全集第27巻P423〜
(「キリスト伝研究(ガリラヤの道)」No.41)
第41回 迫害の途 マタイ伝10章16〜23節。
マルコ伝13章9〜13節。ルカ伝21章12〜19節。
◎
第16節。「
視よ、我れ汝等を遣(つか)はすは、羊を狼の中に遣はすが如し。故に蛇の如く智(さと)く、鳩の如く素直なれ」。
実に著しい言葉である。羊と狼、蛇と鳩、四つの動物を以て表された二つの対照である。天然は最良の表号的文字である。羊と言い、狼と言って、深く広い意味が言い表されている。人は狼、信者殊に伝道師は羊である。ゆえにある場合には、蛇のように、ある他の場合には鳩のように行いなさいとの教である。
◎ 人は狼であると言う。果してそうであるか。世にはたとえ少数ではあっても、真の善人がいるではないか。不信者社会を一概に狼と称するのは、甚だしい酷評ではないか。そう、人は普通の場合には、その狼性を現さない。自分が強者で、弱者に対する時には、慈悲良善の性を備えているように見える。
しかしながら、一朝自分の利益を侵害されれば、殊に
その罪を指摘される時には、たちまち狼と化し、その悪魔性を発揮する。慈愛に富む父母も、その子がキリストを信じるに至れば、これを窮迫する。その状態は、狼が羊を苦しめる状態と異ならない。
人が如何に悪いかは、キリストの福音を以てこれに臨む時に判明する。「
凡(すべ)て悪を為(な)す者は、光を悪(にく)み、其の行を責(とが)められざらんが為に光に就(きた)らず」(ヨハネ伝3章20節)とイエスが言われた通りである。
人には生まれながらにして、何人にも狼性がある。その性が福音に接して、殊に著しく発揮するのである。いわく、「
基督教以外に迫害なし」と。「
罪の定まる所以(ゆえ)は是なり。光、世に臨(きた)りしに、人その行の悪きに因り、光を愛せず、反(かえっ)て暗きを愛したり」とある通りである(同19節)。
自己の罪を定められれば、人は怒って、狼が羊を苦しめるように、神の子供を苦しめるのである。それがキリスト教の迫害である。
◎ 生来の人は狼であるのに対して、再生の恩恵に与った信者は羊である。彼は悪魔性を除かれたのと同時に、防衛・攻撃の武器を尽く取り上げられたのである。彼は神に在って強くなるために、自己は弱くされたのである。
動物の中に羊ほど弱い者が無いように、人の中に真のクリスチャンほど弱い者は無いのである。彼は打たれても叩かれても、抵抗することが出来ないのである。意気地なしと言えば意気地なしである。けれどもそれは事実である。私は、「
寧(むし)ろ欣(よろこ)びて自己(みずから)の弱きに誇らん」(コリント後書12章9節)とパウロが言った通りである。
ゆえに信者を苦しめる事ほど、不信者が喜ぶ事はない。ここに聖人を気取る弱い者がいるのである。彼をどのように扱おうと自由勝手である。彼がもし反抗し、または抗議を申し込めば、愛の欠乏だとして、却て彼を責める。
信者は不信者に対し、すべて負う所があって、不信者は信者に対し何も負う所がない。人類の歴史において、残忍酷薄の極とは、世の人達がイエスの弟子を扱う途である。事はローマの昔に限らない。日本の今日においても同じである。
人の狼性を充分に味わおうと思うなら、自分自身が神の羔(こひつじ)の真の従者と成らなければならない。これを称して、「キリストに定まれる患難(なやみ)」と言う。特殊な患難である。人が真のキリスト者と成る時に、世は彼に足して狼と成るのである。私達は、信仰上のこの事実を忘れてはならない。
◎ それ故に、蛇のように聡(さと)く、鳩のように素直でなければならない。「蛇の道はヘビ」と言うが、キリスト者もまた、蛇の途を知らなければならない。
パウロは、「
我等サタンに勝(かた)れざらん為に、彼の詭計(はかりごと)を知らざるに非ず」と言ったが、私達にもまた、この知恵がなくてはならない。
キリスト者として、人を疑うのは最も辛い事であるが、しかしサタンはサタンであって、かれを天使だと見誤れば、彼を益せず、私は彼に滅ぼされる。
信者に悪意があってはならない。それと同時に、彼にはサタンの詭計を見破る知恵がなければならない。愛しながら脅されず、欺かれない途を取らなければならない。実に難しい途である。しかしながら十字架の途であって、栄光に至る途である。
◎ 「鳩の如く素直なれ」。 旧い邦訳には、「馴良(おとなし)かれ」とある。原語は「無害なれ」という意味である。文字によってその意味を定めるのは、すこぶる困難である。
しかしながら、前後の関係から見て、またイエス御自身の御生涯から見て、「悪に抗する勿(なか)れ」と解するのが、最も適当であると思う。
鳩の如く
柔和なれ。23節に言う、「
この邑(むら)にて人汝等を責めば、他の邑に逃れよ」という態度である。
イエス御自身が、逃れるだけ逃れて、終(つい)に御自身を敵の手に御渡しになった。この世の人の立場から見て、最も意気地のない態度である。しかしながら、これは実に大勇者でなければ、取れない態度である。
「
柔和なる者は福(さいわい)なり。其人は地を嗣(つ)ぐことを得べければ也」とある。「
汝等(逃れ遁れて)イスラエルの邑々を廻尽(めぐりつく)さざる間に、人の子は来るべし」とある。
勝利は神によって来る。その信仰の勇気があれば、私達は優にサタンとその従者に勝つことが出来る。信者は自分の信仰を守るためには戦うが、人を倒すためには戦わない。
教会のキリスト教が、千九百年の歴史を有しながら、今なお世に勝てないのは、その伝道の方法として、イエスがここに御示しになった途に依らなかったからである。
(5月18日)
(以下次回に続く)