全集第26巻P45〜
(「ロマ書の研究」No.7)
第四講 パウロの自己紹介(三)
第1章3節、4節の研究 (2月6日)
1節の終りに「福音」の一語が出たため、2節はこれを受けて、「
此福音は従前(はやく)より予言者たちに託(よ)りて聖書に誓ひ給へるものにて」と述べ、3節前半は、「
其子我等の主イエス・キリストを指して示せり」と言う。
これは、福音の中心問題が「神の独子(ひとりご)」であることを示したのである。そして3節後半と4節とは、この独子(ひとりご)について記して言う、「
彼は肉体に由ればダビデの裔(すえ)より生れ、聖善の霊性に由れば甦(よみがえ)りし事によりて明かに神の子たること顕はれたり」と。
これは使徒パウロのキリスト観の簡約であって、この自己紹介の中枢、アーチ橋の要石(キーストン)である。
この3、4節は、原文においてはわずかに28字、英訳においては41字(共に冠詞を勘定に入れて)より成って、1節から7節にわたる一成文(センテンス)の一部であるに過ぎないが、その内容が壮大、深遠、高貴であることは、誰もが認めざるを得ない。
1節〜7節を表門と見た私達の比喩を用いれば、既に表門の敷居を見、鴨居を仰いだ縦覧者は、図らずも天井を仰いで、そこに一大彫刻物を認めたようなものである。
「大」と言うのは、その大きさを指すのではなくて、実質を指す。実に類(たぐい)稀(まれ)な大傑作である。しかしながら、全て大傑作の特徴として、これを了得(りょうとく)することは、容易ではない。
大体を把握することは甚だしく困難ではないが、その全部を精密にかつ正確に知得することは、至難である。それだから、この彫刻物の不可解さに困惑し果てて、遂に本館に入らずに、ここから引き返す者は少なくないのである。
もともとパウロの文章にはそのような難所が少なくはない。そしてこの両節については、大注解者が、各々その説を異にする有様である。そのために私達もどの説を取れば良いのか迷うのである。
しかしながら、パウロはもとより人を苦しめようとして、不可解な文辞を弄(ろう)した人ではない。必ずやある重大な真理を提示することを目的として、彼自身においては極めて明瞭な事を―――あまりにも明瞭なため―――簡潔に記したのであろう。
ゆえに私達は、この両節をなるべく良く理解するように努めるべきである。
日本訳聖書の訳は、正確でない。今原文を次のように訳してみよう。
[この福音は従前(はやく)より其預言者たちによりて聖書に誓ひ給へるも
のにて]神の子に関するものなり。彼は肉によればダビデの裔(すえ)より
生れ、聖なる霊によれば、死よりの復活を以て明かに神の子たること顕
れたる者、即ち我等の主イエス・キリストなり。
これは決して完全な改訳ではない。ただなるべく邦訳聖書の訳文を破壊しない程度で試みた仮の訳である。ここにイエスがただの偉人または聖人として訳されていないことは、一読して明らかである。
これを非難する者は言うであろう。イエスはイエスでよい。単なる人、偉人、聖人、ナザレの預言者でよい。そのような難しいキリスト論は不用である。まして書簡劈頭(へきとう)の自己紹介中に、そのような面倒な神学的命題を記すようなことは、パウロその人の意を知るに苦しむと。
そのような立場から見るときは、この3、4節には、少なからぬ難問題が含まれるのである。
大工の子イエスがダビデ王統の人であったとは、当時のユダヤ人にも異邦人にも、明らかに一つの大疑問である。もちろん彼等には容易に承認しがたい事であったに相違ない。
ところがこのイエスは、神の子であると言う。神の子とは、神の子たちという意味ではない。神の独子(ひとりご)(The Son of God)のことである。それなら普通の人と全く本質を異にする存在者を指すに相違ない。
ゆえにこれはなお難しい問題である。ところが彼が神の子であることが明らかになったのは、復活によるとは、ますます大きな難問題である。復活その事が、既に信じ難い事である。
ところが、これをイエス神性の証拠とすると言う。もし何か他の解し易い事―――例えば彼の人格とか教訓とか行為とかの類―――においてイエスの神性が現れたというならばこれを理解する道もあろう。
ところが極めて疑わしい彼の復活をひっさげて神性を証拠立てるとは、あたかも空虚の上に壮屋を築こうとする類ではないか。
しかし仮に数歩を譲ってイエスの甦りを事実と認めても、何故に甦った事が彼の神性を現したかが、明らかに一つの難問題となるのである。
甦りという事がもしあるならば、必ずしも彼一人に限ったことはなかろう。ところが彼だけは、その事のために神の子であることがあらわれたと言うのは、論拠がすこぶる薄弱であると。このように見て来ると、この両節中に、幾つもの難問題が潜んでいるのである。
もう一つの問題がある。「ダビデの裔(すえ)」とある
裔は、原語 sperma(スペルマ)で男系の裔を意味する。それではヨセフをダビデの後裔(こうえい)と見て、その子であるイエスを「ダビデの裔より生れ」と言ったのであろう。
果してそうであるならば、福音書の強調するイエスの処女出生を、パウロが否認しているのかと。これまた聖書解釈上の一難問である。
現にマイヤーのロマ書注解(英訳45〜46頁)(
http://www.amazon.co.jp/Critical-Exegetical-Handbook-Epistle-Romans/dp/1153333570/ref=sr_1_1?s=english-books&ie=UTF8&qid=1431918812&sr=1-1&keywords=critical+and+exegetical+handbook+to+the+epistle+to+the+romans )は、これはヨセフの家系を示すとなし、パウロは処女出生を、その文書のどこにおいても支持していないとの、すこぶる明快な論定を下しているのに対して、
ゴーデーは、そのロマ書注解(英訳128頁)(
http://www.amazon.co.jp/Commentary-St-Pauls-Epistle-Romans/dp/1104085682/ref=sr_1_2?s=english-books&ie=UTF8&qid=1431919019&sr=1-2&keywords=commentary+on+st.+paul%27s+epistle+to+the+romans )において、かなり有力な根拠の上に、これをマリアの家系と見て、マイヤーと正反対の意見を提出している。
いずれの見方にも相当の根拠があって、信仰問題としてはいざ知らず、聖書学上の問題としては、人を取捨に迷わせるのである。
そう、難問題はロマ書1章3、4節には、幾つも潜んでいる。しかし聖書は、本来信仰の立場において読むのを本義とする。字義の考究は言うまでもなく肝要であるが、信仰の眼を以てしなければ、聖書は謎の世界である。
聖書は信仰の書である。そして信仰の書は、信仰の鏡に照らされて、初めてその姿を現すのである。霊の事は霊の眼にしか映らない。私達は、信仰のない者が奇怪とする所、聖書学者が至難とする所をも、霊の眼で見通そうとする勇猛心を揮う必要があるのである。
「肉によれば」とは何を意味するか。ゴーデーの研究によれば、聖書の「肉」(ギリシャ語の sarkos 英語の flesh)には三義ある。第一は骨や血に対する肉の意味で、それ自体を指す。第二は体全部即ち肉体を意味する。第三は人間を意味する。
この第三義の例を挙げれば、「諸人(もろびと)(all flesh)こぞりて汝に来らん」(詩篇65篇3節)、「神の前に義とせらるゝ者一人だに有ることなし(直訳―――凡ての)
肉神の前に義とせられず」(ロマ書3章20節)等がある。
邦訳聖書が「肉体」と訳したのは、この第二義を採ったのであるが、パウロは単にイエスの肉体だけを意味したのであろうか。イエスに神性と人性の兼有を信じていた彼は、むしろこの場合、肉という文字を第三義に用いたのであると思う。
即ちイエスは、「人としては」ダビデの裔より生れたのである。これは彼の人的半面である。そして「聖(きよ)き霊」によれば神の独子(ひとりご)なのである。
彼には二つの性質があった。
彼は一面人であって、一面神であった。彼においては、人性と神性との両者が融合して一つとなっていた。これがパウロの主張であった。そしてロマ書1章3、4節の主意はここにある。
これを形而上学的にまたは神学的に講究する
(:調べて解明する)ことはしばらく別として、単純なキリスト者の信仰の立場から眺めるとき、これはぜひとも不可欠(なくてはならない)の事である。
イエスの神性が否定される時は、信仰が拠って立つべき土台が失せる。私達は空を踏まえて信仰の脚を立てることは出来ない。
彼を単なる人と見ることは、理論上においては、あるいは困難に陥らない道であるかも知れない。これを合理的と称して誇る人が多い。果して事実上合理的であるかどうかは一疑問であるが、少なくとも合理的に見えることは確かである。
しかしそれでは信仰そのものがほとんど有るか無いかのように希薄となってしまうことをどうするのか。感謝なく、平安なく、詩なく、歌がないのは、この種の立場である。
事実は雄弁以上の雄弁である。見よ、ユニテリアン教が何と乾燥無味であるかを! 見よ、ユニテリアン教徒が如何に信仰的潤(うるお)いを欠いているかを!
彼等に種々の長所がないではない。さりながら、最も重要な霊的生命の中核を欠いていることは、彼等に感謝の詩がなく、歓喜の歌がないことによって明らかである。
人が最も切に求めるものは、理論の純一ではなくて、魂の純一である。そして魂の純一は、涙の伴う信仰によらなければ得られない。私達はもちろん理論を蔑視するものではない。ただ理論に囚(とら)われて心霊の光を鈍らせる徒を蔑視するものである。人よ私達をかの狂信者流とするな。
そう、イエスの神性を認めるのは、信仰を信仰とする道である。それは何故かと言えば、実に救いのない所に信仰は生起しない。そして人は、単なる同類の一人に依って救いに与かり得る者ではない。何故なら、人は如何に偉大であっても、その揮う能力に制限があるからである。
数年前までは、アメリカの大統領ウィルソンは、世界の救済者のように思われていた。しかし今は果してどうか。彼は今日において、むしろ世界の壊乱者ではないかと思わせるほどである。
世界において、今や誰一人として、彼によって救われようとする者はない。しかし、これは必ずしもウィルソンの罪ではない。
もともと人間には、人間を救う力が与えられていない。
救いはただ、万物の主なる神と、その代理者である独子(ひとりご)キリストとだけから来る。その他の誰からも、真の意味の救いは来ない。ダビデからも、ソロモンからも、イザヤからも、エレミヤからも、パウロからも、ルーテルからも救いは来ない。
イエスがもし単なるダビデの後裔であるならば、如何に絶倫無比の人格者であっても、とうてい人を救い得ない。
ただ彼に神の性があればこそ人を救い得たのである。また救い得るのである。人の持たない性が彼にあればこそ、人の持たない力が彼に有って、人類の救者であり得るのである。
これは彼の救いに浴した者においては、極めて明々白々な実験上の真理である。この事が根底になければ、キリスト教は有っても効(かい)のない宗教である。浅く民の娘の傷を癒して、平和でないのに平和だ平和だと言う教である。
キリスト教がイエスの神性の上に立っていない宗教ならば、私達は一刻も早くこの宗教を去るべきである。何故なら、この宗教を信奉したために種々の苦痛や不便に会うのは愚の極であるからである。
もしキリスト教が人を救い得る宗教であるならば、ぜひともイエスの神性をその根底として持つものでなくてはならない。イエスは明らかに神の独子(ひとりご)である。その神性は日の如く明らかであると。
こうしてイエスの本質として神性を認める時は、彼は天の栄位を去り、身を下して人となったと見る他ないのである。
即ちパウロが晩年において、「
彼は神の体(かたち)にて居りしかども、自ら其の神と等しく在る所の事を棄て難きことゝ思はず、却て己を虚うし僕(しもべ)の貌(かたち)をとりて人の如くなれり」(ピリピ書2章6、7節)と言ったとおりである。
即ち神の独子である彼が、人として人間世界に現れたのである。それでは何故この事をする必要があったのかという疑問が起こる。これに答えるものとして、私達はヘブル書4章14節から16節までを提示する。
されば我等に空を通りて昇りし大なる祭司の長(おさ)即ち神の子イエス
あり。故に我等信ずる所の教を固く保つべし。そは我等が荏弱(よわき)
を体恤(おもいや)ること能(あた)はざる祭司の長は我等に有らず。
彼は凡ての事に我等の如く誘(いざな)はれたれど罪を犯さざりき。是故
に我等恤(あはれ)みを受け、機(おり)に合ふ助けとなる恩恵(めぐみ)を受
けんために憚(はばか)らずして恩寵(めぐみ)の座に来るべし。
神の子がイエスとなり、大いなる祭司の長となって人の間に幾年かを人と共に送り、その間、患難の風に吹かれ、辛苦の雨に打たれ、罪は犯さなかったが、しばしば人と同じく誘われ、人の弱さを思いやり得る立場に己を置き、
遂には万民の罪を贖うために十字架に上り、甦り、空を通って昇り、今や神の右に座して祭司の長として人の罪のため、刻々とりなしの労を取りつつある。
それだから私達は、信じる所を固く保つべきである。それだから私達は、「恩恵を受けんために憚らずして恩寵の座に来るべ」きである。一言で言えば、神の子が降世して、人となったので、人の救いは成立したのである。これがなければ、人は遂に絶望の捕虜(とりこ)となる運命を脱することは出来ない。
イエスに人性と神性の両面が共在したからこそ、彼は人類の救主であるのである。
ロマ書1章の3、4節について、疑問とすべき点は幾つもあるが、その主意はイエスの人性神性の具有を示すことにあるのは明らかである。
そしてこの事は、彼が救主であるために必須の事であって、したがって私達の救いのために必須のことである。
頭脳の上でだけ福音を悟了
(ごりょう:すっかり悟ること)しようとする人には、これは躓きの石である。しかし、その全心魂を挙げて救いの実得と生命の分与に与ろうと志した悩める魂に取っては、実にまことに天来の福音である。
(以下次回に続く)