全集第27巻P155〜
エレミヤ哀歌第3章
大正11年(1922年)5月10日
「聖書之研究」262号
これは改訳ではありません。既成の日本訳をヘブライ語のABCに従う哀歌文体に書き直したものです。言語学上から見て、何の価値もないものですが、この種の文学に乏しい我が国においては、有れば無いより良いと思います。
もともと自分の信仰養成のために綴ったものであって、これをここに掲載するのは、本誌の読者諸君に幾分なりともその利益を分かちたいと思うからに過ぎません。
アレフ(1〜3)
我は艱難(なやみ)を見たる人なり、彼の怒(いかり)の笞(しもと)の故に因(よ)る。
彼れ我を牽(ひき)て暗黒(くらき)を歩ませ給へり、光明(ひかり)を行かしめ
給はざりき。
実(まこと)に彼は其面を我に反(そむ)け給ふ、終日(ひねもす)我に対(むか)ひて
其手を挙げ給ふ。
ベース(4〜6)
彼は我肉と肌膚(はだえ)とを衰へしめ給へり、我骨を摧(くだ)き給へり。
我に対(むか)ひて城塞(とりで)を築き給へり、患苦(くるしみ)と艱難(なやみ)と
をもて我を囲み給へり。
我をして暗処(くらきところ)に住ましめ給へり、長く死し者の如くに扱ひ給へり。
ギメル(7〜9)
我を囲みて出(いず)る事能(あた)はざらしめ給へり、我が鏈索(くさり)を重くし
給へり。
実(まこと)に我れ援助(たすけ)を呼求(よびもと)むる時に、我が祈求(いのり)を
締出(しめだ)し給へり。
切石(きりいし)をもて我道を塞(ふさ)ぎ給へり、我行路を曲げ給へり。
ダーレス(10〜12)
彼の我に対し給ふや、伏し窺(うかが)ふ熊の如し、又潜み隠(かくる)る
獅子(しし)の如し。
路傍に我を引裂き給へり、我を独り棄置き給へり。
彼は弓を張り給へり、而(しか)して我を其矢の的(まと)となし給へり。
ヘー(13〜15)
彼は其箙(えびら)の矢を放ち給へり、而して我が腰を射ぬき給へり。
我は我がすべての民の嘲罵(あざけり)となれり、終日(ひねもす)
笑種(わらいぐさ)となれり。
彼は我をして苦味(にがき)に飽かしめ給へり、いんちんを飲ましめ給へり。
ワウ(16〜18)
彼は砂利を以て我歯を摧(くだ)き給へり、灰を以て我を蒙(おお)ひ給へり。
汝は我が霊魂(たましい)をして平和より遠(とおざ)からしめ給へり、我は
福祉(さいわい)を忘れたり。
我れ自(みず)から言へり我が気力は失せぬ、エホバよりする我が希望は
絶えたりと。
ザイン(19〜20)
願くは我が艱難(なやみ)と苦楚(くるしみ)とを心に留め給へ、いんちんと胆汁とを
記憶(おぼ)へ給へ。
汝は必ず是等の事を心に留め給ふべし、そは我が霊魂衷(うち)に沈めばなり。
我れ斯(この)事を心に想起(おもいおこ)せり、是故(このゆえ)に我に希望起れり。
ヘース(22〜24)
我等の尚(な)ほ滅びざるはエホバの仁愛(いつくしみ)に因るなり、
その憐憫(あわれみ)の尽(つき)ざるに因るなり。
是は朝毎(ごと)に新たなり、汝の誠実(まこと)は大なる哉(かな)。
我が霊魂は言ふエホバは我が分なりと、是故に我れ彼を待望(まちのぞ)まん。
タウ(25〜27)
エホバは己を待望む者を善くし給ふ、己を尋ぬる者を善くし給ふ。
人のエホバを望むは善し、静に其救拯(すくい)を待つは善し。
人その若き時に軛(くびき)を負ふは善し。
アイン(28〜30)
彼は独り座して黙すべし、エホバ之を負はせ給ひたれば也。
口を塵につけて伏すべし、或(あるい)は望あらん。
己を撃つ者に頬を向くべし、充足(みちた)れるまでに恥辱(はずかしめ)を受くべし。
カツフ(31〜33)
そは主は永久(とこしなえ)に棄て給はざればなり。
彼は患難を送り給ふと雖(いえど)も亦(また)憐憫を施し給ふ、
其仁愛(いつくしみ)の大なるに因りてなり。
彼は故意(ことさら)に人の子を悩まし給はず、彼等を苦しめ給はざる也。
ラーメド(34〜36)
彼は地の俘囚(とらわれびと)等を脚の下に蹂躙(ふみにじ)り給はず。
至上者(いとたかきもの)の前にて人の理を枉(ま)げ給はず。
人の詞訟(うったえ)を覆すはエホバの喜び給はざる所也。
メム(37〜39)
主命じ給はずとも事成ると言ふ者は誰ぞや。
至上者の口より災禍(わざわい)も福祉(さいわい)も来るに非ずや。
己の罪を罰せられたればとて活ける人何ぞ怨言(つぶや)くべけんや。
ヌン(40〜42)
我等自己(みずから)の行(おこない)を探り、省みてエホバに帰るべし。
我等天に在(いま)す神に対(むか)ひて手を挙(あ)ぐるが如くに心を挙ぐべし。
我等は罪を犯したり叛(そむ)きたり、而して汝は赦し給はざりき。
サメツク(43〜45)
汝震怒(いかり)をもて自(みずか)ら蔽(おお)ひて我等を苦しめ給ヘり、殺して
憐み給はざりき。
汝雲を以て自ら蔽(おお)ひ給ヘり、是れ祈祷(いのり)の通ぜざらんが為なり。
汝は我等を諸(もろもろ)の民の中に在りて塵(ちり)又埃(あくた)となし給へり。
ペー(46〜48)
敵は皆な我等に向ひて其口を張れり。
恐懼(おそれ)と陥穽(おとしあな)とは我等に来れり、暴行(あらび)と
滅亡(ほろび)とは我等に臨めり。
我眼は涙の河として流る、我民の女(むすめ)の滅亡(ほろ)びしに因る。
アイン(49〜51)
我眼は涙を注ぎて止まず、其絶(たゆ)る間(ひま)なし。
エホバ天より臨み見て顧み給ふ時にまで至らん。
我眼は我心を傷(いた)ましむ、我邑(まち)のすべての女等の故に因る。
ツアーデー(52〜54)
我敵は故なくして我を追(お)へり、恰(あたか)も鳥を逐(お)ふが如し。
彼等は我生命(いのち)を坑(あな)の中に絶(たて)り、我が上に石を投ぜり。
水は我が頭(かしら)の上に流れたり、我は言へり「我事休む」と。
コツフ(55〜57)
我れ汝の名を呼び奉れりエホバよ、深き坑(あな)の底より呼び奉れり。
汝、我声を聴き給へり、我が哀願(なげき)と祈求(いのり)に
耳を掩(おお)ひ給ふ勿れ。
我れ汝を呼び奉りし時に汝は我に近寄り給へり「恐るゝ勿れ」と。
レツシュ(58〜60)
主よ汝は我霊魂の詞訟(うったえ)を助け給へり、汝は我生命を
贖(あがな)ひ給へり。
エホバよ汝は我が蒙(こうむ)りし不義を見たまへり、願くは我を正しく
審判(さば)き給へ。
汝は彼等が我に復讐(あだ)なす其行為(おこない)を見たまへり、我に対して
謀(たくら)む其謀計(たくらみ)を見たまへり。
シン(61〜63)
エホバよ汝は彼等の誹(そしり)を聞き給へり、我に対して謀りし其謀計を
凡(すべ)て聞き給へり。
我に逆(さから)ひて立ちし者を聞き給へり、その終日(ひねもす)我を攻め
運(めぐら)す其謀計を聞き給へり。
願くは汝彼等の起居を看守(みまも)り給へ、我は彼等の笑種(わらいぐさ)なり。
タウ(64〜66)
エホバよ汝は彼等に報い給ふべし、彼等の手の為す所に循(したが)ひて
酬(むく)い給ふべし。
彼等に心の憂苦(うれい)を与へ給ふべし、汝の呪詛(のろい)を彼等に
下し給ふべし。
汝は震怒(いかり)をもて彼等を追ひ給ふべし、エホバの天の下より彼等を
断ち給ふべし。
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「義(ただし)き者は患難(なやみ)多し、然(さ)れどエホバは皆なその中より救出(たすけいだ)し給ふ」とある。神と義(ただ)しい関係に入ったキリスト者には、人の知らない多くの強い患難が臨む。しかしまた、これに相応する上からの助けがある。エレミヤ哀歌は、信者のこの悲哀を歌ったものである。悲哀美の絶頂と言おうか。
完