全集第28巻P367〜
自由の解
大正13年(1924年)9月10日
「聖書之研究」290号
◎ ノーバリス(
https://en.wikipedia.org/wiki/Novalis )というドイツの青年文士の言葉に、「哲学はパンを焼くことが出来ない。しかし自由と神と不死の生命を供する」というのがある。哲学が果たしてこれ等三者を供し得るかは疑問であるが、しかし、これ等三者が人類の最大追及物であることは、明らかである。
「自由と神と不死の生命」、それが何であるか、これを得る途(みち)は何か、この問題に答えるのが哲学最後の目的である。
◎ 自由とは何か。
自由はもちろん、気まま勝手ではない。気ままな人は自由の人ではなくて、その反対に束縛の人である。彼は自分の気ままの他は、何もし得ないのである。
善と知っても善を行い得ず、義務に会っても義務を果たし得ないのである。ただ自分の欲するがままを為し得るのであって、赤子と同じくいわゆる「境遇の子供」である。この意味において、野蛮人はすべて自由の人である。
彼等は天然の子供であって、己が欲するままを行う。けれども彼等が自由の人でないことは、誰もが知っている事である。イエスはこの事について言われた、「
凡て悪を行(おこな)ふ者は悪の奴隷なり」と(ヨハネ伝8章34節)。
自分が思う事は何でも行う者は獣と多く異ならない。イエスはまた言われた、「
子は父の行ふ事を見て行ふの外は何事をも行ふ能(あた)はず」と(ヨハネ伝5章19節)。この意味において、イエス御自身が、最も不自由な人であった。
◎ 自由はまた、単に自己以外に何等の束縛をも
受けないという消極的境遇ではない。この世のいわゆる自由が、そのような種類の自由であることは明らかである。政治上の自由は、外国または貴族または富豪等の圧迫または制裁を受けないことであり、思想上の自由は、教会または学閥、または古典等の規範に従わないことである。ゆえにこの世の自由は結局、前述の気まま勝手に終わるのである。
昔のイスラエルの無政府時代を記した言葉にいわく、「
此(この)時にはイスラエルに王なかりければ、人々己の目に是(よし)と見ゆることを行へり」と(士師記17章6節)。
◎
真の自由は、消極的状態ではなくて、積極的能力である。何事をも為し得る状態または能力ではない。ある事を為さずに、ある他の事を為す能力である。善悪を判別して、悪を避け善を行う能力である。
◎ 真の自由は、第一に
発意である。境遇上の必然の結果として起こるものは自由ではない。自由が自由である以上、すべての境遇を超越したものでなくてはならない。即ち unconditional (無境遇)でなくてはならない。純な意志の純な発意でなくてはならない。
そのようなものは有り得るかと、多くの学者は問う。しかしながら、もし有り得ないとするなら、自由はないのである。そしてこの意味においての自由がなければ、義務も責任も道徳も無いのである。
真の自由を否定する時に、人は人でなくなるのである。造化の初めにおいて、「神、光あれと言ひ給ひければ光ありき」とある時に真の自由があったのである。
◎ 真の自由は第二に
正しい選択である。ある者はこれを取り、ある者はこれを捨てる。そして選択を行うに当たり、霊性本来の標準に従う。
生物各々がその本来の性に従って外物の取捨を行って、その成長発達を遂げるように、霊的生物である人間もまた、同様の取捨選択を行って、その生存の目的を達するのである。
霊的生命達成の途(みち)。これを称して自由と言って間違いないと思う。
◎ 真の自由は第三に、善い意志を
行なう能力である。自由は理想ではない。境遇ではない。
能力である。この世の事においても、実力の無い所に真の自由はない。法律はいくら完全でも、実力の無い所に自由は行われない。
I can do that which is right.(私は正しい事をすることが出来る)、その事が真の自由である。よって知る、自由は外に求めるよりは、内に求めるべきであることを。自由はまことに積極的能力(positive power)である。
◎ ゆえに真の自由は神から来る。「
子若(も)し汝等に自由を与へなば、汝等誠に自由を得べし」(ヨハネ伝8章36節)とある通りである。
神がその子イエス・キリストを通して、人または国家に与えて下さる時に、本当の自由があるのである。英国人の自由が他の諸国のそれに比べて健全強固なのは、これ故である。
完