全集第28巻P258〜
(「箴言(しんげん)の研究」No.5)
8.保証の危険 箴言6章1〜5節
◎ 「
我子よ、汝もし朋友の為に保証をなし、他人の為に汝の手を拍(うた)ば、汝はその言(ことば)によりて罠(わな)にかゝり、その口の言によりて囚(とら)へらるゝなり」と。また言う、「
他人の為に保証(うけあい)をなす者は苦難(くるしみ)を受け、保証を嫌ふ者は平安なり」と(11章15節)。
すなわち「保証は容易にしてはならない」との事である。保証をするのは危険である。保証をしたために身と身代とを亡ぼした者は数え切れないほど多い。
ところが事実はどうかと言えば、たいていの人は容易(たやす)く保証するのである。他人の金銭借用書に裏書きするのである。これに捺印して連帯責任を誓うのである。そして彼等はこれをして、人を助け、義侠(ぎきょう)の精神を表すのであると思う。
しかしながら、保証するのは容易であるが、責任を充たすのは難しい。そして責任に当たらなければならない場合に遭遇して恥をかき、時には身を亡ぼすのである。
ゆえに知者は容易に保証しない。紹介状さえ容易に書かない。
自分にその責任に当たるための十分な用意があることを認めない以上は、保証は如何なる場合においてもしないのである。
◎ これは人に対して不親切であるようであるが、決してそうではない。人は誰でも、他人の保証を受けなければ出来ないような事は、これをしないのが良い。彼は何事も、自分の信用によって為すべきである。他人の信用を借りて為すべきでない。
朋友のために保証するのは、自分の信用を以て彼の信用を補おうとするのであって、これは彼の独立を弱くし、成功を危うくする途(みち)である。そしてたいていの場合において、保証はこの悪結果に終わるのである。
◎ キリスト信者として私たちが保証を拒む理由は他にある。すなわち私たちは、私たちの未来を知らないからである。私たちは自分の事においてさえ、明日の事または明年の事を誓うことは出来ない。まして他人の事はなおさらである。
この事について明らかに私たちに教える者は、ヤコブ書4章13、14節である。
我等今日明日某(それがし)の邑(まち)に往き、彼処(かしこ)にて一年止まり、
売買して利を得んと云ふ者よ、汝等明日の事を知らず。汝等の生命(いのち)
は何ぞ。暫く現はれて遂(つい)に消ゆる霧也。故に汝等の言ふ事に易(か)へ
て此(か)く言へ。主もし許し給はば、我等活きて或(あるい)は此(この)事或
は彼(かの)事を為さんと。
◎ 保証をするな。しかし既にした場合にはどうすべきか。行って自ら謙(へりくだ)り、ひたすら友に求め、
保証を取消してもらうべきである。そのために生じる多少の損害は顧みるに及ばない。もし身を亡ぼさなければ幸いである(3、4節)。
9.アリに学べ 箴言6章6〜11節
◎ アリは勤倹と共に勤勉を教える。「
惰(なま)け者よ、蟻(あり)に往きて其為す所を観(み)て智慧を得よ」と言う。天然は最良の教師である。
今や天然科学の進歩により、私たちは天然物において、アリ以外に多くの良い教師を発見した。プリンス・クロポトキン(
https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Kropotkin )の名著「天然界に於ける相互援助」などは、この種の教訓を豊富に供給するものである。
◎ アリに学べ、働くべき時に働いて怠るな。怠惰は愚である。罪である。怠惰の結果として、人生は全く失敗に終わるとは、ソロモンがここに教えている事である。そして人が怠ける理由を考えてみると、彼は明日があると思って、今日怠けるのである。今年為すべき事を来年に延ばして、今年遊蕩(ゆうとう)の夢を貪るのである。
しかし、これは理由のない妄想である。今日は二度来ないのである。今年は去って、再び来ないのである。歳二十にして為すべき事は、二十一歳に達して為し得ないのである。
これを学問の事を以て例証するなら、語学の習得など二十五歳を過ぎれば、完全を期することは、ほとんど不可能である。頭脳が未だ固まらない前に学ぶべき事は学ばなければならない。既に習得の時期を過ぎれば、熟達しようと思ってもできないのである。
十代に為すべき事がある。二十代に為すべき事がある。三十代、四十代、五十代、六十代すべて同じである。二十代に為すべき事を三十代にすることは出来ない。人生は多忙である。その一年一日を忽(ゆるが)せにすることは出来ない。それゆえに怠けてはならないのである。
ところが事実はどうかと言えば、「
蟻は夏の中に食を備へ、収穫(とりいれ)の時に糧(かて)を斂(あつ)む」けれども、人は準備時代に準備しない。ゆえに完成時代に完成しないのである。夏に働かなければ秋に収穫はなく、冬は空乏である。ゆえに来世復活の春は来ない。
◎ この事について、私たちは聖書の教えを待つまでもない。古い東洋道徳が、よくこの事を教える。朱文公勧学文として私が青年時代に暗唱したものは、次の通りである。
謂(い)ふ勿(なか)れ今日学ばずして来日有りと、
謂ふ勿れ今年学ばずして来年有りと、
日月逝きぬ歳我と延びず、
嗚呼(ああ)老ひたり是れ誰が愆(あやまち)ぞや。
そして人生の真面目さを十分に闡明(せんめい)するキリストの教えに接して、古い支那人の教えの意味が、いっそう深く味わわれるのである。
怠惰の悔いは今世においては十分に感じられないであろう。主の台前に立って、委ねられた財貨(タレント)の使用について裁かれる時に、私たちは無意味に消費した年月が如何(いかに)身を禍(わざわい)するものであるかを覚るであろう。
10.邪曲(よこしま)の人 箴言6章12〜19節
12節 邪曲(よこしま)なる人、悪しき人、
彼は虚偽(いつわり)の言を事とす。
13節 眼をもて目くばせし、脚(あし)をもて知らせ
指をもて合図し
14節 心に悪を計り
常に争端(あらそい)の種を播(ま)く。
15節 此(これ)故に禍害(わざわい)俄(にわ)かに来り、
立ちどころに亡びて援助(たすけ)なし。
16節 エホバの憎み給ふもの六あり
其心に嫌ひ給ふもの七あり。
17節 驕(たか)ぶる目、虚偽(いつわり)を言ふ舌、
辜(つみ)なき人の血を流す手、
18節 悪しき謀計(はかりごと)をめぐらす心、
速(すみや)かに悪に趨(はし)る足、
19節 虚偽(いつわり)を述べて証(あかし)する人、
兄弟の内に争端を起す者
是れなり。
◎ イエスは教えて言われた、「
善き人は心の善き庫(くら)より善き物を出し、悪しき人はその悪しき庫より悪しき物を出す。それ心に充つるより口は物言ふ也」と(ルカ伝6章45節)。この事をよく教えるのが、箴言のこの数節である。
◎ 「邪曲(よこしま)なる人」、「邪曲の人」と読む方が良い。原語は「ベリアルの人」とある。コリント後書6章15節に「
キリストとベリアルと何の合う所かあらん」とあるその語である。
「ベリアルの人」とは、道徳的に最下級の人である。神に呪われた人、救われる希望が絶えた人である。滅亡(ほろび)に定められた人である。彼を一名「悪しき人」、あるいは「悪の人」と言う。その根本において悪い人を言う。「悪そのもの」と称してよい者である。
◎ そのような人は、在るか、または在り得るかと問う人がいる。人の性は善であると唱える者は、そのような人がいることを否定する。また神の愛を高調する信者は、「滅亡に定められた人」がいると聞いて、強く反対する。
誰がそのような人であるか、その事は分からない。しかしそのような人がいる事は確実である。私たちは自分の学説または感情によって、神の御言葉を拒んではならない。
◎ 「邪曲の人、悪の人」、彼はどのような人であるか。樹(き)はその実によって、人はその行為(おこない)によって知られる。「ベリアルの人」が為す事は次の通りである。
(一)「彼は虚偽(いつわり)の言を事とす」。 「虚偽(いつわり)に歩む」と意訳することが出来る。虚偽がその生命である。彼の言葉だけでなく、全身が虚偽である。
(二)ゆえに彼は、「眼にて目くばせし、脚(あし)をもて知らせ、指を以て合図し」と言う。眼も脚も指も尽(ことごと)く虚偽の器(うつわ)として働くと言う。彼の全身が虚偽で満ちているので、その肢(えだ)は尽く虚偽の機関となって働く。
(三)悪が彼の常性であるとすれば、悪を企むのが彼の心の常態である。ゆえに彼は、至る所に「争端(あらそい)の種を播く」。神の子供が平和の子であるのに対して、ベリアルの子は、争いの子である。彼が在る所に争いは必ず醸(かも)される。
◎ 邪曲(よこしま)の人は、公然とあらわに悪を行わない。心に悪を計り、眼と脚と指とを用いて、自己を隠しつつ、人の平和を乱す。
しかし、隠れた罪があらわに罰せられる時が来る。禍害(わざわい)は、にわかに、思いがけない時に来る。そして彼は、たちどころに亡びて、彼を助け起こす者はいない。
彼の滅亡は完全である。彼は倒れてまた起(た)たない。シロアリに柱の芯を食われた家のように、心は腐って形骸だけが残っている彼は、禍害(わざわい)の一撃に遭って再び起てなくなる程度に崩壊するのである。
◎ そのような人は果たしていないか。いると私は信じる。私の生涯において、私はそのような人を見た。実にここに書いてある通りの人を見た。私は彼に何か善い所は無いかと思い、探ってみた。しかし、何も善い所を見出せずに失望した。
彼は自分の姿を隠して罪を行う。彼が平和の攪乱(かくらん)者であることを発見するまでには、長い時日と多くの辛い実験を要する。
私はたびたび彼を疑ってはならないと思い、幾回も彼を信頼して、彼の誠実に接しようとした。しかしながら、全く誠実を欠乏する彼の心の門は、信頼によって開くことが出来なかった。
彼は至る所に争いの種を播いた。そして彼と絶縁した後に、平和は私の身に臨んだ。実に不思議である。しかし事実である。彼はベリアルの人である。サタンに占領された人である。
何故に彼がそのような人に成ったのか、私は知るに苦しむ。しかし事実は否めない。ベリアルの人はベリアルの人である。
◎ もし不幸にしてベリアルの人に遭遇するなら、これに勝つ途(みち)はただ一つである。即ち神の審判(さばき)を待つだけである。彼は悪を行うのに巧みで、とうてい人の力によって彼を除くことは出来ない。
「
此(この)類は、祈祷と断食に非ざれば出ることなし」とイエスは言われた(マタイ伝17章21節)。祈祷は信者が悪人と戦う時の唯一の武器である。そして神が私たちに代わって戦われる時に、勝利は完全である。
「禍害俄かに来り、たちどころに亡びて援助なし」である。敢えて自分の敵が滅びることを祈るのではない。自分の場合を神に委ねて、彼の審判(さばき)を待つのである。
◎ 第16節以下19節までに、神が嫌われる者を列挙している。「六つあり、七つあり」と言う。数々あり、その内最も嫌われる者は最後の者であるという意味である。
高慢な眼、偽りを言う舌等、いずれをも嫌われるが、エホバが特に嫌われるのは、「兄弟の内に争端を起す者」である。これに勝(まさ)って神が嫌われる者はない。
山上の垂訓に言う、「和平(やわらぎ)を求むる者は福(さいわ)ひなり。其人は神の子と称へらるべければ也」と。ベリアルの人は、神の子と正反対である。彼は和らぎを憎んで争いを愛する。彼がいる所では友人は離反し、兄弟は散乱する。人の平和が壊されることほど彼が喜ぶことはない。
親密な夫婦の仲を裂くことを最上の楽しみとする近代婦人がいると聞いた。ゆえに私たちは祈らざるを得ない。
世にベリアルの男女がいる理由は、確かに私たちに祈りを教えるためであるに相違ない。
ゆえに私たちは恐れるに足りない。「
我等が戦の器(うつわ)は、肉に属する者に非ず。営塁(とりで)を破るほど神に由りて能(ちから)あり」(コリント後書10章4節)とある通りである。ベリアルの人といえども、クリスチャンの祈りには敵することは出来ないのである。
◎ ベリアルの人、根本的悪人、生まれながらの悪人とも称するべき人、もしそのような人がいて、私たちを苦しめるなら、私たちは悪を以て悪に抗せず、善を以て悪に勝とうとする。即ち
祈祷を以てこれに応戦する。そして彼が悔いて神に帰り、私と和する場合がある。その時の私の喜びは例えようがない。
けれども彼がもし悔いずに反抗を続けるなら、彼は「禍害(わざわい)俄(にわ)かに来り、立ちどころに亡びて援助(たすけ)なし」である。
「俄かに」とあるのは、「不意に」という意味である。彼が思わない時に、彼が勝利を誇りつつある時に、彼が私を無きに等しい者と見なし、その軽侮(けいぶ)、凌辱(りょうじょく)を続けつつある時に、滅亡が彼に到り、彼は倒れて私は助かるのである。
そのような訳で、無抵抗主義と称して甚だ意気地がないように見えるけれども、実はこれに勝って完全な勝利の途(みち)はないのである。人にこの忍耐と、戦いの武器がないなら、彼はクリスチャンではない。祈る、祈る、祈って神が私に代わって、私を苦しめる者を裁かれるのを待つ。
「
神は昼夜祈る所の選びたる者を久しく忍ぶとも、終(つい)に救はざらんや。我れ汝等に告げん。神は速(すみや)かに(俄かに、不意に)彼等を救ひ給はん」と、イエスはそのような場合において在る信者を慰めて言われた(ルカ伝18章7、8節)。
実に有難い事である。神は活きておられて、その審判(さばき)を行われる。この世においても勧善懲悪は確実に行われる。義人は少しも失望するに及ばない。
(以下次回に続く)