全集第27巻P460〜
普通の生涯 他
大正12年(1923年)2月10日
「聖書之研究」271号
1.普通の生涯
善い物は、すべて普通の物である。「
夫(そ)れ天の父は、其日を善者(よきもの)にも悪者(あしきもの)にも照らし、雨を義(ただ)しき者にも義(ただ)しからざる者にも降らせ給へり」(マタイ伝5章45節)とある通りである。
日と雨とは、無くてはならないもの、故に最も善い物である。そして神はこれを誰にも与えて下さる。富者または貴族または学者でなければ獲(え)られないものは、決して善いものではない。誰にも容易に獲(え)られるものが、最も価値(ねうち)あるものである。
十字架の福音が貴いのは、このためである。これは獲(え)るのが最も容易く、また誰もが獲(え)ることの出来るものである。善者も悪者も、義者も不義者も、ただ信じることによって、自分の有(もの)とすることの出来るものである。
人生は不公平であると言う者は誰か。人生で最も善いものは、ただ仰瞻(あおぎみ)ることによって獲られる。金と銀と宝石と、爵位と学位と僧位とは、得難いので貴くない。日と雨と永生とは、得易いので尊い。
ゆえに普通なものを求めなさい。普通の人になることを努めなさい。平民として神を信じて、普通の生涯を営む。これに優る特権また幸福は、他にない。
2.詩篇第百篇
1 全地よエホバに向ひて喜ばしき声を揚げよ。
2 欣喜(よろこび)をもつてエホバに事(つか)へよ。
歌ひつゝ其前に来れ。
3 知れエホバこそ神にまします事を。
彼は我等を造り給へる者、我等は其属(もの)なり。
我等は其民、其草苑(まき)の羊なり。
4 感謝しつゝ其門に入れよ。
讃美しつゝ其大庭に来れ。
彼に感謝を奉り、其聖名(みな)を讃(ほ)めよ。
5 そはエホバは恵み深し。
其憐憫(あわれみ)は窮(かぎ)りなく、
其真実(まこと)は万世(よろずよ)に及ぶべければなり。
◎ 「全地よ」 イスラエルも異邦人も、信者も未信者も、世界万国の民よ。
◎ 「喜ばしき声」 黙するな。念じるだけでは足りない。声を揚げよ。喜ばしい声を揚げよ。楽に合わせて歌え。
◎ 「欣喜(よろこび)をもて……事へよ」 事(つか)えるだけでは足りない。欣喜(よろこび)を以て事(つか)えなさい。その聖前(みまえ)に出るだけでは足りない。歌いつつ出なさい。
◎ 「知れ」 過去における恩恵の事実に顧みなさい。実験的にエホバが神であることを知りなさい。
◎ 「我等を造り給へる者」 私達を土から造られただけでなく、私達を導き、私達に再生の恩恵を施して下さった者である。故に私達は自己(おのれ)の属(もの)ではない。エホバの属(もの)である。私達は神の民である。その草苑(まき)の羊である。全く彼に導かれる民である。摂理(せつり)の産である。
◎ 「感謝して其門に入れよ」 エホバを知らない者に言う、「エホバに来れ」と。たとえ私達のように彼に事(つか)えなくても、たとえ彼の僕(しもべ)、その羊でなくても、その門に入り、その大庭に来て、彼に感謝を献げ、その聖名(みな)を讃めなさい。
たとえ私達のように、その深い聖旨(みこころ)に与らなくても、天地の聖殿(みや)の大庭から、エホバの聖名(みな)を讃め奉りなさい。
◎ 「そはエホバは恵み深し」 その性は善である。彼は愛である。イスラエルにも異邦にも、キリスト者にも非キリスト者にも、彼は恩恵を施される。そしてエホバの善は無窮であり、また不変である。
「憐憫」は恵もうとする熱情を言い、「真実」はそれが永久に変わらないことを言う。それゆえに誰でもエホバを讃(ほ)め称(たた)えるべきである。
◎ 信者は自己(おのれ)に神の恵みを充分に実験し、欣喜(よろこび)と感謝に溢れて、世にこれを感染させるべきである。この世に充ち溢れるものは、不幸の声である。失望の呻(うめ)きである。これを打ち消すには、神の民の讃美の声を以てしなければならない。
私達が喜ばなければ、誰が喜ぶか。「
讃美は直き者に適(ふさ)はしきなり」(詩篇33篇1節)とある通りである。私達は我が国と全世界とを讃美化する責任を担(にな)う者である。
◎ 欣喜(よろこび)と感謝は、キリスト教の基調(キーノート)である。信者の生涯を通して一貫するものは、感謝である。善い事も悪い事も感謝の種である。人生最大の感謝は、神が私と共に居られる事である。「汝神を有す。亦(また)何をか要せん」とある通りである。
3.二種の進化論
進化論に二種ある。無神的進化論と有神的進化論とがそれである。無神的進化論は、天地はそれ自身で、より大きな能力と知恵の指導なしに、無限に進化すると言うのである。
これに対して有神的進化論は言う、天然にそれ自身で発達する能力(ちから)はない。天然自体は自働体でなくて、受働体である。
進化は神が万物を造られる途であると。
そしてダーウィン自身が、無神的進化論者でなくて、有神的進化論者であった。「種の起源」の最後の一言が、この事を証して余りある。彼は造物主によって生命が数個または一顧の種類に吹き入れられ、それが進化して千殊万態の生物と成ったのであると言い、そのゆえを以て造物主の偉徳を讃えている。
またダーウィン(
https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Darwin )とほとんど同時に自然淘汰を唱えたウォレス(
https://en.wikipedia.org/wiki/Alfred_Russel_Wallace )は、ある点においてはダーウィン以上の学者であって、確かに彼以上の信神家である。
その他米国第一の植物学者エイサ・グレー(
https://en.wikipedia.org/wiki/Asa_Gray )、進化哲学者ジョン・フィスク(
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Fiske_(philosopher) )、地質学者ル・コント(
https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Henri_Lecomte )等は、いずれも進化論者であって、熱心なクリスチャンであった。
私が見る所を以てすれば、スペンサー自身が、決して非キリスト的唯物論者ではない。彼が熱烈な非戦論者であり、現代文明の呪詛者であったのを見ても、彼の信仰が何であったかを推測することが出来る。その他有力な進化論者で敬虔な有神論者であった者は枚挙するに暇がない。ただ不幸なことに、ダーウィンの弟子の中には、彼の敬虔の無い者が多かった。
英国に在っては、ハックスレー(
https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Henry_Huxley )が国教会の圧迫を憤って、その教義に対抗して進化説を唱え、ドイツに在っては、ヘッケル(
https://en.wikipedia.org/wiki/Ernst_Haeckel )が、明白に無神的進化論を叫んだ。
そして真(まこと)の神を嫌うこの世の人達は、有神論よりも無神論に対して
より多く耳を傾けるので、後者の声は前者の声よりも、
より高く聞こえるのである。
もし読者が、「科学体系」の著者アーサー・トムソン(
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Arthur_Thomson )の著書によって進化論を学ぶならば、彼等は近代進化論が何であるかと共に、神の存在を認めつつも、深い進化論者たり得る道を教えられるであろう。
進化論を受け入れて、キリスト教を捨てる必要は、少しもない。
完