全集第26巻P352〜
(「ロマ書の研究」No.59)
第46講 キリスト教道徳の根底
第12章1節の研究 (4月9日)
前講を以て第11章の研究を終えた。これからは第12章以後の研究に入るのである。その内容の価値から言えば、ロマ書は第8章を絶頂とする。しかし、その内容の性質から言えば、11章と12章の間が分水嶺となっている。
即ち11章までに説かれるのは
教義であるが、12章からは全く面目を異にして、専ら
実践道徳を説くのである。ゆえにロマ書を二大部に分けて、11章までを第一部、12章以下を第二部と見ることが出来る。
しかしまた、全体を三大部に分けて、個人の救いを主題とする1〜8章を第一部と見、人類の救いを主題とする9〜11章を第二部と見、実践道徳を説く12章以下を第三部と見ることも出来る。
このようにその書簡の前半において福音的教義を説き、後半において実践的教義を説くのはロマ書だけに限らない。パウロの他の書簡においてもこれがある。その最も鮮明なのは、エペソ書である。
この書は、第3章までにおいて信仰に関する深い教義を説き、第4章からは「
されば主にありて囚人(めしうど)となれる我れ汝等に勧む。汝等召されし召に符(かな)ひて行はんことを」と説き始めて、専ら実践道徳を説明している。
コロサイ書もこの点がかなり明瞭である。1、2章において含蓄豊かな教義が説かれた後に、第3章からは、「
既に汝等キリストと共に甦(よみがえ)りたれば、天にあるものを求むべし」と説き出して、専ら道徳的な注意が与えられている。
その他ガラテヤ書は5章1節から、テサロニケ前書は4章1節から、同後書は3章6節から、いずれも実践道徳に入っている。パウロ書簡の半数が、この特徴を有(も)っていることは、注意すべき一事である。
普通の道を採るなら、人を教えるには先ず道徳を説くべきである。これは解し易いだけでなく、実際生活上主たる注意を行為に置くのは当然であるからである。
ところがパウロは、何故解し難くて、かつ実際生活には縁遠いと思われる教義―――多くの人々に神話的と言われるもの―――を第一に力説して、その後に、
より解し易くて
より実際生活に大切と思われる道徳の事を説くのであるか。これは一つの疑問である。
しかしながら、パウロから見れば、
教義は源であって道徳は末である。教義は根幹であって、道徳は枝葉である。
人が義とされる事と言い、聖(きよ)められる事と言い、救われる事と言い、また人類が救われる次第と言い、これはパウロにとっては人生の第一問題である。神と人との関係の根本をなす問題である。
ゆえにこの事の解明に多くの文字を費やして、その後に初めて道徳・倫理の問題に入るのである。
普通の人は考える。世には実際問題が多い。社会・国家・人類に関する切実緊要な問題が山のようにある。これ等の解決のために、人は今や日もまた足らない状態にある。何を苦しんで神人の関係などという問題に携わるのかと。
ところがパウロにとっては、神人関係の問題が、人生の第一問題である。これさえ解けば、他の全ての難問題と称せられるものなどは、自然に解け去ると言うのである。
根が無ければ葉が茂り花が咲くはずがない。ところがこの世の人達は、営々としてこの不可能事に従事している。そうではあるが、教義は人生の第一問題の解明である。神と人との関係が先ず義(ただ)しくされなくては、他の全ての事は義(ただ)しくされない。
キリスト教道義は、キリスト教教義を根幹として立つ枝葉である。それだからこそ根幹から養汁を受けて栄えるのである。根底なしにただ独り立つ倫理道徳は、あたかも花瓶に植えた花のように、しぼみ果てる他ない。
この点においてキリスト教道徳は普通の道徳と根本的に相違している。自分が義とされる事、聖(きよ)められる事、救われる事の奥義を学び、進んで全世界に関する聖図の秘義を学んで、歓喜と希望の歌が高く揚がる―――その後に実際道徳に入るのである。
私達は心の根本に生命を供給されなければ、如何に優秀な道徳であっても、これを実行する道がない。
人生の根本問題が解決され、罪の苦悶がその根底から癒され、神の前に義とされるに至り、栄化の希望に心躍って、歓喜と平安がわが全心をうるおすに至るときは、心は自ずから生命と力に満ちて、道徳は求めることなしに行われるのである。
これは道徳的生活を実現する最上の道である。ゆえに道徳の前に教義があり、教義の後に道徳があるのは、少しも怪しむに足りない当然の事である。
キリスト教道徳と言えば、大問題であるように思われ、これについて大部の著述をなす学者がいるほどである。いかようにもこれを精密に論じることは出来るであろう。しかし、ロマ書の12章13章で、キリスト教道徳の大綱は、ほぼ尽きていると言うことが出来る。
人の人に対する務め、人の社会・国家に対する務め等、各方面にわたって精細に説明されている。人生に必要な倫理・道徳は、ほぼ網羅されていると言うことが出来る。ゆえに一字一句に注意して丁寧に研究するときは、私達の日常生活の完全な指針となるのである。
先ず12章1節を見ると、邦訳聖書には、「
されば兄弟よ、我れ神の諸々の慈悲(あわれみ)をもて汝等に勧(すす)む。その身を神の心に適(かな)ふ聖(きよ)き活ける祭物(そなえもの)として神に献げよ。これ当然(なすべき)の祭なり」とある。
今これを原文の順序のままに訳せば、大体次のようになる。
されば汝等に勧む、兄弟よ、神の諸々の慈悲(あわれみ)をもて、その身を
献げよ、神の心に適(かな)ふ聖き活ける祭物(そなえもの)として、これ当
然(なすべき)の祭なり。
実に一字一句が意味深い語である。これは実にキリスト教倫理の根本的原理である。実にこの一節を倫理入門と称することが出来る。
第一に立つのは「されば」である(原文においては第一に「勧む」の語があり、次に「されば」があるが、これはこの文字の性質上そうなのであって、意味の関係においては、もちろん「されば」が第一に立つのである)。
この「されば」は、何を受けての語であるかは、一問題とされている。マイヤーなどは、11章35、36節を受けたのであると主張する。しかしながら多くの学者は、この語は1章17節以下の既説全部を受けていると見ている。
この語は、ロマ書の教義部と道徳部の間に立つ「されば」である。ゆえに教義部の全体を受けての語であると見るのが、最上の見方であると思う。即ち「汝等キリストによりて義とせられ、神と新しき関係に入らしめられたれば」という意味である(サンデー
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Sanday_(theologian) )。
義とされ、聖(きよ)められ、救の希望を有(も)たせられたのだから―――このように数々の大きな恵に接したのだから―――言い難い喜びと平安とを与えられたのだから……という意味である。
このように、「されば」を以て呼び起こされる道徳の勧めである。ただ為すべし、為すべからずという戒めではない。充分の根底があって、自ずから現れなければならない勧めである。
2節以下15章まで説いている事は多岐にわたっているが、いずれの戒めにしても、その前にこの「されば」を冠する戒めである。このような意味の「されば」を冠する道徳であって初めて道徳としての価値がある。また実行され得る。即ち充分な心霊的根底と生命の源泉とを有する道徳である。
ロマ書12章以後のキリスト教道徳を学ぶに当って、私達が常に心得ておくべき語は、この「されば」である。
「汝等に勧(すす)む、兄弟よ」と言う。「兄弟よ」とは、パウロが何か重大な事、意味の深い事、自分の至情などを改まって言おうとする前に発する慣用の語である。
例えば10章1節に「
兄弟よ我心に願ふ所と神に祈る所は、イスラエルの救はれんこと也」とある所とか、またコリント前書12章1節に「
兄弟よ霊の賜(たまもの)については、我れ汝等が知らざるを好まず」とあるのを見よ。
情のこもった語、兄弟が兄弟に対して言う語である。パウロはここに、兄弟の態度で、親しみをローマの信徒に向って注ぎつつ、温かい心で、道徳的な勧めをしようとするのである。
わずかに一語を加えただけであるが、その中に著者パウロの当時の心構えが充分に見える。そして偉大であったが同時に繊細でもあった彼の心を私達はここに見るのである。
「勧む」と言う。
命ずではない。「モーセは命じ、パウロは勧める」とベンゲル(
https://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Albrecht_Bengel )は言う。モーセ律は権威を以てする命令である。そしてこれを行えば幸福が来て、これを破れば刑罰が臨むと言う。
即ちモーセ律は、幸福の約束と刑罰の威嚇とを以てする命令である。ところが今や時は進み、福音の時代となった。先ず与えられるのは恩恵である。それから後に「されば……勧む」である。
道徳的命令を新たに課そうとするのではない。恩恵に浴して感激する結果、当然あるべき事を、念のために勧めるのである。勧めなくても読者が当然実行すべき事ではあるが、あるいは忘れる者もあろうかという心遣いから改めて勧めるのである。
ゆえに自然に起こるべき事を引き起こすだけのことである。ゆえに少しも命令として威嚇的に臨む必要はない。ただ勧めただけで充分である。
「神の諸々の慈悲(あわれみ)をもて」勧めると言う。第11章までにおいて説くことはみな神の「諸々の慈悲」である。殊に1章〜8章における救の本義は徹頭徹尾神の慈悲である。
そこに著しいのは、人の罪と神の愛との対照である。人にはただ深い罪があるだけで何の功もなく、ただ信仰によって義とされ、聖(きよ)められ、救われるという神の慈悲である。
この神の慈悲を説いて、パウロは献身を勧めるのである。慈悲に感激して、自ら為すに至る献身を、念のためにパウロはなお勧めるのである。「神の慈悲にあやまたず心動かされる者は、その全ての聖旨(みこころ)に従うに至る」とベンゲルが言っていることに注意せよ。
神の諸々の慈悲を説いてパウロは何を勧めるのか。同じく「その身を献げよ」である。パウロがここにその身(肉体)を献げよとだけ言って、全心全霊を献げよとも、汝自身を献げよとも言わなかった事については、種々の説がある。
しかしながら、その身即ち肉体を献げよと明示してある上は、それが肉体的献身を意味することはもちろんである。パウロは何故この事に重きを置いたのであるか。
彼は第2節において、「心を化へて新にせよ」と勧めているので、第1節には専ら身体のことを言ったのであろう。そもそも人の肉体なるものは、人間が事を行う道具である。これを使って人は悪をもなし、善をもなす。
これをサタンの誘うままに乱用し、悪用するのが世の常である。その最も甚だしい例は、既に1章末段に記された。
この悪用されやすい、また罪の機関となり得る肉体を、神に献げて彼のために用いるのは、心を潔(きよ)めると共に、また肉体を聖(きよ)める道である。
神のためにこの肉体、即ちこの頭、手、足を用いるのが、ここにパウロの言う献身である。その身を献げよとは、卑近なようで、実は深い勧めである。
「神の心に適ふ聖き活ける祭物(そなえもの)として」献げよである。祭物(そなえもの)とはもちろんユダヤにあっては犠牲(いけにえ)として祭壇に供える物のことである。
ユダヤには、エホバを祭る数種の祭がある。幼いころからこれらの諸祭に親しんでいたパウロは、極めて自然に、「祭物として献げよ」との言葉を発したのであろう(自国の祭に対する一種の親しみを以て)。
燔祭(はんさい)は前であって、酬恩祭(しゅうおんさい)は後である。共に犠牲を献げる祭であるが、甲は罪のため、乙は感謝のためである。
そして信者の場合においては、キリストは私達に代わって、「世の罪を負ふ神の羔(こひつじ)」として、自ら燔祭の壇に己を亡ぼしたので、私達の燔祭は既に終って、今や感謝を表する酬恩祭を献げるべき時となったのである。
しかしながら、今や牛や羊を献げるのは、神の心に適うことではない。今献げるべき犠牲は、自己の肉体である。聖き活ける祭物(そなえもの)である。
死んだ牛や羊は、今や祭物(そなえもの)として価値がない。活きている自分の身体を全部―――その肢体と共に全部―――献げてしまうこと、これが「神の意に適(かな)ふ」祭物(そなえもの)である。
これを私達は、感謝の意味において、恩に酬(むく)いる意味において献げるべきである。そして神の聖(きよ)い御業のために、自分の身体を全部用いるべきである。
パウロは上述のように、完(まった)き献身を勧めてから、「これ為すべきの祭なり」と付記した。この献身は、キリスト者として、当然為すべき祭であるという意味である。
「為すべき」の原語を logikos (ロギコス)と言う。これは「合理的」と訳すのが普通ではあるが(英語 rational)、また「霊的」と訳すことも出来る(英語 spiritual)。
合理的と見れば、以上のような恩恵を受けたキリスト者が、その身を献げるのは
当然の祭であると言う意味になる。実に理に適った、無理のない、当然の献身であると言うのである。
これは普通の見方である。そしてこの見方には、何の故障もなくて、文字上、意味上、自然であって無難な見方である。
しかしまた、「霊的」と見る方にも捨て難い点がある。同一の語が、ペテロ前書2章2節に用いてあって、「
霊の真の乳」(改訳聖書)と訳してある(現行訳聖書では「心を養ふ」とされているが、これはやや意訳に過ぎている)。
また同じ2章5節には、「イエス・キリストに由りて神に悦ばるゝ
霊の祭物(そなえもの)を献ぐべし」とある。この方は、別の語を用いてはあるが、この節の意味がロマ書12章1節と酷似しており、見逃し難い。
あるいはパウロは、「これ霊的の祭なり」と言って、ユダヤ諸祭が物質的なのに対比させたのかも知れない。
殊にこの頃、民と祭司の堕落のために、ユダヤ諸祭はその美しい意味を忘れられて、専ら物質的、形式的な祭と化し去っていたのであるから、パウロは殊に力をこめて、
霊的の祭であると言ったのかも知れない。いずれに定まっても、その主意は同一である。
キリスト者にもまた祭がある。それは既に形式化したユダヤの諸祭儀のようなものではない。また異邦に行われている俗の俗である祭の類ではない。そしてまた、日を定めてある一日または数日だけを神のために用いる祭ではない。
キリスト者の祭とは、その当然為すべき祭であり、また霊的な祭である。それはその身を「神の心に適ふ潔き活ける祭物(そなえもの)として献」げる祭である。一度その身を献げて、日々に連続してその身を献げつつ行く祭である。
別の語で言えば、信者はその生涯全部が祭である。彼にはこの世のいわゆる祭はない。けれども祭が全くないと言うのは間違っている。いや、祭を最も多く営む者は、彼である。何故なら彼は、毎日毎日祭をするからである。
いやその全生涯が、祭の連続であるからである。いやその全生活が、即ち祭であるからである。ゆえに私達は、他に特別の祭をする必要がないのである。
以上を以て、12章1節の解を終る。実に上記のようなものが、キリスト教道徳である。キリスト教道徳は、全くの献身を先ず第一とする。そこから全ての行為の細末にわたるのである。
しかしながら、献身と言っても、単なる命令ではない。先ず神の恩恵に豊かに浴し、人生の根本問題を解かれて、歓喜満悦のあまり、当然為し得る献身の勧めである。
こうして深められた心から自発的に起こる愛と行いと生涯である。何の根底もない道徳ではない。根底を明かにされたので、
合理的に為し得る道徳である。理に適って、心から行い得る道徳である。
賦課ではない。心から為し得る献身、喜んで為し得る献身、およびその結果としての行為である。これがキリスト教道徳である。わずかに一節の中に、キリスト教道徳の大体が説かれたのである。
(以上、大正11年6月10日)
(以下次回に続く)