全集第27巻P495〜
DOES FAITH SAVE? 信仰は果して人を救うか
大正12年(1923年)5月10日
「聖書之研究」274号
DOES FAITH SAVE?
“Of course, it does,” says the popular Protestantism; “only faith does save, and nothing else.” But it is evident that faith by itself does not save. It is the object of faith that saves.
It is the Lord Jesus Christ who saves, and not our faith. Therefore, faith need not be great, if rightly placed. To the request: “Increase our faith,” the Lord replied: “If ye have faith as a grain of mustard seed, etc.” Luke 17: 5, 6.
Even a slender faith is enough if placed in the right object. The bane of Protestantism is in its overestimate of faith. Much of so-called faith is not faith but work. Hence so much boasting of one’s own faith, and criticism of other’s faith.
Only by honoring the Lord more, and estimating faith less, are we truly saved unto the life which abounds in love.
信仰は果して人を救うか
◎ 「
人の義とせらるゝは信仰に由る。律法(おきて)の行に由らず」とある(ロマ書3章28節)。また、「
アブラハム神を信ず。其信仰を義とせられたり」とある(ガラテヤ書3章6節)。
これらの聖語によって、私達は信仰によって救われると思う。即ち信仰という心の働きによって救われると。そこで信仰は称揚され、信仰の強い人と弱い人との区別が立てられ、信仰そのものが、如何にも大きな力であるかのように信じられる。
そしてヘブル書11章において、いにしえの人達が信仰によって為した数多の偉業に就て読んで、私達はますますこの感を深くされる。言う、「ああ信仰である。信仰である」と。
◎ けれども信仰そのものが人を救うのではない事は確かである。もし信仰が人を救うのであれば、人は信仰を誇ることが出来る。そして多くのいわゆる信者は、自分の信仰を誇り、他人の信仰を責める。彼等の言う信仰は、信仰ではなくて、行為(おこない)である。
誠に私達は、信仰によって救われるのではない。ある者、またはある事を信じることによって救われるのである。救うのは信仰ではなくて、信仰の目的物である。
アブラハムは
神を信じた。
その信仰、即ち約束の
神を信じたその信仰によって義とされたのである。彼を救った者は、彼の信仰ではなくて、彼が信じたエホバの神である。
◎ キリスト者は、キリストを信じることによって救われるのである。「
人の義とせらるゝは律法(おきて)の行に由るに非ず、惟(ただ) イエス・キリストを信ずるに由る」(ガラテヤ書2章16節)とある通りである。
信仰の力は如何に大きくても、その目的物を誤れば、救われないだけでなく、反って滅びるのである。これと反対に、信仰は如何に弱くても、信じるべき者を信じれば、救われることは確実である。
それだから「
我れ誠に汝等に告げん。若し芥種(からしだね)の如き信仰あらば此山に彼処(かしこ)に移れと命(い)ふとも必ず移らん。又汝等に能(あた)はざること無かるべし」(マタイ伝17章20節)という主イエスの御言葉の意味が判明(わか)るのである。
唯(ただ)の信仰にこの威力が在るのではない。偉大な神の子と、その聖業(みわざ)とに寄せる信仰は、たとえ芥種(からしだね)のように微小であっても、これに山を移すほどの能力(ちから)があるとの事である。
信仰の能不能は、
何を信じるかによって定まるのである。神の子を信じることによって、小さな信仰でも大きな事を為すのである。あたかも細い電線も、これを強い電池につなげば、大きな能力(ちから)を伝えられるのと同じである。
福(さいわ)いなのは、大きな能力(ちから)の源である神の子を示されて、これに自分の弱い信仰を寄せ得る事である。私に臨む能力(ちから)は、私の信仰の強弱に依らない。彼に宿る無限の能(ちから)による。
十二年間血漏(ちろう)を患っていた婦(おんな)は、恐る恐る、ほとんど半信半疑の間に、イエスの衣に触ったが、その信仰……誠に芥種(からしだね)のような信仰によって、彼女の重い疾(やまい)は直ちに癒えた。
イエスが彼女に向って、「汝の信仰汝を救へり」と言われたのは、奇跡の力を彼女の信仰に帰してではない。御自身の聖徳を覆い隠して、彼女の信仰を奨励されてである。私達は、イエスの謙遜な言葉を取って、その上に私達の信仰箇条を築いてはならない(マルコ伝5章25〜34節を見よ)。
完