全集第25巻P558〜
(「キリスト教宣伝と日本文化」No.2)
『五』
次に教育の方面から言ってみても、これまた著しい感化を及ぼしている。キリスト教主義の学校は、今日まで日本では成功はしなかった。同志社と慶応義塾と比べると、後者が成功している。
早稲田大学に比較出来るようなキリスト教主義の学校は、未だ無い。しかし、これまたキリスト教の罪とばかりは言えない。未だキリスト教教育の需要が日本に無いのである。
しかしながら、男子の教育を離れて、女子の教育に至れば、全くキリスト教主義の教育に先を制せられて、日本人はその後に従って行きつつある。女子教育については、キリスト教は日本の率先者である。
もっとも、その教育には、非難すべき点は沢山ある。ゆえに私自身は一人の女子を有(も)っていたが、それを学校へ入れるに際しては、キリスト教の学校へ入れずに、日本人の普通の女学校に入れた。
しかし、全体から観察すれば、キリスト教の女学校が、日本の普通の女学校または仏教系の女学校に優っていること、また一般日本人が女子教育の必要を認めた数十年前に、キリスト教の方で、この事業に着手したことは争えない。この点は、日本人が幾ら頑張っても及ばない。
また児童教育である日曜学校について観てもそうである。今や我国は日曜学校の必要を感じて、大いに奨励しているが、やはりキリスト教教育の後を追っているものであることは明白である。
日曜学校は、全くキリスト教に始まったものである。その全ての制度および教育の方法等が、悉くキリスト教の発見によるものである。
ゆえに両本願寺等仏教徒の方でやっている日曜学校の教授方法を見ると、その手段方法は、笑えるほどにキリスト教のやり方を採用している。もう少し独創的な意見があって欲しいと思うほどに、キリスト教のものを真似ている。
この点においても、キリスト教は確かに日本の文化を益している。
『六』
また慈善事業を見れば、昔の日本にも慈善事業は無くはなかった。けれども、これを組織だった事業として行なったのは、やはりキリスト教である。
不良少年感化事業、出獄人保護事業、孤児院、あるいは監獄改良事業等、組織立った慈善事業は全てキリスト教が行ったものである。禁酒運動、廃娼運動などもそうである。
あるいは救世軍が行っている貧民救助事業なども、全くキリスト教の事業である。今日仏教徒の方でもこれをやっているけれども、日本の仏教徒が総がかりでやっても、山室軍平一人でやっているのに及ばない。
キリスト教のやっているものを除いては、日本にはこれと言って世界に紹介すべき独創的な慈善事業を見ることは出来ないのである。
さらに進んで、国家ならびに社会組織の上から観て、最も重大事である家庭改造の事については、キリスト教を待たずにはとうてい行なわれないと言っても過言ではない。
日本の普通社会には、キリスト教社会に見るような、ホームというものは無い。ホームという語をどう訳したら良いか、その訳語さえ適当なものが見出されない。
ホームと言うものは、家庭とも違う。ホームは楽しい所、清い所、神聖な所、即ち一種特別な制度の現れであって、キリスト教に依らなければ、本当のホームの実現を望むことは出来ない。
もし私がいうことを疑うなら、キリスト教徒以外において、日本の何処に果してそれがあるか、示してもらいたい。
広壮な住宅はある。厳格な家庭もある。あるいは種々の娯楽機関が備わった家庭もある。けれども、
クリスチャンのうちにあるようなホーム、そういう楽しい清いホームが、日本の社会の何処にあるか。
これまたキリストの感化に依って日本において徐々に現れつつあるのであって、
日本の社会改造は、日本人の建設するホームから始まるべきであることは、これまた明白である。
私にホームを与えよ!! ホームは新しい国家を促進する。ホームの無い所には、社会も国家も無い。そのホームを清くするものは、即ちキリスト教であって、また今現に清くしつつあるのである。
これとは対照的に、今日の日本の社会には、不良少年が多い事を顧(かえりみ)なさい。今日のように、日本の青年男女が堕落した時はない。これは日本にホームの無い何よりも明白な証拠であって、もしこの現象が継続するとすれば、日本は外国の来襲を待たずに、内から滅びるのは確かである。
誰が私達に清い楽しいホームを与え得るか。本願寺が与え得るか。実業家、政治家、あるいは官憲の下に在る教育家が与え得るか。いやいや決して与え得ない。
ただ神が遣わされた、その独子(ひとりご)ナザレのイエスを信じることによって、初めて実現し得るのである。ゆえに他の事は問わない。健全なホームを実現するためにも、キリスト教は日本の国家社会に必要欠くべからざるものである。
『七』
その他政治上に現れたキリスト教の感化について言うならば、これは至って微弱なもので、今日特に言うほどのものは無い。けれどもこれにしても、政治家のうちでやや異彩を放っている者は誰か。
最も良く平民の権利を考え、最も健全にその発展を図りつつある者は誰かと言うと、早い頃では第一帝国議会衆議院議長中島信行であり、次いで同じく議長の片岡健吉である。
それから議員に江原素六がいて、また現在では島田三郎、根本正等がいる。これ等によって考えてみても、文明的思想を実行しようとする者は、概ねキリスト教信者、あるいは一度キリスト信者であった者である。その点から考えてみても、キリスト教は日本の政治に何の関係をも及ぼさないと言うことは出来ない。
これを日本の他のいわゆる政治家に対照してみるならば、その言うことは大きいけれども、その行為は実に卑劣であり、彼等ほど日本人自身を憤飯の念に耐えられなくする者は、キリスト信者のうちには先ずいないと言ってよい。
時にはキリスト教の教師が、政治家に堕落して、甚だいかがわしい行為に出ることがあるので、全てのキリスト教の政治家を弁護することが出来ないことは嘆かわしいが、しかし大体において、キリスト教の政治家が日本の政治界に良い感化を及ぼしていることは疑いない。
『八』
次に今日のキリスト教の伝道について少し述べてみたい。今日日本においては、キリスト教の伝道はほとんど実が挙がらないと言っても良い。
教会はいずれもさびれ切っていて、これを復興する策に汲々としている今日の状態から言うならば、日本のキリスト教は、今日は衰退時代にあると言っても良い。
しかし、この事実は必ずしも日本人がキリスト教を要求しないという証拠にはならない。それは聖書会社の事業について見ても分かる。
人は驚くであろうが、今日日本においていわゆる汗牛充棟もただならず、日々出版物が出るにもかかわらず、何が一番よく売れるかと言うと、キリスト教の聖書が一番である。幾ら印刷しても日本人の今日の要求に応じきれないのである。
これを疑うならば、京橋区尾張町の米国聖書株式会社支店を訪問すれば直ぐ分かる。如何に彼等が全力を尽して印刷しても、間に合わないのである。このように売行きの良い書物は、他には無い。
これはもちろん、二十万足らずの信者だけの要求ではない。日本の全社会が、これを要求しているのである。即ち教会以外において、キリスト教を要求している者が、非常に多いことは疑いない。
また、私の無教会の伝道事業もすこぶる有望を極めて、至る所で歓迎され、少し広告すれば数百人あるいは千人ぐらいの聴衆を得ることは、至って容易い。
のみならず、西洋人の思想を称してキリスト教と言い、これを伝える伝道は歓迎されないけれども、聖書のキリスト教そのものを伝えるときは、誰が伝えても、これに応じることは、実に熱心である。
私は一昨年来、柏木の隠居を離れて、東京の真中に行って伝道しているが、今日まで未だかつて聴衆不足の感を起したことはない。この状態は、多分後々まで続くであろうと思う。
『九』
今や真正の日本人は、キリスト教的思想、キリスト教的文明、キリスト教的社会事業、キリスト教的哲学などと言うことについて、聴きたいとは思わない。そういう事を聴きたいと要求している者は、東京その他の都会における一小部分のようである。
即ち遊惰(ゆうだ)的生涯を送っている、いわゆる堕落文学者の類であって、信頼すべき正直な日本人は、純粋のキリスト教を求めつつある。彼等は天国について、天国の救いについて、あるいは未来の裁判等について聴こうとしている。
これを説くと、喜んで迎える。ゆえに今やキリスト教の諸教師も、この事について目を覚ましてきた。彼等は日本人の要求に応じるには、キリスト教の思想や哲学を唱えるのは、間違いであることを知ってきたのである。
日本人は、元来宗教的国民である。宗教的観念が深いことは、世界第一である。この事は、我国において、神社仏閣の盛んなこと、および国民全体の神仏を尊敬する念が、非常に強いことを見てもよく分かる。
ところが古い宗教は、もはや彼等を導き、これを感化する実力を失ったので、今や日本人は、何か他にその信仰的要求を満足させる宗教を求めつつある。
ただ今日まで、政府殊に文部省の方針がキリスト教に反対し、これを排斥したから、これを受けることは出来なかったのである。しかし霊魂の要求は、如何なる大政治家といえども、どうすることも出来ない。
そして私の見るところでは、日本人はまた厭々ながらキリストの福音に化されつつあるが、ひとたび心からキリスト教を信じた暁(あかつき)には、日本国は世界第一のキリスト教国となって、日本は世界を導くに至るであろうと考えるのである。
今や日本は、この点において実に大切な時期に在る。けれども甚だ有望である。今は日本人は、外国人に頼る必要はない。だからと言って、宗教・道徳の観念には全く欠乏している、伊藤博文、井上馨、山県有朋というような政治家の教導を仰ぐ必要は少しもない。
今から神が日本人に下されようとする福音を受けるならば、日本人は最良のキリスト教信者となって、その感化を全人類に及ぼし得る時期に在ると信じる。その考えで私は、喜びに満ちて伝道に従事しつつあるのである。
『十』
終りに日曜学校世界大会の事について一言したい。この大会は、その事自身としては、実に慶すべき事である。そしてキリスト教信者の立場から言えば、我国のキリスト教の実力を世界に示す最も良い機会であることは疑いない。
しかし、その採った手段方法に至っては、大いに異存がある。なぜこのような純粋のキリスト教の大会を開くに当り、キリスト教と何の関係もない大隈侯爵、渋沢子爵、阪谷男爵というような、純粋なこの世の人達の援助を受けたのか、私には分からない。
これは甚だしく純宗教的な運動を汚すもので、その悪結果は、私の反対を待たずに自ずから現れて来ることは明らかである。
日本の宗教家も言っている。天海和尚は、徳川家康から三十万石のお墨付きをもらって、直ちにこれを面前で焼き捨てた。そして言った、「出家は三界無庵、樹下石上を宿とす」と。
そのようなことは今日の文明世界においては行なわれないけれども、しかし何も宗教を講じる上において、大金を投じて大講堂を建てる必要はない。それをするために不信者の寄付を仰いで虚勢を張るようなことは、宗教そのものに対する侮辱であって、その結果が良好でないことは、明らかである。
宗教伝播をそのような俗的手段に訴えることは、米国あたりの俗衆のやる事であって、その点において米国の宗教の腐敗は、言語に絶している。その米国の信者がしていることを、日本人が学んで日本の中央でやったことは、最も恥ずべき、嘆かわしい事である。
今日までそのような方法で、これに類した大会を日本で開いたことは二三度あるが、いずれも開会の当時は盛大を極めたけれども、その閉会を告げると、直ちに教界の衰退を来した。
今度も必ず同じ結果に終るであろうと思う。潔白を愛する日本人は、キリスト教を信じる者と、信じない者とを問わず、そのような手段方法を忌み嫌うのである。
日本キリスト教界の率先者がまた、再びそのような手段で、そのような会合を東京で開いたことは、実に痛歎(つうたん)せざるを得ない。 (談)
完