全集第27巻P428〜
(「キリスト伝研究(ガリラヤの道)」No.43)
第43回 愛の衝突 マタイ伝10章34〜39節。
◎ キリストが世に降りられた目的の一つは、確かに「地に平和を出さんため」であった。クリスマスの夕、牧羊者は天使が歌うのを聞いた、「
地には平和(おだやか)、人には恩寵(めぐみ)あれ」と。
ところが主はここに、「
地に平和を出さん為めに我れ来れりと意(おも)ふ勿れ。平和を出さんとに非ず、刃(やいば)を出さん為に来れり」と言われた。
矛盾であるように見える。しかし、矛盾ではない。平和は最後の目的であって、刃(やいば)はこれに達する途である。そしてその途上に在るときに、信者は主の降世は、刃を来すためではなかったかと思うのである。「
十字架なき所に冠冕(かんむり)なし」という言葉などは、この事を言うのである。
「
婦(おんな)、子を産まんとする時は苦しむ。然(さ)れど已(すで)に生めば前(さき)の苦しみを忘る。世に人の生れたる喜びに因りて也」と主が言われたのもまた、この事を教えるためである(ヨハネ伝16章21節)。平和は高価である。刃を通らずには真の平和は来ない。
◎ ここに刃とあるのは、戦争という意味ではないと思う。もちろん宗教戦争なるものは無かったではないが、しかし信者が進んで刃を取って不信者と戦うという事などあるはずがない。
ルカ伝12章51節に依れば、イエスはこの場合には「刃」とは言われずに、「分争」と言われたとある。即ち「我は安全を地に与へんとて来ると意(おも)ふや。我れ汝等に告げん。然(しか)らず、反(かえ)つて分争(わかた)しむ」とある。
そしてヘブル書4章12節に両刃(もろは)の剣が、よく物を断つことが記されているように、マタイ伝のこの場合において、
刃は分争と解するのが正当であると思う。
有名なオランダの公法学者で聖書学者であるグロシウス(Grotius)がこの辞(ことば)を解釈して、non lellum sed dissidiun (戦争ではなくて分裂である)と言ったのは、誠に当を得たものである。
イエスが世に来られた結果として、人の間に一致が破れて分争が起るのは信者の誰もが実験し、また目撃する事である。これは実に止むを得ないのであって、この途を通らずには、真の平和は臨まないのである。
◎
第35節。「
夫(そ)れ我が来るは人を其父に背かせ、娘を其母に背かせ、嫁を其姑(しゅうとめ)に反(そむ)かせんが為なり」とある。甚だ穏やかでない言葉である。「背かせ」という訳語は強すぎる。改訳の「分たん」の方が真意に近い。
子をその父から、娘をその母から、嫁をその姑から分かつためであると言うのが原語の意味であると思う。そして注意すべきは、子、娘、嫁等の
より若い者が、父、母、姑等の
より老いた者と分れるに至るとの事である。
イエスは御自分が説かれた福音を、新しい布(ぬの)または新しいブドウ酒に例えられたように、これは元来若い心に受け入れられやすい者である。古今東西を問わず、キリスト教は特に青年男女の宗教である。これがその常に生気溌剌(はつらつ)である理由である。
儒教が老爺(ろうや)に喜ばれ、仏教が老媼(ろうおう)に迎えられるのとは、全くその性質を異にする。ゆえに子はその父から分れ、娘はその母から分れるに至るのであって、実(まこと)に止むを得ない次第である。
そしてキリスト教に限らない。全ての進歩思想がそうである。改革は常に青年から始まる。たとえ年齢的に青年でなくても、心においての青年を以て始まる。実に歳は取りたくないものである。
そして永遠に生きておられるキリストと共に在って、私達は常に若くて、世の老人等と相対することが出来る。
◎
第37節。「
我よりも父母を愛する者は我に協(かな)はざる者なり」と。このように言い得たイエスは、唯(ただ)の人ではない。
人に父母以上の権威を以て臨む者は、神の権能を具(そな)えた者でなくてはならない。
イエスは地上における神の代表者である。ゆえに彼だけが、
ただ彼だけが、父母に対する以上の服従を人から要求することが出来る。これは実(まこと)に重い言葉である。先ずイエスが何人であるかを究めずには、解することの出来ない言葉である。
信仰のゆえに父母から分れざるを得ない子も、またそれゆえに子を責める父母も、先ず深くこの事を究めなければならない。その後で、問題は容易に解決されるのである。
◎ 「父母を愛し、子女を愛す」と言う。いずれもギリシャ語の phileo であって、 agapao ではない。前者は情の愛であって、後者は道理の愛である。
イエスはここに、父母または子女に対する
情愛のゆえに私に従わない者は、私の意にかなわない者であると言われたのである。実にその通りである。アッシジのフランシスが父に分れ、ルーテルが父の命に従わなかったのは、全人類のために最も良い事であった。もちろん情は、容易に傷つけるべきものではない。しかし、道理は確かに情以上である。
今回の対米運動などは、この明白な教に従って従事すべきである。情においては多くの忍び難い所がある。しかし、明白な正義の道が、蹂躙された場合に、私達は愛情に引かれて、為すべき事を避けてはならない。
クリスチャンは情の人であるよりは、道理の人である。パウロが言ったように、「
我等真理に逆(さから)ひて能力なし。真理に順ひて能力あり」である(コリント後書13章8節)。そして「我は真理なり」と言われたイエスは、私達から絶対的服従を要求される。
今日の場合に、主は私達の内の多くの者に次のように言われると信じる。「我よりも米国又は米国人を愛する者は、我に協(かな)はざる者なり」と。愛情は
より低い愛である。信者はアガペー即ち聖愛に従って歩まなければならない。
◎
第38節。「
其十字架を任(とり)て我に従はざる者は我に協(かな)はざる者なり」。
十字架とは他でもない。情を棄てて道に従う事である。イエスの十字架もまた、他の事ではなかった。情愛か聖愛か、二者の内のいずれを選ぶべきか。人の永遠の運命は、その選択いかんによって決まるのである。
この世の平和は、情愛に従うことによって得られ、神の国の平和は、聖愛に身を献げることによって与えられる。十字架はここに在る。これを担わずには、私達の父なる神及び主イエス・キリストから、恩寵(めぐみ)と平和とを賜わることは出来ない。
人生は辛い。けれども栄光は十字架に在りである。十字架である。剣ではない。悪に耐えることであって、これに抗することではない。悪は自滅的であるから、自分から進んでこれを滅ぼすに及ばない。
けれども悪に従ってはならない。明らかにこれを悪と呼ばなければならない。そうして悪の犠牲となって、その絶滅を計らなければならない。これがキリストの十字架である。
◎ 義と情と、二者のいずれを選ぶべきであるか。婦人と小児と小人は情を選び、偉人とクリスチャンは義を選ぶ。
不人情であるように見える義人、それが本当の人である。私達は誰もが、そのような人であるように努めなければならない。
(6月1日)
(以上、大正13年9月10日)
(以下次回に続く)