全集第25巻P324〜
(「ダニエル書の研究」No.7)
7.ダニエル書第6章の研究 (2月22日)
(獅子の穴に入ったダニエル)
ダニエル書の研究上大きな歴史的難問題の一つは、ダリヨスとクロスとの関係である。バビロンを陥落させた者はペルシャ王クロスであり、彼の前にダリヨスという者はいないというのが、歴史の伝えるところである。
ところがダニエル書はダニエルがクロスに仕えるに先だって、バビロンを攻めてその国を得たダリヨスに仕えたと明記するのである。ここにおいて、聖書と歴史との調和はどうかという問題が起る。
今日まで聖書の弁護者の地位に立っていた学者等は言う、「
ダリヨスはメディアの王であって、クロスはペルシャの君主であった。そしてバビロンに代わった者はペルシャではなくて、メディア=ペルシャ連立国であったのである。
両国の関係は、あたかも先般まで欧州に存立したオーストリー=ハンガリー国の如くであった。初めメディア王ダリヨスがバビロンを攻めてこれを陥れ、その後間もなくダリヨスが死ぬと、ペルシャ王クロスがこれを継いだのである」と。
この説明は、聖書以外にその根拠を有していない。しかし、その当否は別として、東洋歴史の研究がなお甚だ不十分な時に当り、歴史と一致しないという理由で、直ちに聖書の記事を疑うべきではない。
先にダニエルの三友人がネブカドネザル王のために罰せられた時は、火中に投じられたにもかかわらず、ダニエルの場合には獅子の穴に入れられたのは何故であるか。
近代の文学者は、ここにダニエル書が小説である証拠があると言う。即ち捕らえられた四人の囚人中三人は火中に投じられた名誉ある歴史を有しているが、ダニエルだけは、何かの都合上、名誉に与からなかったのは小説として不完全である。
そこで、特に彼が獅子の穴に投げ入れられたという物語を作って、これを補ったのであると言う。
しかしながら、信仰の立場から見れば、全て神を信じる者には必ず試練が臨むのである。
ただ、この記事が甚だ興味ある理由は、
火に代えて獅子を使った事が、ペルシャ人の思想を表現するところにある。
今もインドのボンベイ地方に残存しているペルシャの古い宗教、即ち拝火教またはパーシー経によれば、火を神聖なものとして尊び、罪人を罰するのに火を用いるのは、その神聖を汚すものだと称して、火に代えて獣を用いたのである。
バビロン王朝が覆滅して後、ダニエルまたはその讒奏(ざんそう)者に対する処罰方法が火刑から獣刑に変わったことは、よくこの間の消息を語るものである。
また「メデヤとペルシャの廃(すた)ることなき律法(おきて)」とあるが、それは政法学上注意すべき文字である。一たび発布された法律は、王の権力によってこれを変更することが出来ないようにして、王権に制限を付したのである。
これはアーリアン人種の政治から始まった事であって、いわゆる立憲政体の濫觴(らんしょう)である。我国の現在の問題である普通選挙なども、その第一歩をここに発したのである。
ダニエル書第6章を学ぶに当り、私達はペルシャ人と日本人との関係に注意せざるを得ない。私はかつて、ローリンソン(
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Rawlinson )の「七大帝国史」の中のペルシャ歴史を読んで、「これは日本歴史だ」と叫んだことがあった。
帝王の状態、婦人の隠然たる勢力等、かれこれ類似の点が甚だ多い。その古い文学もまたそうである。
大和民族と称して今日に存(のこ)っている私達日本人は、二三の人種の混合したものであって、その一つはペルシャから来たアーリアン種であるとは、骨相学者が唱えているところである。
もしそうだとすれば、ダリヨスおよびクロスを始めとして、その他あのような卑劣な方法でダニエルを除こうとした彼等ペルシャ人は、私達の祖先と同じ血を有したであろう。誠に恥ずかしい次第である。
バビロン帝国は既に滅亡したが、新王クロスは開明の君主だったので、直ちに敵国王に仕えたダニエルを選んでメディア=ペルシャ国の高官に任じた。この時ダニエルは既に85歳を超えた矍鑠(かくしゃく)とした老人であった。
王は国を百二十州に分け、その各州に知事を置くと共に、知事の上に三人の監督官を立て、その中の一人を特に監督中の監督官にした。そしてこの地位に据えられた者が、ユダヤ人であるダニエルだったのである。
こうして明晰(めいせき)な頭脳と誠実な心意との所有者だった偉人ダニエルは、英雄クロスの下に、一躍して最高位の大臣となったのである。
上に厳正な監督官があれば、下に自ずから怨嗟(えんさ)の声が起る。殊にダニエルは元々ユダヤの俘虜(ふりょ)である。そしてエホバの神を畏れ忠実に勤務に励み、私腹を肥やすようなことはしない。
これはその配下の諸官吏には耐え難い事であった。彼等は王から賜る給料だけでは満足せず、収賄によって富を作りたいと思っていたが、ダニエルが監督していたので、それを果すことが出来なかった。
そのようにして嫉妬と利欲とが相結んで、何とかして老骨の外国人ダニエルを葬り去ろうという思いは、全ての高等官の心中に燃えていたのである。
遂にある時、親睦会か何かを機会として、議はたちまちに成立した。彼等は不変の法律によってダニエルを陥れようと思ったのである。すなわち、それから後一カ月の間に、王以外の者に祈祷を為す者は、不敬罪に問われ、死を以て罰されるべしという規定である。
国の諸大官達は、この議決を施行するように王に迫った。王は決して悪い人ではなかったが、彼にもまた虚栄心があって、一カ月だけでも自分が神として扱われることを喜んで、直ちにこの法律に署名した。こうして事は定まったのである。
彼等反対者がこのような策を取ったのは、ダニエルの行為に公私とも一点の隙も無かったからである。
ただこの85歳の老翁について乗じることの出来る所があるとすれば、それは彼が毎日三度神に祈るという一事であった。彼はこれを隠れた所でせず、大臣官邸の中で西方エルサレムに面する部屋で、その窓を開いて公然と衆人の前でこれを行ったのである。
彼のこの宗教の故に、彼等はダニエルを陥れようと思ったのである。事の報知は、彼の耳に達した。この時に当り、もし他の人であったなら、難を避けるべき多くの方法があったであろう。
あるいは、しばらく祈祷を止めたらどうか。それはダニエルにとって不可能であった。母から教えられた日に三度の祈りを廃するよりは、むしろ死ぬ方が良いとは、彼の意思であった。
あるいは、アラビヤの砂漠を経て、密かに逃れるのはどうか。それは勇者には耐え難い事であった。勇者は何を為し得るとしても、敵に後を見せる事だけは出来ないのである。
あるいは、同志を糾合(きゅうごう)して反抗したらどうか。それによって君側の佞人(ねいじん)奸物(かんぶつ)を一掃することは出来たであろう。しかしながら、全てエホバの神を信じる者は、革命的運動を起すことが出来ない。
一たびメディア=ペルシャの法律として発布された以上、これを破ることは出来ないのである。
ここに至ってダニエルの取るべき途(みち)はただ一つであった。彼は自分が信じるままを行って、自分の生命を救主である神に委ねる他に途を知らなかった。
彼の心は定まった。即ち彼は、平常の通り、時が来ると共に、西方の窓を開き、高い声を発してエホバの神に向かって祈り、かつ讃美した。
反対者等はみなこれを窺(うかが)っていたであろう。彼等はその現行犯を捉えて、心に喜び、直ちに王の許(もと)にダニエルを連れて行って、これを訴えた。王は初めて自分の軽率な態度を覚ったが、もはやどうすることも出来ない。
もしネブカドネザル王であったなら、たとえ自分が署名した法律であっても、悪法と認めれば、直ちにこれを破棄したであろう。
ところがアーリアン人種の思想には、一つの重大な誤謬がある。彼等は多数の力によって法律を作成し得るとするのである。法律は多数によって作るべきものではない。神の定められた天然の法則であり、人はこれを発見すべき者である。
ところが王は、多数が制定した法律をどうすることも出来ず、遂にダニエルを獅子の穴に投げ入れさせて上からこれに封印した。
反対者は、歓声を発して言ったであろう、「汝ダニエルよ、今こそ獅子の餌食(えじき)となれ。我等は明日より汝なくして呼吸するを得るなり」と。
しかしながら、悲しんだのは王であった。彼は自分が尊重する大臣を獅子の穴に入れて、その心を少しも安んじることが出来なかった。
その夜彼は音楽を聴かず、酒食を摂(と)らずに朝が来るのを待ち、夜が明けると直ちに自ら穴の側に行って、ダニエルを呼んだ。
そして彼が不思議にも害せられずに生きているのを見て、歓喜に溢れて彼を助けだし、却って讒奏(ざんそう)者達を、その妻子と共に悉く穴の中に投じ、獅子に喰い尽させたのである。
獅子に害されずに、一夜獅子と共に在ったという、そのような事が実際においても有り得るであろうか。これを神の奇跡と言うなら素より議論にはならない。
しかし、奇跡は奇跡であるが、普通人に経験のない奇跡ではない。これに類似した事は、往々にして存在するのである。近来研究の盛んな
動物心理学にその一分の説明がある。
多くの動物は、人の気質を鑑別する不思議な能力を有するのである。例えばオウムや猛犬などは、しばしば人を噛もうとするにもかかわらず、ある人に対しては、一見してその温順な性質を知り、進んでその人になれるのである。
殊に興味があるのは獅子である。西洋に獅子使いと称する者がいる。多くは妙齢の女子であり、アフリカから来たばかりの獰猛(どうもう)な獅子を捉えてこれに接吻して猫のように扱う。
かのイザヤ書11章の預言のように、猛獣と人との間に平和な関係が実現するのは、単に猛獣の性質が一変するだけでなく、人の彼等に対する態度もまた変化し、愛で充ち満ちるようになるからである。
信仰のゆえに世から受ける迫害、これは2500年前のダニエルに限られた事ではない。何処にも如何なる時にもある。殊に我国のような非キリスト教国においてそうである。
過去50年の我国キリスト教史上、幾人の小ダニエルが小役人によって陥れられたかを知らない。
例えば地方の官庁または学校等に少しでも勢力のあるキリスト者は、ある時は直ちに猜疑(さいぎ)嫉妬(しっと)の目で見られ、何か欠点を捉えようとしても隙がないので、遂にその宗教のゆえに穴に投じられるのである。
即ち神社参拝または仏事参列等を機会として、キリスト者はしばしばその信仰を試みられるのである。しかしながら、このためにたとえどのような穴に陥っても、私達が取るべき途(みち)はただ一つだけである。
私達は、神の戦いを闘うために世に送られたのである。彼等に辱しめられつつ自己の信仰を維持することが、私達がキリスト者となった理由である。失職は止むを得ない。多数の反対に遇えばどうしようもない。
もし聖旨(みこころ)に適うなら、神は奇跡を起こして私達を助けて下さるであろう。もしそうでなければ、私達の身は死んでも、私達の霊は直ちに神の聖前(みまえ)に運ばれて、時が至れば栄光の冠が私達に着せられるであろう。
救われるのも感謝、死ぬのも感謝である。憐れむべきは穴に投じられたキリスト者ではなくて、却って卑劣な手段を遂行して満足した世の多くの迫害者である。
公衆の面前で祈る事を恥じてはならない。これは決して偽善ではない。キリスト者の最も美(うる)わしい習慣である。
ダニエルは多分五六歳の小児の頃に、これをその母から教えられたのであろう。そして老いて85歳になり、将(まさ)に獅子の穴に投げ入れられようとする時も、なおこの習慣を廃止することが出来なかった。
米国の第二代大統領ジョン・アダムスは後に上院議員となり、議会開会中、ワシントンのホテルに宿泊し、夜毎に同僚議員の前で、ベッドに伏して「天に在(いま)す我等の父よ」と声高に祈った。
そして同僚達がこれを怪しむのに対して言った、「これは私の母が私に教えた事、これを止めることは出来ない」と。
諸君もまたあるいは大臣となり、あるいは博士となっても、青年時代に学んだ祈祷の習慣を怠ってはならない。これは世人の前に、諸君がキリスト者であることを発表する最も良い機会である。
我国にも、幾多の信仰家がいた。中でもとりわけ偉大だったのは、正教会のニコライ主教であった。
彼は文久元年に二十幾歳の時に我国に来た。彼がロシア国を発する時、婚約しようとしていた婦人がいた。若いニコライは思った、「今や二人の婦人が私の愛を求めつつある。その一人は、愛すべき日本である。私はむしろ私の妻としてこれを選ぼう」と。
こうして彼は徒歩でシベリアを横断して、函館に来て伝道を始めた。ところが日本人は、誰も彼の言葉に耳を傾けない。
ある時本国から、「君の若い婦人はどうしているか」と問うてきた。そこで彼は答えて言った、「私の美(うる)わしいフラウ(妻)は、未だ眠りから醒めない」と。
彼はその一生を我国のために献げた。日露戦争が勃発すると、ロシア公使館から後事を託されたオーストリア公使館は、深く彼の身を気遣ってきて、館内の一室に避難するように勧めた。
ところがニコライはこれを承知せず、却って自分の書斎を門に近い所に移し、行人の嘲罵(ちょうば)の声を聞きつつ、静かに聖書の改訳に従事して、その一生を終ったのである。彼もまた近代のダニエルであった。
ダニエルがこの試練に遇った時、彼は既に85歳の頃であった。その後二三年のうちに、彼は死んだようである。
先に彼がまだ紅顔の少年としてネブカドネザルの王宮に携えられてきてから、試練に試練が続いて、今や将(まさ)に墓に下ろうとするに当り、再びこの激しい試練に遭遇したのである。
私は疑う、神は愛する者をそれほどまでに苦しめられるのであるか。青年時代に既にかの試練を経て、今に至るまで信仰を継続したのだから、もはや彼を苦しめる必要はないのではないかと。
しかしながら明白な事は、
キリスト者が百年の生涯を続けるならば、百年その試練は絶えない事である。青年時代に始まった試練は、世を去るまで終らない。いや、後になるほど試練はますます甚だしくなるのである。
キリスト者は終りまで、キリストの証明者として戦わなければならない。ダニエルの生涯は、この試練に勝つことによって、その最後の印を押されたのである。彼がもしこの試練に負けたなら、彼の全生涯が汚されたであろう。
この重大な戦いにおいて敗れた悲しむべき実例は、哲学者カントである。彼は言うまでもなく、偉大な先生であった。しかしながら、その晩年の行動は、惜しんでもなお余りがある。
彼が既に70歳に達し、その大著述を終って世界に名を挙げた時であった。大王フレデリックが死んでフレデリック・ウィリアム二世がこれを継ぎ、大臣ベンネルを率いて自由思想の圧迫を始めた。そして圧迫の潮(うしお)は、遂にケーニヒスベルヒのカント老先生を襲った。
1792年10月1日、一片の詔勅が彼に降った。いわく、「汝の唱えるところは、プロシャ政府の信仰と異なるので沈黙せよ。然(しか)らずば制裁を加えん」と。
その時もしカント先生がダニエルのように真理のために自分の信じるところを曲げることは出来ないと答えたならば、ドイツの哲学は一変したであろう。
ところが先生は奉答して言った、「臣は陛下に対して悪事を為したことを記憶していない。しかしご命令であれば、今後宗教に関しては一切語らない」と。遺憾この上ない。
その点において敬慕すべきはソクラテスであった。彼が陥れられたのは、獅子の穴ではなくて、毒薬の服用であった。しかしながら、彼の行動は、ダニエルのそれであった。
彼は真理の擁護のために、毒杯を受けることを拒まなかった。しかもその毒を盛られつつある間にも、弟子と共に盛んに論議して止まず、やがて腹部からその身体が冷却し始めると、弟子に腹をつねらせ、毒物が心臓を侵すまで、泰然として問答を継続した。
そして最後に一言を遺して言った、「薬神に一羽の鶏を献げようと思っていたが、し忘れたので、私の代りにこれを献げて下さい」と。
その従容(しょうよう)とした死の状(さま)を読んで、感激しない者が誰かいるであろうか。冷静なベーコンでさえ、これを読んだ時には、自分の椅子に釘付けにされたように感じたと言ったのである。
ソクラテスの死は、実にキリストの十字架に次ぐものであった。彼などは真(まこと)の学者であった。
私達各自にもまた、そのような試練が臨もうとしつつある。私はこれを私自身の問題として言う、私のキリスト者としての生涯の最後に、大きな試練が私に臨む時に当り、諸君の祈りを求めざるを得ない。
願わくは、その時私はカントではなくて、ソクラテスになる事を。願わくは、獅子の穴を恐れて、聖名(みな)を汚さない事を。
スミルナの監督ポリカルプは、火で焼かれようとする時、その敵が彼を誘って言った、「イエスは救主でないと言え。そうすればあの火は直ちに消滅するであろう」と。
ポリカルプはこれに答えて言った、「私は多年イエスの豊かな恩恵に浴して来た。今この老年に及んで、どうして彼を拒否することが出来ようか。あの火は何か。あれは昔エリヤを天に運んだ火車である」と。
こうして彼は感謝して身を火中に投じて死んだのである。私達もまた、彼に倣(なら)いたいと思う。老預言者ダニエルの最後の試練は、全てのキリスト者を激励するであろう偉大な教訓である。
ダニエルはどこでどのようにして死んだか分からない。彼もまたモーセ、エリヤと同じく、「神の人」であって、神の器具として使われた者である。ゆえに彼自身として貴いのではない。神の僕(しもべ)として尊かったのである。
聖書は、国民の歴史ではない。また偉人の伝記ではない。神の御働きの記録である。ゆえに聖書記者は、神の聖名(みな)が崇められることを欲して、自分の名が揚がることを忌み嫌った。
ダニエルもまたモーセと同じくエホバに葬られて、「
今日まで其墓を知る人なし」(申命記34章6節を見よ)である。
しかし神は、彼をお忘れにならない。キリストは「預言者ダニエル」と称して、彼の言葉を引用された(マタイ伝24章15節)。人としての名誉この上なしである。
(以上、5月10日)
完