全集第29巻P14〜
(「ガラテヤ書の研究」No.2)
第2回 信仰の自由独立
(ガラテヤ書1章1、2節 同5章13節 同6章17節)
◎ 自由とは、気まま勝手を言うのではない。独立とは何者にも依らず絶対的に独り立つという事ではない。自由とは、神に支配されて、人に支配されない事である。独立とは、頼るべき者に頼って、頼るべきでない者に頼らない事である。
文字だけでは文字は解らない。いずれの文字も、その意味を言い表すには人類の実験が必要である。この事を最も明らかに示すものが、ガラテヤ書である。この書を研究せずに、私たちは自由独立を口にすべきではない。
◎ 第1章1節。「
人よりに非ず、又人に由らず、イエス・キリストと彼を死より甦らしゝ父なる神に由りて立られたる使徒パウロ」。書簡の言い出しの言葉としては著しい言葉である。こう言うには何か必要があったに相違ない。そしてその必要は、確かにこれを認めることが出来る。
ガラテヤ教会に、パウロが使徒であることを否認する者がいた。彼等は言った、「パウロは自(みず)から使徒であると称するけれども、彼は直ちに主イエスに就て教えを受けた者ではない。彼はまた、直弟子であった十二使徒から、使徒としての職権を授からなかった。ゆえに彼が自(みず)から使徒と称するのは僭越(せんえつ)である。したがって彼が伝えた福音は、正統な福音でない」と。
そしてこの非難攻撃に対して書かれたものが、ガラテヤ書であった。したがってその調子・文体は、始めから弁護的・反駁的にならざるを得なかった。今原文に従って、第1節、第2節を少しく解し易く訳するならば、次のようになるであろう。
使徒パウロ…その使徒たるの使命は人より出しに非ず、又人を通して授
かりしに非ず、イエス・キリストを通して、又彼を死より甦らし給へる
父なる神より出しなり…我れ使徒パウロ、我と共に在る諸兄弟、ガラテ
ヤの諸教会に書を贈る。
言っている意味は、「私は使徒である。そして私の使徒としての職権は、人とは何等の関わりがない。これは教会の首長と称するような、ある一人の有力者(単数)から出たのではない。またその下に立つ人の団体(複数)を経て伝わったのではない。
私はこの事については、直接にも間接にも人には何の負う所がない。私の使徒としての権能は、もし間接と称するなら、イエス・キリストを通して伝わったものであり、直接には父なる神から授かったものである。
そして父はイエスを甦らせられたので、私は甦ったキリストから私の使徒職を授かった者である。この職権を有する私パウロが、私と共にいるすべての兄弟と共に、ガラテヤの諸教会にこの書を贈る」と言うのである。
◎ 実に大胆不敵な言葉である。エルサレム教会を無視し、その首長でイエスの兄弟であったヤコブならびにペテロ、ヨハネ、マタイ、ピリピ等の十二使徒を眼中に置かないかのような言葉である。この言葉を発したパウロは、不遜、傲慢、矯激(きょうげき)という理由で責められても、返す言葉がなかったのではなかろうか。
しかしながら、これはパウロの揺るぎない確信だったのである。彼は空想を述べるのではない。事実を語るのである。事は使徒行伝第9章ならびに22章に詳細に書かれている。そこを読むべきである。
◎ しかし問題は、これはパウロ一人に限る事であるか、それである。すべてのキリスト信者、殊に福音の使者は、同じように神から使命を受ける者ではあるまいか。
パウロ以外に、旧約の預言者等はすべて直接に、人を経ずに、神から使命を受けた者である。アモスはベテルの祭司アマジヤの詰問に答えて言った、「
我は預言者に非ず、亦預言者の子にも非ず。我は牧者なり。桑の樹(き)を作る者なり。然るにエホバ羊に従ふ所より我を取り、往きて我民イスラエルに預言せよと我に宣(の)べ給へり」と(アモス書7章14〜15節)。
その他イザヤ、エレミヤ等の例はみな同じである。彼等はパウロと同様、いずれも人からでなく、人に由らず、神から直ちに預言者として召されたのである。
そして昔の預言者だけでない。いずれの時代においても、大教師として世に遣わされた者は、すべて明らかにこの実験を有(も)たせられた。即ち人を経ずに直ちに神に招かれた実験を有(も)たせられた。ルーテル、ウェスレー、ブレナード、リビングストン、ことごとくそうである。
彼等は教会を敬ったが、ある大切な事において、教会の命に従わなかったのは、このためであった。彼等は神か教会か、いずれかを選ばなければならない場合に立った時には、ペテロと共に言った、「
人に従ふより神に従ふは為すべき事なり」と(使徒行伝5章29節)。
彼等は人が組織する教会以上の権能を認めた。ゆえに堅くて強かった。そして教会を改め、また世を改めた。
◎ パウロはそのように高く自分を見て、自分を欺いたのではなかろうか。多くのキリスト信者ではないキリスト信者が、直ちに神に接したとか、または神の声を聞いたとか言った。パウロも彼等と類を同じくする者ではなかろうか。
この事の可否を証明するものは、議論ではなくて事実である。
パウロがした事が、彼が確かに直接に神に召された者である事を証明する。
ムーデーは常に言った、「聖書が神のインスピレーションである証拠は、それが私をインスパイアすることにある」と。ガラテヤ書そのものが、その発端の言葉が偽っていない証拠である。これは決して、狂人または空想家が書いたものではない。その内に熱信に燃えると同時に常識に富み、論理整然として動かせないものがある。
そしてパウロ自身が、彼が迷想家でない証拠を挙げている。彼は言いたいと思う事を言い終わって、最後に言っている。「
今より後誰も我を擾(わずら)はす勿(なか)れ。そは我れ身にイエスの印記(しるし)を佩(お)びたれば也」と(6章17節)。
彼は身にキリスト直伝の使徒であることを示す確実な焼印を押されているとの事である。それはどのようなものであったかとは、古来多くの注解者の才能を試みた問題であった。
聖フランシスは、その行為がますます清まると同時に、その身に十字架の印記(しるし)が痣(あざ)のように現れたと言う。パウロが身に佩(お)びた印記(しるし)もまた、そのようなものであったのではあるまいか。しかし、そんな奇跡的なものではなかったと信じる。
これは彼が信仰の故に受けた迫害の傷痕(きずあと)であったと思う。「
我は五たびユダヤ人に四十に一を減じたる鞭(むち)を受け、三たび条(えだ)にて撲(うた)れ、一たび石にて撃(うた)れ」と言っている(コリント後書11章24、25節)。
たぶん彼の身体(からだ)には、彼がそのようにして受けた幾個かの傷痕(きずあと)が残っていたのであろう。そして彼はこれを称して「イエスの印記(しるし)」と言い、これを指して彼が間違いなくイエスの使徒であった事を証したのであろう。
彼が人に依らずに直ちに神の召しに与ったとは、自身のほかに知る人のない、彼の霊的実験であった。しかし、内なる実験は、外に現れざるを得なかった。彼はそのために迫害を受けた。その迫害の痕(あと)が傷として残った。これが、彼が間違いなくキリストの使徒である証拠であると言う。そして誰も彼のこの証明を否認する事が出来ない。
◎ そして使徒または大教師に限らない。すべての真のキリスト信者に、神とのこの接触がある。彼等はいずれも、「人よりに非ず、人に由らず、キリストを甦らし給へる父なる神」に召されて信者となったのである。
ここにキリスト信者の自由がある。また独立がある。神と人との関係は、直接であり間接でない。法王も監督も、また如何なる権威ある教会も、二者の間に立ち入って、この神聖な関係を少しでも妨げることは出来ない。仲介者はただ一人、神が定められた中保(なかだち)すなわちキリストである。この実験がなければ、キリスト信者となることは出来ない。
そしてガラテヤ書は、劈頭(へきとう)第一にこの言葉を挙げて、信仰自由のラッパの声を上げたのである。人の霊魂が、人の作った制度や、考えた思想や、人物崇拝や、その他ありとあらゆるこの世の束縛に悩む時に、ガラテヤ書は援助(たすけ)の天使として、彼に臨むのである。
しかしその供する自由は、気まま勝手の自由ではなくて、神の聖旨を行う自由である。いわく、「
兄弟よ、汝等は召(めし)を蒙(こうむ)りて自由を得たる者なれば、其自由を得しを機会として肉に循(したが)ふ勿(なか)れ。惟(ただ)愛を以て互に事(つか)ふることを為(せ)よ」と(5章13節)。ガラテヤ書の供する自由は、健全な、聖(きよ)い、力強い自由である。
**********************
◎ 私自身にとり、ガラテヤ書第1章第1節は殊に貴い。これは私の信仰の砦(とりで)と称するものである。もし私が私の立場を守ることが出来るならば、それはパウロのこの言葉によってである。
諸君が知っているように、私はいずれの教会にも属さない。私を信者として認めた教権は、どこにもない。したがって私は、誰からも伝道の許可を得ない。「人よりに非ず、人に由らず」と。私の場合においては、文字通りにそうである。
ゆえに聖公会などにおいては、私がキリスト信者であることを認めない。その宣教師のある者などは、私を不信者扱いして少しも憚らない。もちろん私は、彼らに対して私の立場を弁明しない。私は彼等に信者として認めてもらいたくは少しもない。
けれどももし彼等が、パウロの教敵がガラテヤにおいてしたように、私によって信者となった人々の信仰を擾(みだ)すならば、私もまた私の信仰と立場とを弁明せざるを得ない。
私は果たして信者でないか。私の伝道は果たして無効であるか。この質問に対して、私もまたパウロと同じく、二つのことに訴えるのである。
その第一は神が私を以て成された事業である。その第二は、私が身に佩びるイエスの印記(しるし)である。他に私は人または人を以て組織される教会から受けた何等の証明を持たないのである。
◎ 私は信者に成って、今年で46年である。私の功績と言うのではないが、しかし何百または何千という人が、私を通して神とキリストとを信じるに至り、その内の多くの人が信仰を捨てたが、また少なくはない人は今なおその信仰を持ちこたえている。
著述何十種、信仰雑誌を継続すること25年、これは神に招かれない者に為し得る事であろうか。このような事は、私が人に向かって、私の信仰を弁明するために必要であるばかりではない。それよりも遥か以上に
私が私の信仰について疑いを起こす時に、自分で自分を説服するために必要である。
◎第二に私もまた身にイエスの印記(しるし)を佩びている。私もまたイエスの名の故に、多くの辱めを受けた。私の愛する国に在って、二十年余り枕する所が無かった。その他骨肉から、同信の人たちから、ずいぶんと辛い扱いを受けた。
印記(しるし)と言っても、肉体に傷痕(きずあと)は残っていない。しかし私の心には、拭(ぬぐ)いたいと思っても拭えない傷が残っている。私もまたパウロと同じように、私の反対者に向かって、「今より後誰も我を擾(わずら)はす莫(なか)れ。そは我は身にイエスの印記(しるし)を佩ぶれば也」と言うことが出来る。これは誰も否認できない私の生涯の実験である。
(10月12日)
(以下次回に続く)