全集第24巻P534〜
(「イエスの終末観 (マタイ伝24章の研究)」No.3)
第 三 回 (3月2日)
世の終末の審判等の問題を研究するに当って、先ず明白にすべきは、聖書がどのような書であるかである。
今日多く教会内において見るような聖書に対する不信は措(お)いて問わない。これを自分の霊魂の糧(かて)として貴ぶ人々の間にも、二派の別がある。
その一は聖書を神の書であるとする者である。その思いは、聖書が単に神の言葉であると言うだけでなく、また
終始一貫した書であると言うことにある。
自ら書を著した経験のある者は知っている、いずこからともなく一個の思想が、我が脳中に躍出(やくしゅつ)し、これを表現しないではいられずに、筆を執るのである。
ゆえにその表現の完否は別として、真正の著書には必ず終始一貫した思想がある。
聖書は、新旧約66巻に分かたれ、その記者も数十人にも上る多さではあるが、神が聖霊によって彼等に書かせたものであるから、徹頭徹尾一貫した書 the Bible である。
その中に、何記、何書、何伝等の区分があるのは、あたかも個人の著書に章節の分類があって、その各々が特殊の題目を有するのと異ならない。
創世記から黙示録に至るまで、唯一巻の書であると。これが古くから多くの信者の抱いた観念である。
ところがまた、他の人々は言う、聖書は一つの
文学であると。文学とは何か。数多の思想の収録である。日本文学または英文学と言って、ある共通の色彩を有していなくはないけれども、とうてい一個の思想を以て貫徹されたものではない。
聖書を聖文学 the Sacred Literature と称するのは、即ちこれを一巻の書と見ない思想である。この立場においては、いわゆる時代思想を論じ、聖書の真理を時代の産物と見なそうとするに至る。聖書に関する近代の著書の多くは、この立場に在るものである。
二者のいずれが果して真であるか。今ここに、これを論議することを欲しない。しかしながら、ただ一事承知すべきは、聖書は一巻の書であるという思想に、侮れない理由があるという事である。
近代人は、神が聖霊によって、千五百年前後にわたり、二十有余の人に一巻の書を書かせたという説を聞いて、一笑に付するけれども、私は彼等に対して、次のような人々の著書を推薦したいと思う。
(1)
サー・ロバート・アンダーソン(
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Anderson_(Scotland_Yard_official) )、彼は英国の前警視総監で、驚くべき常識を有した実際家であった。彼はもちろん教師ではない。しかしながら、平信徒の立場において、その晩年の生涯を、専ら聖書の研究に献げ、幾多の名著述を遺して、最近世を去った。
(2)
A・J・ゴードン(
http://en.wikipedia.org/wiki/Adoniram_Judson_Gordon )、彼はボストンにおける浸礼教会の牧師として有名なフィリップス・ブルックス(
http://en.wikipedia.org/wiki/Phillips_Brooks )と相対して立った。
そして雄弁においては後者を推さざるを得ないが、福音的信仰においては、前者は確かに後者の上であった。
(3)
アーサー・T・ピヤソン、米国が産んだ最大宗教家の一人である。
(4)
ウィルバー・チャップマン、米国長老教会の牛耳を執った人である。
(5)
C・I・スコフィールド、近世に至り、世界中の平信徒に聖書を読ませるのに成功した者である。彼はその完全な聖書知識を以て、聖書の全部を自分の頭脳中に収めた観がある。
その他ドイツ、フランス、スイス等の学者にこれを求めれば、ベンゲル、ガウセン、ツアーン、ゲス等、数え切れない。
聖書は実に一巻の書である。ゆえにその全体を通じて同一の思想を啓示する。世の終末の審判に関するマタイ伝24章の教えはまた聖書全体の教えである。殊にダニエル書第9章は、この問題の上に大きな光を与えるものである。
ダニエル書について、学者の論議するところは甚だ多い。なかんずく再臨反対者は、しばしば嘲って言う、再臨の信仰は、ダニエル書から出ているのではないかと。
しかしながら、倫理的歴史的立場から書かれたイエス伝の最大権威と称せられるカイムは言う、「イエスが最も愛読したものは、ダニエル書である。これを名付けてイエスの預言書と称することが出来る」と。
したがって、ダニエル書の価値がどれほど高いかを知る事が出来る。この書を除いて、新約聖書を解することは不可能である。
汝の民と汝の聖(きよ)き邑(まち)の為に七十週を定め置かる。……汝暁(さ
と)るべし。エルサレムを建直(たてなお)せといふ命令の出づるよりメシ
ヤたる君の起る迄に七週と六十二週あり。……。
其六十二週の後にメシヤ絶たれん。……又一人の君来りて邑(まち)と聖所
(きよきところ)とを毀(こぼ)たん。……彼一週の間多くの者と固く契約を
結ばん。……斯(かく)て遂に其定まれる災害(わざわい)残暴(あらさ)るゝ
者の上に注ぎ降らん。 (ダニエル書9章24節以下)
選民の救いのために七十週が定め置かれる。その七週と六十二週との後にメシヤは絶たれるであろう。そして最後に審判の一週があると言う。当時のユダヤの計算法によれば、一週とは七年である。
即ち七週四十九年と六十二週四百三十四年、ダニエルが啓示を受けてからほぼこの年数を経た後に、キリストは十字架に付けられた。そしてなおその後に、一週即ち七年の審判の時があると預言される。
それではこの審判の時代は、歴史上どのように接続するのであるか。マタイ伝24章の預言は、ダニエル書のどの時代に関するのであるか。
この問題に対して、スコフィールド、ゲーベライン等は答えて言う、「イエスがベツレヘムに生まれた時、東方の博士達が、ユダヤ人の王としてお生まれに成った者はどこにおられるかと言って尋ねて来たように、彼は実(まこと)にユダヤ人の王として出現された。
彼は預言者達が預言した王国を建設するために来られたのである。そしていわゆる山上の垂訓は、彼の王国に行なわれるべき律法(おきて)であって、奇跡は彼の王国の民となる者に与えられるべき力であった。
ところがユダヤ人は、彼を迎えなかった。『彼己の国に来りしに、其民之を接(う)けざりき』、彼等は自分達の王となるべきイエスを捉え、これを異邦人に渡して、共に十字架に付けてしまったのである。
そのような民によって天国を建設することは出来ない。そこで神は、断然選民を滅ぼされるか、もしくは別に方法を立て、二千年または三千年の後を待ち、再び選民によって、その本来の目的を遂行されるか、二者のいずれかを選ぶ以外になかった。
ところが神は慈悲深く、忍耐に富んでおられる神である。彼はユダヤ人を滅ぼすことをせずに、終りの一週を彼の時代に延期された。そしてその間にいわゆる『異邦人の時代』を挿入されたのである(ルカ伝21章24節)。
異邦人の時代を教会時代とも言う。『教会』の観念は、初めからキリストの計画中にあったのではない。彼がこの世に神の国を建設しようという計画を、選民の不信のゆえに放棄せざるを得なくなって、新たに教会時代が始まったのである。
そして教会時代が終った後に、最後の一週は来る。
マタイ伝24章は即ち、世の終末の一週に関する預言である」と。
この解釈は、誠に聖書を解し易くする説明である。このように神が定められた「時代」(dispensations)を分けて聖書を読むと、従来私達を苦しめていた多くの難問題を解決することが出来る。
マタイ伝24章の他、テサロニケ後書2章1節以下、またはヨハネ黙示録(ある学者は、これをマタイ伝24章の注解として見るべきだと言う。後者は前者の縮図である)等はこの延期された一週に関する記事である。
これに反し、パウロの書簡の大部分は、教会時代に関する書である。教会は、十字架と終りの一週との間に挿入されるものである。そしてユダヤ人自らがキリストを斥けた結果、神が特別にお造りになった者がキリスト者である。
換言すれば、キリストの十字架の功を信じることだけで、異邦人およびユダヤ人の中から呼び出され、そして終りの一週が始まろうとするのに先だってその数は満ち、キリストの新婦(はなよめ)として携え挙げられる者、これが即ちキリスト者である。
ゆえに福音書においては、マタイ伝16章に初めて「教会」という文字を見るが、これは明らかにイエスがユダヤ人に捨てられた後の思想である。
マタイ伝24章は、世の終りの時代に関する預言である。終りに至ってこの世に戦争、飢饉(ききん)、疫病、地震等がある。それから後にキリストの再来があって、世は改まると言う。これは果して真実であるか。私達の理性に訴えて、信じ得る事であるか。
近世科学は万物が徐々に進化すると教えるにもかかわらず、人生に何で独りその完成に先だって大変動を要しようか。しかしながら、人生の事実は、聖書の言葉が真実であることを証して余りがある。
自己の霊的救いの実験を語る者の中に、自分は知らぬ間に徐々にキリスト者となったと言う者がいるであろうか。少なくとも私自身はそうではない。
自ら救われようと思って、もがけばもがくほど、ますます深く罪の底に陥り、将(まさ)に絶望しようとした時に、たちまち大能の手が降って、私を救ったのである。
世界は今や、講和会議の結果新しい光を見るに至る事を切望して止まない。仮にこの希望は充たされるとしても、何故に二千万の人を犠牲にした大惨劇を経ずに、ここに達しなかったのか。おそらく光明の前に暗黒が臨むのは、それが人の救われる道だからである。
その事は今も昔も変らない。ノアの時代にも洪水が来て世を滅ぼし、その後に新しい光は臨んだ。神の救いの手に縋(すが)るためには、人は先ず行く所まで行かなければならない。これは人類の経験が示す事実である。イエスの終末観は進化論に背くけれども、人生の事実には背かないのである。
「民起りて民を責め、国は国を責め、飢饉疫病地震所々にあるならん」と。平和の時代にこれを読んで、ほとんど一笑に付せざるを得ない。しかしながら、思わぬ時に大戦が勃発することはないと誰が保証できるか。
1914年7月米国のある平和主義の巨頭は、数千の聴衆を集めて、戦争絶対廃止の日が切迫していると宣告した。ところが何と言うことか。それから二週間経たないうちに、未曾有の世界戦争は開始したのである。
人は今日のような交通の発達と農学の進歩とを根拠として、世界における一般的飢饉は有り得ないと思惟(しい)するが、事実はそうではない。先般米国食料大臣が作成した地図によって見れば、今や全欧州は飢饉状態に瀕している。
中でもとりわけ甚だしいのはロシアである。世界中で最も豊富な麦産地でありながら、反って最も貧寒な飢饉状態に陥る。神が飢饉を地に降そうとすれば、それが甚だ容易であることを思わざるを得ない。
疫病もまたそうである。伝染病予防の方法は、既に万全なように見えるが、流行性感冒は全世界を襲って停止する所を知らず、欧州、北米、南米、豪州、インド、南ア等、みなその害を蒙らない所はない。
そして本年1月15日までに、流感によって斃(たお)れた者は六百万人を数え、スペイン国バルセロナ市などは、一日の死者が千二百人に上ったことがある。誠に恐るべき世界的疫病である。
そして私達は、眼前にその害毒を目撃しながら、今日の医学ではこれをどうすることも出来ないのである。
避け得るはずの戦争も、これを避けられず、逃れ得るはずの飢饉や疫病もまた、これを逃れることが出来ない。
それでは地震はどうか。地球は未だ全く冷却したのではない。地表から7マイル下は、今なお真紅の火であると言う。
私を教えたある地質学者は常に言った、「地球の中心は固体なのか、液体なのか、私は未だこれを決定出来ない。一週中の三日は固体であろうと思い、四日は液体であろうと思う」と。
実に誰も地の変動について保証することは出来ない。地質学が進歩しているからと言って、少しも安心できない。
愛の神は、何故にそのような患難を降されるのか。何故愛児を優しく育てる態度を取られないのか。これは人間の申し分である。
神は決して何の警告を加えることなく、人の罪が深くなって不意にこれを陥れるような無慈悲を行われない。幾度か警告に警告を重ね、忍耐に忍耐を加えて悔改めを促される。
それにもかかわらず、人がこれを熟知してもなお従わないのだから、神はいつまでも慈母の態度を続けていて良いであろうか。愛の神に忍耐の絶える時がある。その時、滅亡がたちまち世に至るのである。
それでは神に従わない者は、その往く所に往かせて、私達はただ神の審判が降るのを待とうか。
いや、神は人を造って、これに自由意思を賦与されたのである。ゆえに今日未だ神に従わない者であっても、もしかしたら明日、悔改めるかも知れない。これは誰にも予知できない事である。
そして神は、「
憐憫(あわれみ)あり恩恵(めぐみ)あり怒る事遅く慈悲深くして災禍(わざわい)を悔い給ふ者」であるから、悔改者に対しては、必ずその定められた滅亡を取り消して下さる。
ゆえに私達に、たとえ一人でも悔改に導かせて下さい。出来る限り裁かれる者の数を少なくさせて下さい。伝道の意義はここにある。世の終末の切迫を知って、私達はいよいよ福音の宣伝に熱心になるべきである。
完