全集第28巻P400〜
日本の天職 (9月28日朝の説教)
大正13年(1924年)11月10日
「聖書之研究」292号
神は諸種(もろもろ)の国民を一人より造りいだし、之を地の全面に住ま
しめ、時期(とき)の限(かぎり)と住居(すまい)の界とを定め給へり。是
れ人をして神を尋ねしめ、或(あるい)は探りて見出す事あらしめん為な
り。 (使徒行伝17章26、27節)
レビの支派(わかれ)にはモーセ何の産業をも与へざりき。イスラエルの
神彼等の産業たればなり。 (ヨシュア記13章33節)
汝の勢力(いきおい)の日に、汝の民は聖なる美(うる)はしき衣を着け、
心より欣(よろこ)びて己を献げん。汝は朝(あした)の胎(はら)より出る
壮(わか)き者の露を有(も)てり。 (詩篇113篇3節)
◎ 日本の天職は何か。日本は特に何を以て神に仕えるべきか。世界は日本から何を期待するか。日本は人類の進歩に、何を貢献すべきか。これは日本人各自にとって切要な問題であるのはもちろん、世界各国の識者が、今日まで知ろうとして努め、また今なお解答を求めつつある大問題である。国に天職があるのは、人に使命があるのと同様である。
エジプトとバビロンとは、世界に最初の物質的文明を供し、フェニキアは商業によって太古時代の文化を助け、ギリシャは美術、文芸、哲学を生み、そしてユダヤは今日に至っても未だ廃(すた)れない宗教を与えた。
国に特産があるように、民に特種な才能がある。世界人類は各国の産物才能の貢献によって進歩し、その究極の目的に達するのである。
◎ そして貢(みつぎ)を求める者は、人ではなくて神である。神は、神が御造りになった万国の民から、その最善を要求される。
オフルから金を、レバノンから香柏を、バシャンから肥えた牛を、東の国から乳香と没薬(もつやく)を、エドムから知恵を、エジプトから学術を、イスラエルから祭事(まつり)を要求される。万国の民はその祭物を携えて、エホバの山に詣でるであろう。
人類に奉仕するとは、人が言う事である。神に仕えるのは、国たるものが為すべき当然の祭りである。私たちは天職を語る時に、神に対する職分を語るのである。
◎ 日本の特産物は何か。日本人は何をして神に仕え、人類に尽くすべきか。産物の事については言わない。才能・職分について言おうと思う。
日本人の長所は、
戦争であるとある人は言う。花は桜、人は武士であると言う。そして過去三十年の歴史に徴すれば、この観察が真(まこと)ではないかと思われる節がないではない。
支那に勝ち、ロシアに勝ち、ドイツに勝ち、戦って勝たなかったことはない。日本人は、アッシリア人、ローマ人と同じく、武を以て世界を征定する職分に与った者ではあるまいか、そう見て見えないことはない。
多くの西洋人はそう観察し、多くの日本人もまた、同様の意見を懐く。しかしながら、日本人が武を以て世界に鳴ったのは、最近の事実に過ぎない。日本には未だ、アレキサンダーやジンギスカンのような大征服者は起こらない。
日本人はまた、戦場に出れば勇敢な戦士であるが、しかし戦争は彼等の趣向に適しない。
日本人が好戦的な民ではなくて、平和を愛する民であることは、彼等の大多数が農民である事によって分かる。
近頃英国の研究家ロバートソン・スコット氏(
https://en.wikipedia.org/wiki/J._W._Robertson_Scott )がこの事に注意し、親しく日本の農民生活を研究し、「日本の真髄」と題して、彼の観察の結果を世に発表して、世界の識者は記事の意外性に驚いたのである。
世界が見たものは、日本人の武勲・軍功であったが、日本人自身が日常実験しつつあるものは、静かで穏やかな農村生活である。農村の衰退が叫ばれる今日でも、日本人大多数の職業は農業であって、今も昔と異なることなく、農業は日本国の基(もとい)である。
そのような国が剣を以て世界を征服する国であり得るはずはない。
もし日本人多数の意見を問うならば、彼等は国として世界に王となるよりは、民として茅屋(ぼうおく)に平穏な生涯を送りたいと思うに相違ない。
軍人、政治家、文士、実業家と称する都会に住む少数者を除いて、日本人の多数の理想は、預言者によって言い表された、昔のイスラエルの民の理想である。
日数僅(わずか)にして死ぬる嬰児(みどりご)と、生命(いのち)の日を充
(みた)さざる老人(としより)とは、其内に復(また)と有ることなかるべ
し。百歳にて死ぬる者も尚(な)ほ若(わか)しとせられ、百歳にて死ぬる
者を詛(のろ)はれたる罪人とすべし。
彼等家を建てゝ之に住み、葡萄園(ぶどうぞの)を作りて其果を食ふべし。
……彼等の勤労(はたらき)は空しからず。その生む所の者は災禍(わざ
わい)に罹(かか)らず。彼等はエホバが福祉(さいわい)を賜ひし者の裔
(すえ)にして、其子等と相共に居る可(べ)ければなり。
(イザヤ書65章20〜23節)
と。これは、馬と戦車とに頼ったエジプト人やアッシリア人とは全く異なった生涯である。
大陸征服の師(いくさ)を起こして全く失敗に終わった太閤秀吉の後を受けて、徳川家が三百年の泰平を日本に施した主な理由は、平和を愛する日本人の、この天性にあると思う。日本の歴史が、西洋の歴史に比べて、戦争が少ないのもまた、同じ理由に因ると信じる。
もし日本において、英国にジョン・R・グリーンが起こったように、「日本人民史」を著す歴史家が起こるならば、彼によって著される日本歴史の十分の九は平和の歴史であるであろう。
◎ 日本は武を以て鳴るべき国でないとするならば、商業工業を以て世界の覇者となるべき国であるかと言えば、これまた大きな疑問である。
商業は国旗の後に従うと言う。そして国旗は軍艦と軍隊とによって運ばれるのが常である。軍艦があって商業があり、商業があって工業が起こるというのが普通の順序である。大海軍、大商業、大工業、いわゆる強大国は、いずれもこの三本足の上に立つのである。
英国がその最も好い実例である。ドイツはこれに倣おうと思って亡びた。米国は今や英国の例に従い、世界第一の国となろうとしている。そして日本の政治家と軍人と実業家とは、欧米強大国の例に鑑(かんが)みて、日本もその一つに成ろうと試みたのが、いわゆる一等国の班に加わった今日の日本である。
けれども日本が努力して獲得した第一等国の地位を守り得るか、それが今日の問題である。そして政治上経済上のすべての方面において行き詰まって、私たちは大いに考えざるを得なくなったのである。
いわゆる一等国は、日本が居るべき位置であるか。大海軍を擁し、大商船を浮かべ、商業工業を以て世界の競争に入るのが日本の本分
(その人が本来果たさなくてはならない務め)であるか。私はそうではないと信じる。そして事実が、私のこの信念が誤っていないことを証明すると思う。
日本は軍事的に、また経済的に世界に闊歩(かっぽ)する質の国ではないと信じる。日本はエジプト、アッシリア、旧ドイツと共に大軍国でないと同時に、またフェニキア、ベニス、英国等と共に、大商業国でないと信じる。
日本が人類の進歩に貢献し、世界を益し、また自己を全うする道は、他にあると信じる。それは何であるか。
◎ 私はここに日本人の美術、工芸、文学について語る時を持たない。そのどれもが優秀なものであることは、言うまでもない。北斎は世界的美術家であると言い、近松、馬琴が欧州に生まれていたなら、確かにシェークスピア、ワルター・スコット(
https://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Scott )たり得たと言う。
日本人の天才に驚くべき者がある。ただ悲しむべきは、独創性の欠乏である。日本人は新たに思想を起こし得ない。彼等は改良家であって、独創家ではない。天然を描くには巧みであるが、進んで大胆に天然の秘密を探り出す能力が乏しい。日本の美術文学に偉大なものとなる可能性を認めるが、未だ偉大そのものを見ることは出来ない。
◎ 日本人は特別に如何なる民であるか。私は答えて言う、
宗教の民であると。そう言って、私は自分の田に水を引き入れようとするのではない。日本の歴史と日本人の性質を考えてみて、そう言わざるを得ないのである。
人は明治大正の日本人を見て、私のこの提言が全然理由がないと唱えるであろうが、しかしそれは間違っている。国民の歴史において、七十年は短い時期である。
明治大正の物質的文明は、日本にとって一時的現象であった。
あたかも人の一生に生意気時代があるように、明治大正は日本の生意気時代であった。そしてこの時代は、今や終わろうとしている。日本は今や、自己に目覚めようとしている。武を以て鳴り、商業工業を以て世界に大となろうと思ったことが、自分の性質に全然適していないことを悟りつつある。
そして外の出来事が、内の覚醒を助けつつある。日本人は英国人のような商売人ではない。また米国人のような、肉と物とに憧(あこが)れる民でないことに目覚めつつある。日本人は英米人とは全く質の異なった民である。そこに彼等の天職があり、偉大な所があると信じる。
◎ 日本今日の仏教は腐敗した迷信であると西洋のキリスト教徒たちは言う。けれども腐敗している点においては、西洋のキリスト教も異ならない。そして腐敗した仏教界に誠実な真の信者が潜んでいることは、西洋のキリスト教界におけるのと同じである。
日本の仏教界に多くの尊ぶべき信者がいた。その模型として私は常に
恵心僧都源信を思う。その信仰が純潔で、思想が高遠であることにおいて、私は西洋の宗教家の中に彼より勝った者があることを知らない。
世界の信仰界において、源信は確かに第一流の内に数えられるべき者である。日本の浄土門の仏教が、彼のような純信仰家を以て始まったことは、日本の幸福であり、仏教の名誉である。
夏衣(なつごろも)ひとへに西を思ふかな
うらなく弥陀(みだ)に頼む身なれば。
うらやまし如何(いか)なる空の月なれば
心のまゝに西へ行くらむ。
これは真に日本人が未来と信仰の目的物とを思う心である。今日の日本のキリスト信者の中に、弥陀をキリストに、極楽を天国に変えてこの歌を詠み得る者は幾人いるか。
その他法然、日蓮、道元等、いずれの宗教に在っても、偉大な宗教家である。また神道においても本居宣長、平田篤胤等は西洋に多く見る信仰的愛国者の秀でた者であって、国の誇り、民族の誉れである。
彼等はいずれも、私がここに唱えるように、日本国の天職が、道義を以てする万国指導に在ると唱えた。彼等が日本を神国と称えたのは、この意味においてである。そしてその聖(きよ)い理想を言い表したものが、平賀源内の有名な一首である。
さし昇る朝日の本の光より
高麗(こま)唐土(もろこし)も春をしるさん。
この聖望を、国自慢として退けてはならない。これはイスラエルの民が懐いた望みであって、日本人たる者は誰もがこの高い理想を懐くべきである。
武を以て支那朝鮮を征服しようとするのではない。またアジア大陸を我が勢力下に置こうと欲するのではない。
日本に昇る道の光を以て世界の闇を照らそうと思うのである。これよりも高い、また聖(きよ)い愛国的志望はない。これは預言者イザヤの言葉の遠い反響と称してもよいものである。
起きよ、光を放てよ、汝の光来り、エホバの栄光汝の上に照出たり。視
(み)よ、暗(くら)きは全地を掩(おお)ひ、闇(やみ)は諸(もろもろ)の民を
覆はん。
されど汝の上には、エホバ照出たまひて、その栄光汝の上に顕(あら)はる
べし。
(イザヤ書60章1、2節)
◎ 誠に「暗(くら)きは全地を掩(おお)ひ、闇(やみ)は諸(もろもろ)の民を覆う」とは、世界今日の状態である。今や純宗教は、世界いずれの国においても見出すことは出来ない。
ルーテルの本国のドイツにおいては、信仰は宗教哲学に化するか、そうでなければ社会民主主義に取って代わられた。私たちの同志の一人が、ベルリンに行って、私たちが柏木で唱えていることを唱えると、ドイツのキリスト者は、驚いて言ったとの事である、「それはルーテルの信仰である」と。彼等はルーテルの本国に在ってルーテルの信仰を忘れたのである。
カルビンのスイスにおいても、カルビンの信仰は甚だ稀(まれ)にしか見られない。他の欧州諸国もまた、たいてい同じ事である。さすがに英国はキリスト教の本拠地であるけれども、英民族の天性として、彼等は信仰の民ではない。
英国人は制度化されない信仰に、信用を置かない。ゆえに英国人は、教会を捨てる時に、たいていは信仰を捨てる。神秘家ほど英国人の嫌うものはない。彼等は私のような者までを神秘家(ミスティック)と呼ぶ。もし源信や法然のような人が英国に現れたならば、彼等は実際に適(かな)わない夢想家として無視されるまでである。
さらにまた、米国人の信仰については、私がここに長く述べる必要はない。米国人の宗教は、英国人の宗教をさらに現世化したものである。これは宗教と言うよりも、むしろ
事業教である。彼等は「汝等休徴(しるし)と異能(ふしぎなるわざ)とを見ずば信ぜざるべし」とイエスが言われた言葉に適う者である。
米国人に取っては、宗教は運動である。彼等は「静にして倚頼(よりたの)まば救を得べし」というような、純信仰の意味を解し得ない。
パウロやヨハネの信仰を米国人の間に見ることは出来ない。旧派新派の別はない。
信仰よりもその結果に目を注ぐ点において、米国人の信仰は、すべて同一である。純信仰の立場から見て、米国人の信仰は、最も危険なものである。これは信仰の形を残して、その実力を否認するものである(テモテ後書3章5節参考)。
信仰は信仰である。その結果如何(いかん)にかかわらず、神を動かし、世に勝つ力である。
信仰そのものを信じる信仰、それが本当の信仰である。
◎ そして世界は、復(ふた)たび純信仰の復興を待ちつつある。いわゆる西洋文明はその全盛に達して、これは世を救うものでなくて、却って滅ぼすものである事が分かった。
物質文明が極度に達した米国人自身が、その未来に光明を認めずに、暗黒を期待している。「人類の幸福はどうすれば得られるか」と題する質問に対し、「世界の富源を開発し尽くして」との答は、満足な答としては受け取れない。
全生涯を金儲け事業のために費やした者が、老年に近づいて実業界を去って精神界に入りたいと願うのと同じで、今や人類全体が、憧れの目を純信仰に注ぐようになった。誰がこれを供するのか。
◎
日本人ではなかろうか。仏教がインドにおいて亡んだ後に、日本においてこれを保存し、儒教が支那において衰えた後に日本においてこれを闡明(せんめい)した日本人が、今回はまた欧米諸国において棄てられたキリスト教を日本において保存し、闡明し、復興して、再びこれをその新しい形で世界に伝播するのではあるまいか。
日本は神国であり、日本人は精神的民族であるとは、自称自賛の言葉ではない。恥を知り、名を重んじる点において、日本人は世界第一である。私たちは自分に多くの欠点があるのを省みて、神のこの賜物を見過ごしてはならない。日本人が信義に鋭敏なのは、精神界において神と人とに尽くすためではあるまいか。
◎ ここにおいて、前に掲げた詩篇113篇3節の言葉が光を放つのであると思う。「汝の勢力(いきおい)の日云々」とある「汝」は、受膏者(じゅこうしゃ)即ちキリストを指して言うのである。
神の子キリストが最後に勢力を世に振るわれる時には、彼の民即ち従者は聖なる美(うる)わしい衣を着て、心から喜んで己を献げ、その命に当たるとの事である。
そして彼キリストは、「朝の胎(はら)より出る壮(わか)き者の露を有(もて)り」と言う。「朝の胎」とは「日を産出(うみいだ)す所」という意味であって、極東の国を指して言う。
「壮(わか)き者」とは信仰に燃える信仰的勇者と解することが出来、「露を有(もて)り」とは、「奉仕を受ける」とか、または「利益に与(あずか)る」とかいう意味である。
「
彼れキリストが最後に世を治め給ふ時に、極東日出る国の彼の御弟子等が其熱心熱誠を以て彼に仕へまつり、彼の聖旨をして此(この)世に成らしむべし」と解して、少しも無理な解釈ではないと思う。
「汝は朝の胎より出る壮(わか)き者の露を有(も)てり」。キリストは日本人の信仰の奉仕を受ける特権を有しておられる。彼の栄光は私たちの名誉である。私たちは感謝して彼の召命(めし)に応じるべきである。
◎ 大震災に次いで友邦米国の排斥が起こり、我が国は万事において苦境に立たされている。しかしながら、悲境はすべて私たちの肉とこの世に係わる状態である。
日本国の真の隆起は、彼が悲境の極に達した後にあることを誰が知ろうか。
国としての存在を失った後の今日、イスラエルの子孫は、その宗教と信仰とを以て世界の最大勢力である。多くの人類学者によってイスラエルの血が混ざっていると称される日本人の世界的勢力もまた、亡国とまでは至らなくても、その第一等国としての地位をなげうって後の事であると思う。神が今日本国を鞭打っておられるのは、この準備のためではなかろうか。
付 録
日本人の内にユダヤ人の血が流れているとは、早くから学者が唱えている事である。かつてある有名な西洋の人類学者が、京都の市中を歩きながら、行き交う市民の内に、確かに多くのユダヤ人がいるのを見て、指さしてこれを案内の日本人に示したとの事である。
その他日本人の習慣の中にユダヤ人のそれに似たものが多く、また神道とユダヤ教との間に多くの著しい類似点があると言う。
今回米国の日本人排斥に対して、米国のある派のキリスト信者が、「日本人イスラエル説」を唱えて、大いに日本人のために弁じたことを私は知っている。
日本人の敬神にユダヤ人的な熱誠があることは、人によく知られている。キリスト教の宣教史において、日本人のように真実にこの教を受けた者は他に無いと信じる。
宣教開始以来六十年後の今日、キリスト教は既に日本人の宗教となった。キリスト教は日本において、他国において見ない発達を遂げるであろう。
西洋の宣教師が日本人を教化することが出来ないのは、日本人に宗教心が不足するからではない。それが西洋人以上に遥かに多いからである。
完