出エジプト記20章5、6節)と。これは責任を家族に問う言葉である。
儒教に、「積善の家に余慶あり、積不善の家には余殃(よおう)あり」と言うのによく似ている。
罪はこれを三四代に問い、義はその報償(むくい)を千代に及ぼすと言う、家族主義であって、しかも恩恵本位である。
罪はこれを罰さずにはおかない。しかし義はこれを忘れずに、その報賞(むくい)を千代にまで及ぼすと言う。エホバを愛し、その戒命(いましめ)を守れば、家は永久に恵まれるのである。
聖書は、英米人が唱えるような極端な個人主義を伝えない。神は「家の人」として人を扱われる。彼は、「
救拯(すくい)の角を其僕(しもべ) ダビデの家に立(たて)」(ルカ伝1章69節)られたと言う。
イエスは神の子としてだけでなく、また「先祖ダビデ王の位」を継いだ者として神の前に貴くあったのである。
◎ ダビデの家は必ずしも善人の連続でなかった。その家にはまた、多くの悪人が生まれた。ダビデ自身が、多くの罪を犯した人であった。
今旧約の歴史に照らして見ると、ソロモンからエホヤキンに至るまで、十四代の王の中に、比較的善人が七人いて、悪人が七人いたことが分かる。今これを善悪二種に分けて列記すれば、マタイ伝の記事を次のように書き改めることが出来る。
善きソロモン 悪(あし)きレハベアムを生み
悪(あし)きレハベアム 悪(あし)きアビヤを生み
悪(あし)きアビヤ 善きアサを生み
善きアサ 善きヨサパテを生み
善きヨサパテ 悪(あし)きヨラムを生み
悪(あし)きヨラム 善きウツズヤを生み
善きウツズヤ 善きヨタムを生み
善きヨタム 悪(あし)きアカズを生み
悪(あし)きアカズ 善きヘゼキヤを生み
善きヘゼキヤ 悪(あし)きマナセを生み
悪(あし)きマナセ 悪(あし)きアンモンを生み
悪(あし)きアンモン 善きヨシアを生み
善きヨシア 悪(あし)きエホヤキンを生む
ダビデの子孫で王として記される者は総計十四人、その内善い王が七人、悪い王が七人である。また、善い王は必ずしも善い子を生まず、悪い王は必ずしも悪い子を生まない。
善い王から悪い子が生まれることがあり、また悪い王から善い子が生まれることがある。そしてこれは、王家に限った事ではない。いずれの家庭においてもそうである。
そして神は人の罪を罰して三四代に及ぼし、その信仰を賞して千代に及ぼされるので、結局善は悪に勝って、信者の家は永久に栄えざるを得ないのである。
アブラハムの家、ダビデの家に多くの悪人が生まれなかったわけではないが、神の恩恵(めぐみ)は特にこの家に宿って、終(つい)にこの家から人類の救主が生まれたのである。偉大なのは信仰の効果である。
◎ 積善の家に余慶があり、信仰の家に恩恵は絶えない。しかし、人の善が積んで完全に達するのではない。
善の内に神が臨んで、これを完成されるのである。
ダビデの家はヨセフに達して善い家ではあったが、完全な家ではなかった。その内に神の子イエスが現れて、アブラハム以後数十代にわたって蓄積された善が完成されたのである。
家がそうであり、人がそうであり、国がそうであり、人類がそうである。人はその遺伝的善性によっては、完成されない。即ち救われない。彼に聖霊が降りてのみ、完成される。
国もそうである。人類全体もそうである。最後に神が来られなければ、完成されない。完成者は人ではない。神御自身である。アブラハムの家に神の子イエスが生まれて、その家は完成されたのである。
◎ イエスはヨセフの子として現れられた。ダビデ王の子としてではない。大工ヨセフの子として現れられた。即ち
アブラハムの家が衰退凋落の極に達した時に現れられた。
彼が現れられた時に、人は彼について言った、「ナザレより何の善きもの出でんや」と。また「彼は大工の子に非ずや」と。しかし神が現れられるのは、そのような時においてである。
「
神は驕傲者(たかぶるもの)を拒(ふせ)ぎ、謙卑者(へりくだるもの)に恩(めぐみ)を与(あた)ふ」とある通りである。
アブラハムからダビデに至るまで、彼等の家は世にいわゆる豪族であった。ダビデからエホヤキンに至るまでは、子孫相継いで一国の王であった。そしてエホヤキンからヨセフに至るまでは、彼等は庶民の間に下り、ダビデの裔(すえ)は僻村(へきそん)の一労働者であるに至った。
そしてこのヨセフの子としてイエス・キリストは世に現れられた。豪族であること十四代、王家であること十四代、平民であること十四代、そして
平民の家に神の子はお生まれになった。
神は遺伝を重んじられる。しかし人が遺伝に頼ることをお許しにならない。「
神は能く石をもアブラハムの子と為(な)らしめ給ふなり」(マタイ伝3章9節)である。
神はその子をダビデの家に遣(おく)られたけれども、その家が平民となった時に遣(おく)られた。考えるべきはこの事である。大統領リンカーンが言ったように、「神は特別に平民を愛される」のである。
◎ また注意すべきは、イエスの系図中に四人の女性が記載されたことである。タマルがその一、ラハブがその二、ルツがその三、ウリヤの妻がその四である。
サラ、レベカ、レア等の名を省いて、これ等四人を記載した、その理由は何か。彼等はいずれも名誉な歴史を有する者ではない。タマルの行為については、これを口にすることさえ憚(はばか)られる(創世記38章)。
ラハブはエリコの娼婦であった。ルツは異邦モアブの婦人であった。そしてウリヤの妻は、姦淫の女であって、ダビデと共に、許すことのできない罪を犯した者であった。
記者は何故に、殊更にそのような婦人を選んで、その名をイエスの祖先の中に列記したのであるか。その理由を知ることは難しくない。イエスを万民の救主として見たからである。殊に罪人の救主として見たからである。
イエスは、そのような婦人を、その肉体の祖先として有(も)つことを恥とされなかった。「
税吏(みつぎとり)と娼婦(あそびめ)とは、汝等よりも先に神の国に入るべし」(マタイ伝21章31節)と言われた彼は、娼婦をその系図の中に有(も)って、敢えて恥とされなかった。
「
信仰に由りて娼婦のラハブは信ぜる者と共に亡びざりき」(ヘブル書11章31節)とヘブル書の記者は言った。そう、「信仰に由りて」である。信仰によって、娼婦も罪人も異邦人も聖なる家族の人となることができるのである。
◎ このようにして、これはどの方面から見ても、驚くべき、著しい系図である。これは普通の系図ではない。主義のある系図である。系図によってキリストの福音を説く者である。決して乾燥無味な人名の羅列(られつ)ではない。
神の言葉であって、よくこれを解すれば、「
教誨(おしえ)と督責(いましめ)また人をして道に帰せしめ又義(ただしき)を学ばしむるに益ある」(テモテ後書3章16節)言葉である。
付 言:
「イエスの
系図」と言う。ここに系図と訳された原語は、 Biblos geneseos である。これを英語に直訳すれば、 The book of genesis となる。
創世記と言うのと同じである。
「イエス・キリストの創世記」、これをマタイ伝全体の表題として見ることができる。キリストの生涯は、地上三十三年のそれで終ったものではない。
彼は無窮にヤコブの家を支配し、かつその国は終ることのないものなので(ルカ伝1章33節)、彼の地上の生涯は、その無窮の生涯の発端であるに過ぎない。
ゆえにマタイ伝全部を称して、「イエス・キリストの創世記」と言っても不当でないのである。もしマタイがここに、単に系図と言おうと思ったならば、特に genealogia という語を用いるべきである(テモテ前書1章4節、テトス書3章9節等参照)。
Genesis は、広い意味の語である。系図も起源も出生も、さらに進んで生涯全体をも意味する言葉である(ヤコブ書3章6節参照)。
私は思う、記者マタイの意思は、特にこの語を選んだのであると。イエス・キリストの起源録、その系図と誕生と成育(おいたち)と活動(はたらき)とに係わる記録、即ち
旧約の創世記に対する新約の創世記、これがマタイ伝である。
キリストの系図から始まり、彼の昇天で終る。史家ルナンに「人類を感化した最大の書」と言わせたのは、この書である。
税吏であったマタイは、生まれながらにして、その頭脳は冷静であった。彼は冷静に、事実ありのままを伝えた。そしてその事実ありのままが、小説以上の小説、詩歌以上の詩歌であった。マタイ伝によって、世界は一変されたのである。
完