全集第27巻P396〜
(「キリスト伝研究(ガリラヤの道)」No.35)
第35回 ガダラの出来事 マタイ伝8章28〜34節。
マルコ伝5章1〜20節。ルカ伝8章26〜39節。
殊にマルコ伝の記事に注意しなさい。
◎ イエスは、単に大きな教師ではなかった。また大きな有能(ちからある)者であった。彼に天然を支配する能力(ちから)があった。また霊界をつかさどる権能(ちから)があった。風も海も彼に従った。悪鬼もまた彼に従わざるを得なかった。
イエスは単にその高潔な教訓によって人を導き、世を感化しただけではない。彼は神の大能によって疾病を癒し、悪鬼を征服された。「
若(も)し我れ神の指をもて悪鬼を逐出したるならば、神の国は既(もは)や汝等に来れり」(ルカ伝11章20節)と彼は言われた。
私達はイエスを学ぼうと思って、彼のこの方面を忘れてはならない。彼を単に道徳の教師であると思って、彼を活世界から葬り去ってはならない。「
是故に我等衿恤(あわれみ)を受け、機(おり)に合ふ助となる恩恵を受けん為に憚(はばか)らずして恩寵(めぐみ)の座に来るべし」である。
◎ ここにこの驚くべき記事がある。記事そのものの意味は至って明瞭である。その地理歴史等は、当時の状況そのままである。豚の群れが崖から海に落ちて溺れたという所は、今はケルサと称えられて、湖水に直面した断崖である。
「デカポリスに言揚(いいふら)し」と言うのは、
十市と称えられて、ガリラヤ湖の東南に当り、ギリシャ風の小都会十市が一団をなして、一地方を形成している所である。
ここで行われた不思議な事(わざ)を除いては、記事そのものの内に不自然な所は少しもない。ゆえに問題は、単に行われた事が事実であるかどうかという事である。そのような事は果してあったのか、あるいは有り得るか、単にそれである。
◎ そして私は、この事は福音書が記しているように有ったと信じる。悪鬼に憑(つ)かれるとは、今は無い事であるから、その時にも有り得るはずはないと言うのは当たらない。これを単に精神病の一種と見なしても、そのような精神病がその時に限って有ったと信じるのは、少しも迷信ではない。
多くの疾病が、地理的でありまた時代的である。アフリカ内地に流行する睡眠病などは、熱帯地方以外にはこれを見ないように、千年前に流行した疾病の中には、今は消えたものがある。
殊に精神病は主として文明病である。ゆえに異なる文明には異なる精神病がある。今日の日本における恋愛病などは、これは確かに時代的疾病である。これは日本人の情性に、日本近代の特殊な文明を施した結果として起ったものであって、多分他の国または他の時代においては見ることの出来ない疾病であると思う。
そのように、ECHE IN DAIMONION (悪鬼に憑かれる)とは、その当時ユダヤ地方に突発した精神病の一種と見て、医学上何も不思議はないと思う。
◎ しかしながら、ガダラの狂人は、単なる狂人ではなかった。彼は単に精神病患者と称して、精神又は神経の狂った者ではなかった。彼は悪鬼に憑かれた者であった。ある他の霊が彼の内に入って来て、彼の身体(からだ)を占領し、彼に自分の欲するままを行わせようとした場合であった。
そしてそのような場合が、他にも多くあった事は、聖書が明らかに示している。いわゆる「鬼に憑かれたる者」を悉(ことごと)く精神病者と解してしまうと、聖書のこの事に関する記事を解するのは、非常に困難である。
鬼に憑かれた者は、文字通りに鬼に憑かれた者である。鬼とは悪い霊であって、それが人の霊に宿って、これを自分の思うままに使役しようとしたのである。そしてそのような事は有り得ないと誰が言い得るか。
精神病そのものが、近代医学の未解の大問題である。精神は神経の作用(はたらき)であって、神経さえ健全ならば、精神病は有り得ないと言うのは医学上のドグマに過ぎない。多くの精神病学者は、神経の作用以外に、ある他の勢力の働きを認める。
それが果して聖書の記すダイモニオンであるか、その事は別として、神経だけで精神を説明する事は出来ないことは明かである。
そして聖書は明かに示して言う、「
人の衷(うち)には霊の在るあり。全能者の気息(いき)(霊)人に聡明(さとり)を与ふ」と(ヨブ記32章8節)。これはもちろん善い霊について言ったのである。
パウロは言う、「
汝等悪魔の奸計(はかりごと)を禦(ふせ)がん為に神の武具を以て装(よそお)ふべし。我等は血肉と戦ふに非ず。政事(まつりごと)また権威また此世の闇黒を宰(つかさど)る者、また天の処に在る悪の霊と戦ふなり」と(エペソ書6章11、12節)
これは悪魔とその眷族(けんぞく)とに就て言ったのである。そして聖書のこの見方は旧い見方であって、今や心理学の研究によって学者に否定されたと言うけれども、事実は容易にそのような否定を許さないのである。
悪魔(サタン)なる者はある。悪鬼なる者はある。悪の霊なる者はある。そして人を欺き、国民を欺き、学者を欺き、大戦争を起し、文明を壊し、世界の破滅を早めたではないか。
トライチュケー、ヒンデンブルグ、クレマンソー、大統領ウィルソン、西園寺公爵……彼等はみな
ある者に欺かれて、世界戦争の大悲劇を演じる媒介者と成ったではないか。
世に悪魔はいないと断言できる者は、どこに居るか。「此世の暗黒を宰る者、また天の処に在る悪の霊」は、今なお世界至る所において働いているではないか。
人類の最大努力によっても絶滅することの出来ないこの暗黒の勢力、人類が今日有する知識によっては説明することは出来ないけれども、それが確かに悪の最大勢力である事は、疑おうと思っても出来ないのである。
◎ そしてこの暗黒の勢力が、光の主であるイエス・キリストが世に現れられた時に、特別な勢力を以て世に現れたのである。そしてその現れの一つが、「鬼に憑かれる」ことであったと見るのが当然であると思う。そしてガダラの出来事はその一つであった。それが福音書のここに記されたように起こったのである。
◎ いわゆる「豚事件」について言葉を費やす必要はない。これは有名なグラッドストン翁が、「十九世紀雑誌」紙上において、博士ハックスリーと数回にわたって議論を闘わせた問題である。
今や人は、そのような問題は、これを一笑に付するだけである。しかし、四十年前の当時に在っては、真剣な問題であった。大学者が全精力を注いで、聖書のこの記事を弁護した時代が有ったと思うと、当時を回想して今昔の感に堪えない。
◎ そして豚事件よりも大切なのは、
豚のような人の心である。ガダラの人達は、イエスのこの事跡を見て、彼に「
其境を出んことを求め」たとある(マルコ伝5章17節)。
彼等にとっては、豚は人よりも大切であった。人が癒されたのを見て喜ばずに、豚が失われたのを見て悲しんだ。そして財産を壊したという理由で、イエスが彼等の土地を去ることを求めた。
何と憐れむべきことか、ガダラ人よ。しかし、そのような人は、世界のどこにでもいる。
そう、日本にもいる。イエスによって自分の子達が救われたのを感謝せずに、自分の財産が多少損害を受けたのを悲しみ、イエスとその使者とが自分の家を去ることを求めた日本人を、私は幾人も知っている。
神の子よりも豚、それがこの世の人達の心である。
ガダラ人達に断られたイエスは、舟に乗ってまたカペナウムの方へと帰られた。その時の彼の心はどうであったろう。「
父よ彼等を赦し給へ。彼等は何を為す乎を知らざれば也」とは、彼がこの時にも発せられた祈祷(いのり)であったろう(ルカ伝23章34節)。
◎ さらに大切なのは、私達自身に係わる問題である。私達もまた、たびたび悪鬼に憑かれるのである。何処から来るかは知らないが、悪い思想また暗示が、私達の心に臨むのである。
そしてこれを逐(お)っても去らず、抑えようと思っても出来ず、私達は甚(いた)くそれに悩まされるのである。また、思いがけない悪人が、私達の間に現れ、家庭を乱し、教会を壊し、兄弟相せめぎ、友人相背くに至る。
私達は、その説明を得ようと思っても出来ず、罪を相互に帰して、自ら責任を免れようとしても、正当でない場合が多い。
何によってそうなるのか。私達の内のある者が、悪鬼に憑かれたと見るのが最も正当な見方である。
ゆえに信者の生涯において、悪鬼に注意することは、最も大切である。「
是れ我等サタンに勝(かた)れざらん為なり。我等彼の詭計(はかりごと)を知らざるに非ず」(コリント後書2章11節)とパウロが言った通りである。
信者は神を知ると同時に、悪鬼を知る必要がある。敵を知らないのは、敗北の基(もと)である。私達は、サタンとその詭計とを知らずに、常に失敗を重ねつつある。
サタンはいないと言い、人に悪意を帰するのは罪であると称して、私達は時には明白な罪を是認する。またサタンの罪を、彼に憑かれた人に帰して、その人を誤解する。これはみな、サタンとその詭計とを知らないことから来る過誤(あやまち)である。
そのような場合において、イエスは単刀直入、その原因を示して言われる、「
敵人(あだびと)之を為せり」と(マタイ伝13章28節)。ここに「敵人」とあるのは、悪鬼の首(かしら)であるサタンである。
◎ そのような場合に処して、私達はどのようにして敵に勝つことが出来るか。敵は人よりも遥かに強い。クレマンソー、ウィルソン、大隈侯をさえ欺くことが出来たサタンは、容易に私達を欺くことが出来る。
ガダラの悪鬼にイエスがその名を問うと、「我等多きが故に我名をレギヨンと云ふ」と答えたとある。レギヨンはローマ軍隊における六千人から成る一軍団である。
魔軍はその数において、またその強さにおいてレギヨンであると言うのである。そして私達の誰が、この大軍に勝つことが出来ようか。それ故ここにルーテルの信仰が必要になるのである。
若し我等の力に頼まば 我等は直に失はれん
然れど一人の聖き者の 我等の為に戦うふあり
彼れ何人と尋ぬる乎 イエス・キリスト其人なり
サバオスの神にまして 彼の他に神あるなし
彼れ我等と共に戦ふ
(『愛吟』より)
サタンは強い。しかし、キリストはサタンよりも強い。彼が人類の救主である証拠は、主としてここに在る。
「
誰にても勇士(つよきもの)の家に入りて其家財を奪はんとせば、先づ勇士を縛らざれば能はじ。縛りて後その家を奪ふべし」とある(マルコ伝3章27節)。
ここで「勇士」はサタンであり、これを縛る者はキリストである。そして彼にサタンを縛っていただいて、私達に真の平安があるのである。
故に人の側に在っては、悪鬼を追い出す途としては、ただ祈があるだけである。
「
此類(たぐい)は祈祷と断食とに由るに非ざれば、逐出すこと能はざる也」(同9章29節)とある通りである。
そしてこの祈祷が如何に必要であるかは、人生が如何に困難であるかを知る者であれば、誰もが切に感じる事である。なぜなら、いわゆる人世の行路難の大部分は、サタンと其詭計(たくらみ)によるからである。
(3月16日)
(以下次回に続く)