全集第29巻P47〜
(「ガラテヤ書の研究」No.9)
第9回 信仰と聖霊
(ガラテヤ書3章1〜20節の研究)
◎ 以上が、パウロがガラテヤ人に伝えた福音である。人からでなく、また人に由らず、神から直(じか)にその聖子(みこ)を通して彼に伝えられた福音である。自由の福音である。独立の福音である。
人は誰もただイエス・キリストを信じることによって、何の儀式にも与ることなく、この世の資格如何(いかん)に関わらずに、神に義とされて、恩恵の生涯に入ることが出来るという福音である。
これを縮めて言えば、「
我れ既にキリストと共に十字架に釘(つ)けられたり。最早我れ生けるに非ず、キリスト我に在りて生ける也。今我れ肉体に在りて生けるは、神の子を信ずるに由りて生ける也」と言う福音である。自分は既に死に、キリストが私に代わって生き、私の余生はただ信仰を以てこれを送るに過ぎないという福音である。
簡単で明瞭、しかも深遠、解し易くてしかもその内に、無限の知恵と知識とを包蔵する福音である。
◎ ところが驚いたことに、ガラテヤ人はその福音を捨てて、他の福音即ち福音ではない福音に移ったのである。故にパウロは、前に言ったのである、「
我は怪しむ、汝等が如此(かく)速(すみやか)に我福音を離れて異なる福音に遷(うつ)りしを」と(1章6節)。
そして今ここに続けて言ったのである、
あゝ愚なるガラテヤ人よ、誰が汝等を誑(たぶら)かしゝ乎。イエス・キ
リストは十字架に釘(つ)けられし者として汝等の目の前に明かに示され
しに非ずや。
と。「愚人よ」とは嘲りの言葉ではない。憐みの言葉である。我が子の過失(あやまち)を悲しむ言葉である。
より善い物を捨て、
より悪い物を取る。福音を捨てて律法に帰る。預言者エレミヤの言葉で言うならば、ガラテヤ人は「活ける水の源なるキリストの福音を棄てて、水を保たざる壊(やぶ)れたる水溜」である旧い律法に戻ったのである(エレミヤ記2章13節)。
愚かである。無知である。考えのない仕方である。我が子はそのような事をするはずはない。誰かが彼等を誑(たぶら)かしたに相違ない。誰であるか私に告げよと、パウロはここに憾(うら)みの声を発したのである。誰かが我が子を誑かしたのである。即ち
密かに欺いて、彼等を異なる福音へと誘ったのである。
けれどもパウロは彼の福音を密かにガラテヤ人に伝えなかった。彼は日本武士のように、すべて内証(ないしょう)の事、後ろ暗い事を憎んだ。
彼はコリント人に書き送って言った、「
恥べき隠れたる事を棄て、悪しき巧みを行はず、神の道を混(みだ)さず、真理を顕(あら)はして神の前に己れをすべての人の良心に質(ただ)す也」と(コリント後書4章2節)。
彼はガラテヤ人の内に在ってもまたこの途(みち)を取った。イエス・キリストは十字架に釘(つ)けられた者として彼等の目前に公々然として示されたのである。即ちロマ書1章16、17節に言っているように、彼はキリストの十字架の福音を恥としなかった。
何故なら
神の義がこれに顕(あら)われたからである。十字架は迷信ではない。まじないではない。
神の義の現れである。ゆえにこれを唱えるに当たって、陰険な手段は禁物である。
同時にまた、これを壊すのに公々然と義に訴えて壊すことは出来ない。信者を誑かす以外に途(みち)がない。即ち義に訴えずに、利に訴える以外に方法はない。そしてガラテヤ人は魔術師に乗じられて、その詭計の罠にかかったのである。
◎ 解釈を進める前に、私は諸君に問いたいと思う。諸君もまたガラテヤ人と共に、同じ災禍(わざわい)にかかっていないかと。
十字架の福音が何やら馬鹿らしく見え、もっと合理的な、実用的な福音を求めて、いつの間にか十字架の福音を捨てるに至らなかったか。信仰の堕落は、常にここに始まるのである。
こういう言葉がある。即ち、「宗教に二つあり、二つ以上はない。人から神に到ろうとする宗教と、神から人に臨もうとする宗教とがこれである」と。そしてこの世の全ての宗教は、第一種に属するものであって、キリストの福音だけが第二種に属する。
律法の宗教、儀式の宗教、道徳の宗教、社会奉仕の宗教は、すべて人から神に到ろうとする宗教である。即ち自(みず)から努めて神の子としての資格を作って、彼に受け入れられようと思うのである。
キリストの福音はそうではない。これは、聖(きよ)い神が罪の人に臨まれる道であって、人はただ信じることによって神に受け入れられるのである。故にこれだけが福音である。他は異なる福音であって、福音と称すべきでない福音である。
「攀(よ)じ登る麓(ふもと)の道は多けれど、同じ高根の月を見るかな」。これはこの世のすべての宗教を唱えた歌である。けれどもキリストの福音は、その部類に属しない。
キリスト信者は、攀じ登ろうとしないのである。ただ信じるのである。
そして信仰によって神の翼に乗せられて、その御許(みもと)へと運ばれるのである。そしてこの信仰の道を捨てて、律法の行為(おこない)に帰る時に、信仰の堕落があるのである。
中世時代のヨーロッパがこれであった。今日のアメリカがこれである。そして宗教の事については主にアメリカに倣う今日の日本のキリスト教会がこれである。
即ち信者がある者に誑かされて、十字架に釘(つ)けられたイエス・キリストを仰ぎ見ることを止めて、自分の手の業(わざ)に重きを置くようになったので、この信仰衰退が臨んだのである。
そして事は他人の事ではない。私たちの事である。柏木に来て私の講義を聞くことが何かの功徳(くどく)であると思う時、自分が行った少しばかりの慈善または伝道事業が、何かの価値を自分に付けたと思う時、聖書研究の必要を教えられて聖書道楽に耽(ふけ)るようになった時、
キリストの十字架に頼らずに、自分の手か脳か心かの状態に頼るようになった時に、私たちは真の福音を離れて、異なった福音に遷(うつ)るのである。
願う、ローマ天主教会または英国国教会の儀式家も、ドイツまたは米国の高等批評家も、また殊に米国の社会運動家も、私たちを誑(たぶら)かして、私たちを単純な十字架の福音から離れさせて、近代流の福音ならざる福音に遷(うつ)らせる事がない事を。
◎ 福音を離れた悪結果は数々ある。そしてその内の主なもので、最も顕著なものは、
聖霊を失う事である。故にパウロは言ったのである。
我ただこの事を汝等より聞かんと欲す。汝等が霊(みたま)を受けしは律
法を行ふに由るか。将(は)た聞きて信ぜしに由る乎。 (2節)
と。ガラテヤ人もまた、一度は聖霊を受けた。ところが今はこれを失った。これは何によるか。彼等は一度は霊の力に充ち、奇(ふしぎ)な業(わざ)を行わされた。けれども今はその力を失って、ただ努力一方の人となった。
その理由は何か。信仰を捨てて、行為に入ったからである。キリストを仰がずに、自分の力に頼り始めたからである。聖霊は人の信仰に応じる神の恩賜(たまもの)である。信仰のない所に聖霊は降らない。故に言う、
それ汝等に霊(みたま)を賜ひ又奇(ふしぎ)なる業(わざ)を行(おこな)は
しめ給ふ者の如此(かく)なすは、汝等が律法を行ふに由てなる乎、又
聞きて信ぜしに由てなる乎。 (5節)
と。事は最も明白である。ガラテヤ人は自分の経験によって、自分の誤りを正すことが出来る。
努力の宗教は、機械的である。これに東奔西走の快楽がなくはないが、常に充実する力はない。「
エホバを俟(まち)望む者は、新たなる力を得ん。また鷲の如くに翼を張りて昇らん。走れども疲れず、歩めども倦(う)まざるべし」(イザヤ書40章31節)と言うような幸いな状態はない。
◎ 信仰と聖霊、二者は付き物である。信仰のない所に聖霊はなく、聖霊のない所に信仰はない。
試みにこの章の1節から14節までを見ると、「信ずる」または「信仰」という文字が十回用いられ、霊(みたま)即ち聖霊という文字が五回繰り返されている。信仰のある所に聖霊が降り、聖霊の降る所に能力(ちから)が充ち、奇(ふしぎ)な業(わざ)が行われる。
アブラハムが神に義とされて、祝福を受けたのは、全くこの途(みち)による。ゆえに人は誰でもこの途(みち)に従って、アブラハムの子と成ることが出来る。彼から血統を引く必要はない。
また割礼を受けてイスラエル人として認められるに及ばない。ただアブラハムのように信じて、彼のように神に祝福されて、彼の子と成ることが出来る。アブラハムの裔(すえ)と称されると言い、またアブラハムと共に福(さいわい)を受けるであろうと言うのは、この事である。
キリスト我等の為に詛(のろ)はるゝ者となりて我等を贖(あがな)い、我
等をして律法の詛(のろ)ひより脱(はな)れしめ給へり。……是れアブラ
ハムに下りし恩恵イエス・キリストに由りて異邦人にまで及ばん為なり。
我等が信仰に由りて約束の霊(みたま)を受けん為なり。
(13、14節)
キリストの十字架の目的はここに在る。これによって私たちの罪を除き、私たちが信仰を以て神に近づけるようにし、私たちを聖霊恩賜の恵みに与らせるためである。
罪は信仰を妨げる者である。そして信仰のない所に聖霊は降らない。ゆえに先ず罪を除いて信仰の途(みち)を開き、そして信仰に応じて聖霊を降そうとするのが、神がその独子(ひとりご)を私たちのために十字架に釘(つ)けられた理由である。何と大きな愛であるか。
◎ 以上が、明白な福音の真理であり、また明白な信仰の事実である。けれども私たち日本のキリスト信者の多数にとっては、この信仰の実験が欠けているのではないかと思う。問題は、福音を離れたかどうかのそれではなくて、福音を把握したかどうかのそれである。
キリストの福音と言うと、
より高い道徳あるいは
より聖(きよ)い道と心得て、神が私たちに信仰を促すために設けられた、罪を除く途(みち)である事に気付かない者が多いと思う。
したがって、聖霊に関する考えが至って浅く、人に「あなたは信者と成った時に、聖霊を受けたか」と尋ねられると、答えて言うであろう、「
我等は聖霊の有る事だに聞かざりき」(使徒行伝19章2節)と。即ち聖霊を受けたかどうかの問題を離れて、聖霊が有る事さえ知らない信者がいる。
けれども聖霊がなければ、信仰的生涯はないのである。信者の生涯は、自(みず)から自分の身を潔くして、神に仕えようとする生涯ではない。神から聖霊を与えられて、彼の善い器となることである。「最早我れ生けるに非ず。キリスト我に在りて生ける也」とある生涯である。そしてキリストは、聖霊を以て、私に在って生きておられるのである。
◎ 聖霊が何であるかについては、後日特に語りたいと思う。今はただ、それが決して不可解な、不合理な霊ではないことだけを述べておく。
聖霊は第一に、罪が罪であることを覚らせる。第二に、キリストの十字架の意義を明らかにする。第三に、罪の赦しを感じさせて、真の平和を与える。第四に、新たな愛を起こして、他者の罪を赦し、そのために尽くそうとする心を盛んにする。
第五に、患難に耐えさせ、忍んで挫けないようにする。第六に、希望を生んで常に喜ばせる。
(11月30日ならびに12月7日の二回にわたって)
(以上、3月10日)
(以下次回に続く)