全集第29巻P55〜
(「ガラテヤ書の研究」No.11)
第11回 キリスト信者の単一
(ガラテヤ書3章28節の研究)
斯(か)かる者の中には、ユダヤ人又ギリシャ人、或(あるい)は奴隷或は
自主、或は男或は女の別なし。蓋(そは)汝等皆基督イエスに在りて一
なれば也。 (旧訳)
今はユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自主もなく、男も女もなし。
汝等は皆、キリスト・イエスに在りて一体なり。 (新訳)
これに類した言葉が、コロサイ書3章11節である。
此(か)くの如きに至りては、ギリシャ人とユダヤ人、或(あるい)は割礼
ある者と割礼なき者、或は夷狄(えぶす)或はスクテヤ人、或は奴隷或は
自主の別なし。夫(そ)れキリストは万物の上に在り、又万物の中に在り。
(旧訳)
◎ 信者はみな、その信仰によって神の子と成ったのである。キリスト・イエスに在って神の子と成ったのである(26節)。それは何故かと言えば、キリストにまでバプテスマされ(浸され)た者は、キリストを着た者であるからである(27節)。
その者には、人種また文化、境遇また社会上の地位、さらにまた性の区別さえ無い。何故なら、彼等はことごとくキリストに在って一体であるからであるというのが大意である。
◎ 以上を前後の関係から離して読めば、「人間無差別」という事になる。人種の差別がない、地位の差別がない、男女の差別がないという事になる。
ロシア人の共産主義そのままであって、実に恐ろしい教えになる。そしてある人はそのようにキリスト教を解する。キリスト教は人種、上下、老若、男女の差別を認めず、四海同胞を教える宗教であると思う。
けれどもキリスト教は、そのような事を教えない。またそのような事は有り得ない。
差別はある。差別は神が定められたものである。これを認めて、これに従って行うのが義務である。
故にパウロは他の所において教えて言う、「妻なる者よ、夫に服(したが)ふべし。夫なる者よ、妻を愛すべし。僕(しもべ)なる者よ、主人に服(したが)ふべし。主人なる者よ、僕(しもべ)を労(いたわ)り導くべし」と(エペソ書5章、6章)。
キリスト教会を無礼講の一種と見なす者は、極めて浅くこれを解する者である。「父父たり、子子たり、君君たり臣臣たり」は、儒教におけると同じく、キリスト教においてもまた、人が実践すべき道である。
パウロはまた、人種・国民の差別があることを教えている。使徒行伝17章26節に言う、「
また此(この)神は凡(すべ)ての民を一の血より造り、悉(ことごと)く地の全面に住ませ、預(あらか)じめ其(その)時と住む所の界(さかい)とを定め給へり」と。
「一の血より造り給へり」、その意味においては四海同胞である。「其時と住む所の界を定め給へり」、その意味において、人種国家の差別がある。万民に共通な所がある。また相異する所がある。この事を見逃すことは出来ない。
◎ それでは何によって差別を取り除くことが出来るか。「キリストに在りて」である。パウロは単に、あなたたちユダヤ人またギリシャ人、夷狄(えびす)またスクテヤ人、奴隷また主人は、みな一つであるとは言わない。あなたたちは、
皆キリスト・イエスに在って一つであると言う。
これは大切な条件である。人として生まれただけで無差別であると言うのではない。キリストを信じ、彼に在って一体であると言うのである。パウロはここに、
人間無差別を教えるのではない。
キリスト信者一体を示すのである。前者と後者とは全く別問題である。
◎ 信者はキリストに在って神に結ばれ、また相互に結ばれるのである。信者の生命はキリストである。彼は自己に死んで、キリストが彼に在って生きられるのである。故に彼という者は徐々に失せて、キリストは彼に在って日に日に成長されるのである。
そして全ての信者がそうであるので、彼等はキリストに在って一つにならざるを得ない。私は私でなくてキリストである。
ラテン人のアウグスティヌスも、ドイツ人のルーテルも、米国人のムーデーも、その点においては変わりはない。古今東西の全てのキリスト信者がそうである。ゆえに彼等は一つである。彼等の間に人種、国家、教会等の差別はない。
差別を認めるのは浅い証拠である。私たちがキリストの内に深く自己を投じれば投じるほど、自己が失せて、キリストが私たちに現われられるのである。生命はただ一つ、キリストである。その生命によって生きて、ユダヤ人はなく、ギリシャ人はなく、奴隷はなく、主人はなく、男はなく、女はないのである。
◎ キリストに在って一つまたは一体であるというのでは足りない。原語に在っては、「一人」である。英語聖書の one man を参照しなさい。信者は全て、キリストに在って
一人である。古今を通じて、全世界の信者が一人となると言うのである。
実に雄大な思想である。しかし空想ではなく事実である。教会と訳されているエクレジヤはこれである。キリストは新郎(はなむこ)、エクレジヤは新婦(はなよめ)、そして新婦はただ一人、そして彼女は全世界の民の中から選ばれた信者から成るとの事である。
◎ ゆえにガラテヤ書のこの一節によって、人種的差別の撤廃を唱えることは出来ない。それとこれとは、全く別問題である。それは政治問題または文化問題である。そしてこれは、信仰問題である。前者は未決問題である。後者は既決問題である。
私はキリスト信者と成ったからと言って、欧米人に兄弟として扱われたいとは思わない。欧米は、名だけのキリスト教国であって、実(まこと)のキリスト教国でない事は誰でも知っている。しかしながら、信仰を以てキリストに在って生きる以上、私もまた全世界の信者と共に、同一の生命に生きる事は、争うことが出来ない。
◎ 生誕節の深い意味はここにある。キリストがお生まれになった時に、私が生まれたのである。あなたが生まれたのである。エクレジヤと称する美(うる)わしい世界人が生まれたのである。
これは、キリスト以前に在った者ではない。またキリスト以外に在る者ではない。これは処女マリヤから生まれた者を以て、始めて世に臨んだ者である。
生誕節の意味が解るには、自分が確実にキリストの生命の分与にあずからなければならない。
これは聖書の文字や歴史を知っただけでは解らない。また科学や哲学で説明する事の出来る事ではない。自分にその生命が降って、これを実験して解る事である。
そしてこの生命は、血肉を通して授かる生命ではない。「
斯(かか)る人は血脈に由るに非ず、情欲に由るに非ず、人の意(こころ)に由るに非ず、唯(ただ)神に由りて生れし也」とある。この実験を有して、福音書におけるイエス降誕の記事を読んで、私たちは少しも怪しまないのである。
(12月21日)
(以下次回に続く)