全集第25巻P147〜
(「モーセの十戒」No.2)
2.十戒第一条、第二条 (9月28日)
十戒は、これを前後の各五条に分けて、神に対する義務および人に対する義務と見ることが出来る。そして少し注意して各条の順序を観察すれば、神または人に対する私達の心の態度が、自ずからその間に明示されるのである。
先ず人に対する義務を見よ。「汝殺す勿れ」「汝姦淫する勿れ」「汝盗む勿れ」、これはみな、人の
行為を以てする罪に対する戒(いまし)めである。
「汝その隣人に対して、虚妄(いつわり)の証拠(あかし)を立つる勿れ」、これは言葉によって隣人の名誉を傷つけるなという意味である。即ちこれは口によってする罪に対する戒めである。
「汝その隣人の家を貪る勿れ」、これは未だ行為に出ない、心中の罪について言う。即ちこれは、
意思の罪に対する戒めである。
行為によって隣人を侵害せず、言語によって侵害せず、またこれを侵害しようとする悪意をも懐かないこと、
行為と
言語と
意思、隣人に対する完全な義務は、この三つにおいてある。
そして同じ事がまた、神に対する義務である初めの五条中にも現れるのである。「汝我が面(かお)の前に我の外何者をも神とすべからず」、「汝自己の為に何の偶像をも彫(きざ)むべからず」、これはいずれも信仰の問題即ち
意思に関する戒めである。
「汝の神エホバの名を妄(みだり)に口に上ぐべからず」、即ち
言語に関する戒めである。「安息日を憶(おぼ)えて之を聖潔(きよ)く守るべし」、「汝の父と母とを敬ふべし」、即ち
行為に関する戒めである。
神に対して誠実な意思と言語と行為とを以て仕えなさい、隣人に対しても行為と言語と意思とを以て侵害を与えてはならないと言う。聖書はしばしばこのような修辞法を用いて、私達が真理を記憶することに便宜を与える。(修辞学上の Introversionである。)
一、汝我が面(かお)の前に我の外何者をも神とすべからず。
◎ 「
我が面の前に」とはどういうことか。あるいは言う、この一語に深い意味はない。いずれの国語にもこの種の添付語があると。
しかしながら、神が「我が面の前に」と言われる時に、これを無意義とすることは出来ない。私達がみな主の台前に出る時は、彼の面(かお)の前に立つ時である。
ゆえに「我が面の前に我の外何者をも神とすべからず」と言うのと、「我を除きて他に何者をも云々」と言うのとでは、両者の間に多少の相違がある。
それはちょうど、私がこの壇にあって語る時に「予の面の前に何人も立つべからず」と言えば、単に「余を除きて何人も云々」と言うのと少しその意義を異にするようなものである。
「余の面の前に」とは、私と聴者諸君との間の関係について言うのであって、その他の関係において他の人がここに立つか立たないかとを問わないのである。
それと同じで、「汝我が面の前に我の外何者をも云々」と言うのは、
エホバの神とイスラエルの民との関係について言う。他の国民がどのような神を有するかは、しばらくこれを問わないのである。
当時、いずれの国にも神があった。モアブにはケモシュがあり、エジプトにはラーがあり、アッシリアにはアッシュルがあり、バビロンにはベルがあり、フェニキアにはマルカスがあった。
しかしながら、これらの者が果して神であるかは暫らく措(お)いてこれを問わない。ただあなたたちイスラエルが私の前に立つ時は、私の他何者をも神としてはならないという意味である。
ゆえにこの教えを受けたイスラエル人が、モアブ人の家に行った時は、「汝等の神は神に非ず」とは言わなかった。ただ、「我等の神はエホバなり。我等はエホバの前にありて他の何者をも拝せず」と言ったのである。
即ち宗教学上のいわゆる Monolatry (拝一神教)であって、 Monotheism (唯一神教)ではなかった。ただし、
この思想が遂にはエホバだけが真の神であって、彼の外に神はないという唯一神教に帰着するであろうことはもちろんである。
ゆえにエレミヤ、ダニエル等の預言者は、みなこれを高調して、「神は唯(ただ)エホバのみ、其他の神は風の如く有りて無き者なり」と主張するに至ったのである。
モーセは何故初めから、明白にこれを唱えなかったか。おそらく唯一神教そのものは、当時未だ民衆が直ちに受け入れ難い大真理だったので、むしろ思想上必然的にここに帰結すべき信仰を以て始めたのであろう。
エホバの面の前に彼の外何者をも神としなかったので、イスラエルは結局エホバだけを宇宙における唯一の神として、拝せざるを得なくなったのである。
現代の人は神の有無について論じる。ゆえに彼等の前にこの思想は必ずしも重要なものでない。しかしながら、モーセの時代においては、これほど重大な問題はまた、他に無かったのである。
なぜなら、当時は神の存在を信じない者は誰一人なく、各国はみな異なった神を信じ、とりわけその勢力によって全世界を風靡(ふうび)したエジプトまたはバビロンの神が、真正な神として尊敬されたからである。
この時に当り、あたかも今日のシャムまたはポルトガルのような小国イスラエルが出て、「我等の拝するエホバの神のみが宇宙万物を造り給ひし唯一の神なり。其他の神は神に非ず、皆空の空なる者に過ぎず」と唱えたのは、誠に驚くべき提言であった。
イスラエルが、このためにどれほど大きな勇気を必要としたかは、私のような異教国における初代の信者が少し想像し得るところである。
国民みなが在来の各種の神を信仰する時に当り、社会上何の勢力もない、ごく小さな私達のような者が、「我等の信ずるイエス・キリストの父のみが真(まこと)の神なり。他は皆空に均し」と断言するのは、甚だ大胆な行為であったのである。
それだけではない。このモーセの提唱は、
人類の思想上における大きな進歩革命であった。当時いずれの国にもみな神があった。ギリシャにはギリシャの神、フェニキアにはフェニキアの神、エジプトにはエジプトの神、アッシリアにはアッシリアの神、その他バビロン、ペルシャ、インド等にもみな、特有の神があった。
エジプト研究の大家レヌーフ(Renouf)(
http://en.wikipedia.org/wiki/Peter_le_Page_Renouf )(
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Denglish-books&field-keywords=Peter+le+Page+Renouf )は、かつてエジプトの神々の表を編成しようと思ったが、その数があまりにも多くて、遂に断念したと言う。
これ等無数の神々がみな人類に向ってその崇拝を要求する間に立って、独り偉人モーセが、「イスラエルよ、汝等は汝等をエジプトの地より救ひ出せしエホバの外何者をも神とすべからず。彼のみが宇宙に於ける唯一の真の神なり」と叫んだ時、イスラエルは実に一躍して大思想に接したのである。
私達を支配する神は唯一であると言う。これは
思想の根本的統一である。思想が分裂すれば、人に活動はない。
私達の内心が、あるいは利欲、あるいは名誉、あるいは恐怖等のために分裂させられ、わずかにその一部を神に委ねるに過ぎない時、そのいずれに服従すべきかを知らなければ、いたずらに躊躇(ちゅうちょ)逡巡(しゅんじゅん)せざるを得ない。
ところが真(まこと)の神は唯一であり、彼だけが私達の全心を支配し、全てのものが彼によって統一されることを信じるようになって、初めて本当の活動が始まるのである。
イスラエルは本来頭脳の明晰な国民である。その中から選出されたモーセは偉大な学者であった。
彼は当時の世界文明の中心であったエジプトにおいて優秀な教育を四十年受けた。後にまたアラビヤの野に退いて羊を四十年飼っていたけれども、彼のような英才が、果してその間荒野にだけ彷徨(ほうこう)したであろうか。
あるいは疑う、彼は進んでバビロンに赴いて、その文明を研究し、その知識を探究したのではあるまいかと。とにかくその時代において獲得し得るであろう一切の知識を所有した者は、彼モーセであった。
そして今その人から、「エホバのみが宇宙に於ける唯一の真の神にして、其他に一も神なるものなし。エジプト又はバビロンの神は神に非ず。我等は唯(ただ)エホバにのみ服従を奉るべし。彼が自己の存在の中心にして、又社会・国家・宇宙の中心なり」との思想を伝えられて、イスラエルはたちまち永遠の真理に接し、万国の民に勝る国民となったのである。
その後、歴史は変遷に変遷を重ね、エジプトやバビロン等の諸国はみな倒れて、その神は悉(ことごと)く葬り去られたにもかかわらず、独り全世界の尊敬を集めて、今に至るまで私達を支配する者は、3300年の昔偉人モーセが伝えたエホバの神があるだけである。この宇宙唯一の神の存在は、実に私達の信仰の根本である。
「
エホバを畏るゝは知識の本源なり」 その通りである。
唯一の神エホバを信じることは、単に信仰の根本であるだけでなく、また知識の根底である。科学も哲学も、ここに至って初めて可能となる。
昔は六十ないし七十の元素を認めた化学は、ラジウム発見以来、単一の元素を認めるに過ぎない。哲学もまた、多元論から二元論に進み、さらに一元論に帰着して、ようやく満足するに至ったのである。
いわゆる絶対者と言い、本体または実体と言って、他者に待たず自ら永遠の存在を保つ者を認めなければ、哲学は始まらないのである。人を真正の学者たらしめるものは、
神は一であるとの思想(Unity of God)である。
これを知って、万物に対する科学的興味は湧然として起る。これを知って、全ての天然は、調和した一大音楽と化するに至る。
何故にユダヤ人の中から世界的学者が輩出したのか。何故に学問の探究は、キリスト教国において旺盛なのか。他ではない、唯一の神の信仰が、知識の根底だからである。ここにおいて知る、
一神論の提唱者モーセは、大信仰家であると共に、また大哲学者であったことを。
さらにこれを実際的問題について見るなら、
この思想があってこそ文明は存在し得るのである。もし今日なお昔日のように、各国がみなその特異の神を奉じるなら、国際連盟または人道主義を説く者がいても、誰がこれに応じるであろうか。
神は一であり、人類はみな唯一の神の子であるという思想があって、初めて人類相互の親密な同情を生じる。神は一であるから人類はみな兄弟である。ゆえに相争うべきではない。ゆえに相互の最善を計らなければならない。
心を尽し、思いを尽して神を愛すると共に、また己のように隣人を愛さなければならないと。およそ人類の思想の貴いものは、みなこの思想から出るのである。
かのグラッドストーンがアルメニア人虐殺の報に接すると、「これは私の兄弟の不幸ではないか」と叫んで英国議会を動かした大きな義憤は何処から発したのであるか。
これに反して、我が国民の多数の者が、インドの惨状を報じられても冷然として相関せずの風があるのは何故であるか。
憐れむべき異国の同胞を救うためには、自分の食事を減らし、財を傾けるのも厭(いと)わないという精神は、エホバの神が唯一の神であるという思想なしには起らないのである。
試みに世界の伝道会に行ってみなさい。国内の識者階級に属する者が数千人集って、未開国の民のために熱い祈りを献げ、同志中健康と教育との最も優れた人々を選んで、「君は行ってアフリカの土人に福音を伝えよ」、「君は何処に云々」と言って、彼等を遠く派遣するのである。
その熱烈な愛他の精神は、天地万物の神は一なので万人は兄弟であるという思想を除いて、何処から来るであろうか。
二、汝自己の為に何の偶像をも彫(きざ)むべからず
◎ 既にエホバの外何者をも神としない以上、もちろんその偶像を刻むはずはない。しかしながら、
真の神を拝する時にも、人は偶像を造り易い。ゆえに一切金銀銅鉄木石を用いて、私達の崇拝物を造ってはならないと戒めたのである。
偶像禁止に対しては、常に一種の反対論が行われる。いわく、「いずれの宗教といえども、偶像を神とするものはない。ただ人類が崇拝の目的物を欲するのは自然の要求である。ゆえに信仰を助けるために、ある目当てを造るだけである」と。
この説は、モーセの時代に既にエジプトまたはバビロンにおいて唱えられたのである。そして多年エジプトの教育とバビロンの文学に親しんだモーセは、もちろんこれを熟知していたのである。
それにもかかわらず、彼はエホバから示されたこの偶像崇拝に対する戒めを信仰上の重大問題として、これをその民に伝えたのである。
もし偶像を拝するのではなく、これによって代表される神を拝するだけだと言って事足りるならば、このような戒めは、狭隘(きょうあい)で無益な思想と言わなければならない。
しかしながら、事実は証明するのである、人が偶像を拝すれば、直ちに偶像そのものが神となることを。これは古来万国の実例が均(ひと)しく証明することである。
ゆえに十戒第二は、誠によく偶像崇拝の心理を穿(うが)ったものである。試みに私達の周囲を見なさい。世界の開明首府の一つとされる東京において、最も腐敗した部分は何処であるか。
偶像を拝する所、これが腐敗の巣窟(そうくつ)である。
国内においてまたそうである。偶像の神を祭る地方に、最も多く不潔な事が行われるのである。
偶像崇拝の動機をどのように説明しても、その結果において信仰堕落の階梯(かいてい)である事実は、否定することが出来ない。ゆえにエホバの神は、モーセと預言者とイエスと使徒とによって、明白に伝えられた、いわく「神は霊なれば、これを拝する者は、霊と真とを以てすべし。像(かたち)を以てする勿れ」と。
偉大な教訓である。これがあって初めて、純な信仰があり、初めて清い家庭と社会とがある。
霊的な神に対する霊的な崇拝、ここに宗教の根本がある。ここにキリスト教の力がある。
キリスト者が相集まれば、一片の像もこれに加わらず、一葉の絵もこれを助ける必要はない。ただその中に在って充ちておられる霊なる神を拝するだけである。
信仰が何等かの形を要求するのは、既に堕落の第一歩である。
神は造主である。ゆえに造られた何者を以てしても、これを代表させることは出来ない。キリスト者は常に全人類中の少数者であるにもかかわらず、世界を動かす勢力を有するのは、その信仰が全く霊的であるからである。
十戒第二に続いて、「
我エホバ汝の神は嫉(ねた)む神なれば我を悪(にく)む者に向ては父の罪を子に報いて三四代に及ぼし、我を愛し我が誡命(いましめ)を守る者には恩恵(めぐみ)を施して千代に至るなり」との語がある。
「
嫉(ねた)む神」とは何か。これは、神を嘲る者がしばしば私達の前に提出する問題である。しかしながら、「嫉む」は必ずしも悪い意味だけではない。善い意味において、「嫉み」は
愛の集中である。
何故嫉むのか。
余りにも強く愛するからである。そして神は、実に
熱愛者である。エホバの「嫉み」は即ち、エホバの「
熱心」である。
「万軍のエホバの
熱心之を成し給ふべし」(イザヤ書9章7節)と言う。
彼御自身が、私達を救おうとして、その独子を捨てられたのである。ゆえに彼はまた、私達の一切の精神と心意(こころばせ)とを要求される。
もし彼に対する私達の愛を乱用して、これを彼以外の者に帰するなら、彼エホバの神は耐え難いとしてお怒りになるのである。そうあってこそ彼は真に頼るべき神である。
嫉まないのは、熱愛がないからである。その意味において、夫は嫉みある夫、妻は嫉みある妻となることを欲する。
嫉みは熱愛である。そしてエホバは
熱愛そのものである。ゆえに彼は嫉まれる。嫉むまでに私達を愛される。感謝すべきは、エホバの大きな嫉みである。
罪はこれを三四代に及ぼし、恩恵(めぐみ)はこれを施して千代に至ると言う。罪は三四代、恩恵は千代、モーセの神を称して残忍無慈悲の神と言う者は誰か。
神は、罪を罰せずにはおかれない。しかし、これを一人に集中せずに、数人に分担させられる。父の罪のゆえに子を苦しませられるけれども、その家を絶たれない。これは確かに恩恵である。
遺伝は生理的事実である。そしてその内に神の深い恩恵が宿るのである。神は罪人の絶滅を好まれないので、その罪を三四代に分配して、その軽減を計られたのである。
子である者はまた、父祖の罪を担って神に対する一家連帯責任の実を覚り、神御自身が人類全体の罪を御自分に担われたその御心の幾分かを知る事ができて、やや神に似た者となる事ができるのである。神が罪を三四代に及ぼされるのには、いろいろと深い理由があるのである。
(以上、10月10日)
(以下次回に続く)