全集第26巻P146〜
(「ロマ書の研究」No.27)
第15講 人類の罪(二)
3章1〜20節の研究 (5月1日)
3章9節〜20節は、全人類を罪人と定めた箇所であることは、前述したとおりである。そして全人類と言えば、もちろんその中に自己が含まれていることを認めざるを得ない。
それでは自己が罪人と定まったのは、厭(いと)うべき事であるか。いや、これは却って祝すべき事である。罪のない所に救はない。そして罪の感覚の浅い所には救の喜びも浅く、罪の感覚の深い所には救の喜びも深い。
深く恩恵の宝泉に汲もうと志す者は、先ず鋭利な解剖刀で自己の心を切り割(さ)かなければならない。したがって
罪の認知は、信仰の礎石(そせき)として極めて重要なものである。私達は再び、10節〜18節(即ち旧約聖書からの引用句を重ねた箇所)に注意する必要がある。
「
義人あるなし。一人もあるなし」と、第一文は先ず力強く私達の胸に迫り来る。これは果して人類の実状であろうか。私達は、そうであるとの断定を敢えて下すのである。
これを現代において見れば、米国の前大統領ウィルソンなどは、今の世に珍しい理想家として比較的正しい人には相違ないが、講和会議において自分が提案した国際連盟案の通過を計るために、他国の不義に賛成したことなどは、とうてい義人と称し得ない明証である。
あのクロムウェルならば、どれほど良い交換条件を示されても、とうていこのような不義に同意することはなかったであろう。
しかし、この偉大でかつ義烈であったクロムウェルさえ、すこぶる痛切に自己の罪を認めており、臨終に際しては、その一生を回顧して一時は失望に陥ったほどである。ああ全ての人は罪人である。義人は一人もいないのである。
この大断定を敢えてしたパウロの大胆と深刻は、言うまでもない。しかし彼の論議はすべて、殺すためではなくて、生かすためである。
いや、人を救うためには、先ずその人に罪人であることを自覚させなければならないので、当然の順序として、この万人有罪の大断定を敢えてしたのである。そしてその後に救いの道を開示しようとするのである。
聴く者の罪を責めずに、ひたすらその歓心を買う言説に終始するのは、救の道を知らない浅い教師の事である。救おうとする者は、そして救の道を知っている者は、先ず万人の有罪を高く叫ぶのである。
次には「
悟れる者なし、神を求むる者なし」という語がある。「悟れる者」は、原語 ho sunion (ホ スニオーン)であって、この場合単に悟った者という意味ではなく、
神を知っている者という意味である。
次の「神を求むる者」と相対して、前者は悟性において神を知る者を意味し、後者は意志において神を慕い求める者を意味するのである。
上記はゴーデーの解釈を採ったものであるが、他の学者の見方もほぼ同様である。例えばマイヤーは、「悟れる者」を敬虔な者、「神を求むる者」を思想や努力が神の方に向いている者と解している。またある辞典には、「悟れる者」を宗教的に明知な者と解している。いずれも大同小異と言うべきである。
悟った者はなく、神を求める者はいないというパウロのこの断定は果して事実に適(かな)ったものであろうか。古今東西を尋ねれば、少数ではあるが聖者や賢哲という者がいる。支那にもインドにもいた。
彼等は確かに明達の士であり、また神を求める者であった。道と義とに対する彼等の熱愛は、その一生を通じて鮮やかであった。そしてその信奉している対象への献身と犠牲とは、厳かで強かった。
ファラー
(Frederic William Farrar)の名著である「神を求めし人々」(Seekers after God)(
http://www.amazon.com/Seekers-After-God-Rev-Farrar/dp/1596056592 )は、エピクテトス、セネカ、マルクス・アウレリウス三聖の評伝であるが、いずれも貴い境地に達した聖者である。
中でもエピクトテスなどは、真に至聖というべき価値があると思われるほどである。
そのように考えて来ても、私達はなおパウロに同意して、「悟れる者なし、神を求むる者なし」と言わなければならないのであろうか―――世に数多くはない聖人・賢者に対する私達の尊敬を傷つけてまでも。
しかしながら、問題は彼等が真に悟った者であるか、真に神を求めた人であるかどうかに存する。熱誠が熾烈(しれつ)であったことと、献身が強固だったこととは、私達は確かにこれを認める。
そうではあるが、彼等の「悟り」は果して完全であったであろうか。即ち彼等は、文字通り悟った者―――真に神を知った者―――であったであろうか。
私達は彼等に、何かしらあるものが欠けていることを感じざるを得ない。口には言い表し得ない、ある「物足らなさ」を感じざるを得ない。彼等は神を知らなくはないが、その知り方は充分ではない。
彼等は真の神を知った人ではなかった。即ち、神を真に知った人ではなかった。これは彼等を貶(へん)して言うのではない。彼等の真相を語ろうとするのである。
もちろん彼等が貴い人であったことは言うまでもない。また彼等に対して私達が敬意を表することも事実である。しかし、聖書的意味においては、彼等もまた罪人であったこと、そしてこの一点においては、彼等はその同族である他の人間と全く同一であったことを、私達は認める。
そして注意すべきは、彼等が人類中の極少数者であった一事である。そしてパウロが聖書の言葉を借りてこの断定を敢えて下した時において、彼はもちろんこの極少数者を目の前に置いたのではなくて、人類全体を目の前に置いたのである。
それだけパウロのこの断定の力と合適とを、私達は認めざるを得ないのである。
次は第12節である。「
皆曲りて誰も彼も邪(よこしま)となれり。善を行ふ者あるなし。一人だにあるなし」と言う。
「曲りて」は、
脱線してという意味、「邪となれり」は、
益のない者となったという意味である。人はみな、誰も彼も正しい道から脱線して、益のない者となっていると言うのである。
これは果して事実であろうか。その次の「善を行ふ者あるなし。一人だにあるなし」と共に承認しがたい断定であると見られ易いのである。これに対しては、前節の疑義に対するのと同様の答弁を私達は与えたいのである。
即ち真に善を求める者は世にあるか、また真の善を求める者は世にあるかという問いを発したいのである。
その動機の中に、ほんの少しの私心をもまじえずに真に―――完全に純潔な心で―――何等の計量もなしに、心から自然かつ至純に善を求める者が世に存するか。また真の善、唯一真正の善(the good)を求める者があるか。
神が人に求める善、神の独子(ひとりご)キリストに現われたような善、そのような最上善を求める者が世にあるか。
そのように問われる時は、
ナザレのイエスを除いては、昔も今も善を行う人は一人もいないという断案を下さざるを得なくなるのである。
大哲カントは言った、「最も善いものは、善い意志である。ゆえにこの善い意志から出たものが真の善である」と。この意味における善即ち真純な善を行う人が、世に果しているであろうか。その動機にほんの少しも不純をまじえない、純粋に善い意志だけから発する善を行う人が果して世にいるであろうか。
他人(ひと)から見れば善人と見える者も、その人の心の中に分け入って見るときは、そこに善以外のものが潜むに相違ない。
ゆえに善人であると自分も他人も思っていたような人が、後にキリストの救いに入って鋭利な解剖を自己の上に加えるに至ると、自己の罪と不善の姿がすこぶる鮮やかに自己の心に感得されるのである。
そう、生れつきの人には、真の善は行えない。生れつきの人の中に、善人はいない。人は生れつき怒りの子、肉の欲に従って日を送る者、愆(とが)と罪を行って日を送る者である(エペソ書2章)。
比較的な悪人と相対して、比較的な善人はいる。比較的な悪に対して、比較的な善はある。もちろん後者は、前者よりも貴い。しかし、生れつきの人に純真な善を行えないことに変りはない。
そうではあるが、ある時人は、純真な善を行う時がある。それはキリストの霊が来て、その人を充分に占領した時である。その時は、人は自分の思いに反して真の善を行い得るのである。
中世におけるドイツの名高い説教者タウレル(
https://en.wikipedia.org/wiki/Johannes_Tauler )は、有力な伝道者として幾年かを経過した後もなお、真の善を行い得ないのを感じて悶々(もんもん)の情に耐えず、ある時ストラスグルグ市の郊外をライン河に沿って漫歩しつつあった。
その時一人の老人が歩んで来るのに会い、「私に取っては凡(すべ)ての日が善き日である。悪しき日は一日とてもない」という老翁の歓喜の言葉を聞いて不思議に思い、「もし神汝を地獄に落し入れなば如何」との問を発した。
老翁はその時快活に答えた。
地獄とは何であるか私は知らない、
併(しか)し私は、主が私を離れ給はぬ事を知っている。
一の腕(かいな)なる謙遜は、彼の人間性を抱き、
他の腕なる愛が、彼の神性を掴(つか)む。
それ故私の往く所は何処(どこ)へでも彼が往く。
彼なくして黄金の天国にあるよりも
彼と共に火の地獄に居る方が優ってゐる。
老翁のこの言葉を聞いて、タウレルの眼から涙はほとばしった。彼はこの単純な信頼に住む老翁から、「煩瑣(はんさ)な神学者たちが決して知らない知恵」を教えられたのである(詩人ホイッチャー作「タウレル」より)。
地獄に落ちてもキリストを離れないという信頼は、至純な信頼である。天国に入るためにキリストを信じ善を為すという心には、とかく不純がまじり易い。結果が善いか悪いかに係わらずに神を信じ善を選ぶというのは、純粋この上ないものである。
まじりのない宝玉のような美(うる)わしさがそこにある。この老翁などは、この域に達していたのである。キリストの霊が私達を潔(きよ)める時、私達もまたこの種の善に到達し得るのである。
しかしながら、もちろんこれは、人類中のある特別な変化を受けた人だけに係わるものであり、生まれながらの人にはとうてい真の意味の善は行えない。「善を行ふ者あるなし、一人だにあるなし」である。
次にパウロは、さらに聖句を引用して言った、「
其喉(のど)は開けし墓なり。其舌は詭詐(いつわり)を語り、其唇の下には蝮(まむし)の毒あり、其口は詛(のろい)と苦(にがき)とにて満つ」と。
これは口舌を以てする罪悪である。即ち言語によって人を欺き、苦しめ、罵(ののし)り、譏(そし)る罪である。その罪が如何に人間に普通であるか、如何に地上のあらゆる人種に行き渡っているかは、人がみな良く知っている、極めて普通な、そして小さいように見えて実は大きな罪である。
次には、「
其足は血を流さんとして疾(はや)し。残害(やぶれ)と災難(わざわい)とは其道に遺(のこ)れり。彼等は平和の道を知らざるなり」とある。
これは、行為に現われる罪―――生活の状態としての罪―――を述べた言葉である。「其足は血を流さんとして疾(はや)し」とは、その生活が他を苦しめて自己を益するために営まれつつあることを示す。
「残害(やぶれ)と災難(わざわい)は、其道に遺(のこ)れり」は、人を残害しつつ歩んだ跡に、惨憺(さんたん)とした状(さま)が残っていることを意味する。
「彼等は平和の道を知らざるなり」とは、平和が彼等の本性ではなく、また彼等は平和が何であるかを知らないことを言うのである。
以上、口舌と行為との罪およびその状態は、世に常にある事である。いつの時代にも、どこの国にも、これは常にある事である。実にこれは、人類の罪の姿そのままの描写である。
殊にそれが激しいのは、戦争の前と戦争の最中である。戦が将(まさ)に開かれようとして、その風声(うわさ)が全地に鳴り響くとき、および戦がいよいよ開かれて、いたましくも流血が全土に漲るとき、その時こそ実にここに書かれている事が文字通り事実である時である。
民と民とは、何と毒舌を以て相対することか。悪魔のそそのかす詛(のろい)の叫びが、何と世に充ちることか。憎悪そのもののような言葉が、何と滝のように流れることか。極度の呪いと憎しみが、言葉となって外に表れる有様は、実に人が悪魔に化したのではないかと思われるほどである。
それにもかかわらず、戦争が終結すると、この呪いと苦(にが)みとでその唇を充たした熱狂者達は、たちまち化して平和の使徒となり、人類平和促進の運動に携わる事は、却ってその罪悪と混迷とが深いことを思わせる事である。
このたびの欧州戦乱において、連合国が敵国を悪魔と呼び、一人でも多く敵を殺すことを、正義人道に奉仕する事だとし、その宗教家等が神とキリストの名によってこの事を高調し宣伝した有様を思え。何とパウロの言葉そのままであることか。
そしてドイツ・オーストリアにしてもこの点において、もちろんその敵国に劣らなかったのである。
殊にドイツにおいては、カイザーに仕えることを神に仕えることと同一であると見、自国の戦争をキリストのためにする神聖戦争と見なし、したがって敵国を神の業を妨げる悪魔と見なすような思想が根深かったことを思え。
ああ共に正義人道の名に拠り、共に神とキリストとのために、いわゆる悪魔に対して戦をしたのである! 「其舌は詭詐(いつわり)を語り、其唇の下には蝮(まむし)の毒あり……其足は血を流さんとして疾(はや)し。残害(やぶれ)と災難(わざわい)とは其道に遺れり」とは、実に彼等において文字通り真であったのである。
それでは人類は、戦に際してだけ、そのように毒舌と悪行に満ちるのか。いやそうではない。
平時においてもまたそうである。ただ戦に際しては、いっそう著しく現われるだけである。
今日北米合衆国その他が、日本民族に対して極度の悪口を弄(ろう)し、その言っていることの多くは虚構の誣言(ぶげん)であることなどは、その一例である。
その他民と民との間に、人と人との間に、常に恐るべき悪言非行が交換されつつあることは、人がみなよく知っていることである。
ああパウロの言葉が偽りであったら良かったものを。そうすれば人類とその社会とは、如何に幸福であることか。しかしパウロの言葉が事実そのままの記述であることはどうしようもない。
ああ人類の罪と迷いとは何と深いのであろうか。古(いにしえ)において、また今において。実にそのとおり、古(いにしえ)も今も。
18節は、「
神を畏(おそ)るゝの懼(おそ)れ其の目の前にあるなし」と言う。これは前回に述べたように、全体を総括する言葉である。
「神を畏(おそ)るゝの懼(おそ)れ」とは、神に対する敬虔を指す。神とその聖旨(みこころ)、その審判を心に感じることを意味するのである。
「其目の前になし」とは、もちろん心の状態を形に託して述べた言葉であって、
心に留めずというほどの意味である。彼等は神に対する敬虔を心に留めないのである。これは彼等の深い罪の総括であり、また原因である。
以上パウロは、旧約聖書の語句を巧に配列して、「人類悉(ことごと)く罪あり」という自己の主張の裏書きとした。
彼は先ず全ての異邦人には罪があることを述べ、次に全てのユダヤ人にも罪があることを述べ、その後3章9節において、「
然らば如何にぞや。我等勝れるか。決(きわ)めてなし。そは我等既にユダヤ人もギリシャ人も皆罪の下に在ることを証(あかし)せり」と断定して、
「
人皆すでに罪を犯した」ことを明白に主張した後に、この聖句を引用したのである。
ゆえにここに、私達は当然、自己一人について考えざるを得なくなったのである。何故なら、人類全体と言えば、その中には言うまでもなく、自己も含まれているからである。
その時私達は、ロマ書1、2、3章において描かれているような罪を犯さないと弁じても、何等の弁解にならないのである。
何故なら
聖書に言われている罪は、人の外に表れた行為よりも、むしろその内に潜む心の姿に係わるものであるからである。
心において不義を行った者は不義者である。心において不善を行った者は不義者である。心において凶殺をした者は凶殺者である。心において姦淫を犯した者は姦淫者である。その他パウロが列挙した全ての罪は、私達がたとえ行いに表さなくても、心において行いまたは行おうとする罪である。
そう、実に私は明らかに罪人である。神は明らかにこの事を示した。聖書は明らかにこの事を教えた。神を知らなければ良かったものを! 聖書を学ばなければ良かったものを!
しかし今や既にどうすることも出来ない。私の罪の醜い姿は、私の目の前に今は少しの曇りもなく明らかである。私が願っている善はこれを行わず、却って願っていない悪はこれを行う。善なるものは、私に、即ち我が肉にいないことを知る。
私を虜(とりこ)とする罪の法(のり)は、確かに私に在る。そして私の心の法(のり)を抑えている。「
あゝ我れ悩める人なるかな」。実に実にあゝ我れ悩める人なるかな。
しかしながら、「
此死の体より我を救はん者は誰ぞや」という叫びが一度起こる時は、即ち自ら自分を救おうとせずに、他の私を救う者を見出そうとするに至る時は、遅かれ早かれ、「
これ我等の主イエス・キリストなるが故に神に感謝す」という歓声を挙げるに至るのである。
そして自己の罪悪が深くて重くてもなお罪を赦されて救に浴することを知って、感謝が無限になるとともに、また誰もが救に入り得る者であることを悟って、強い伝道心は自ずから生起するのである。
それだから、
全ての良い事の根底に自己の罪の認識が存する。これなしには一つも良い事は生まれない。歓びの花は、黒い土から生え出る他はない。
人類全てが罪人であること、そして自己が罪人であること、この事は、先ず明かに認められなければならない―――自己のためにもまた人のためにも。ゆえにパウロは救の奥義を説示しようとして、先ずこの事にその鋭利なペンを揮ったのである。
(以下次回に続く)