全集第29巻P63〜
(「ガラテヤ書の研究」No.14)
第14回 愛の表現
(ガラテヤ書6章の研究)
◎ ガラテヤ書の主要問題は、律法と福音である。これを具体的に言えば、割礼と無割礼とである。パウロの主張は、人が救われるのは神の子を信じることにより、律法を行うことによらない。故に割礼は受けるに及ばないと言うことであった。
一見して如何にも無益な宗教論であるように見える。しかしながらその根底には深い道徳上の理由があるのである。目的は、神の前に義であることにある。人間に対して言うならば、完全な人と成ることにある。そして律法は人を完全にする道ではなく、福音こそその道であると言うのがパウロの主張であった。
パウロは模範的ユダヤ人として、決して夢想家ではなかった。彼は健全な実際家であった。彼が高い理想を述べたのは、完全な行為を産むためであった。そのようにしてガラテヤ書もまた、ロマ書のように、高遠な実際道徳の提唱で終わらざるを得なかった。
◎ 5章5、6節において、彼は教義を去って道徳に移った。先ず第一に教義、その後に教義の結果である道徳、パウロの論法は、常にこの順序による。
我等は霊(みたま)に由り、信仰に由り、義とせらるゝことの希望の充た
さるゝ時を待つなり。夫(そ)れイエス・キリストに在りては割礼を受く
るも益なく、受けざるも益なく、惟(ただ)愛に由りて働く所の信仰のみ
益あり。
ここにパウロ道徳の全てが明記されていると言うことが出来る。第一に信仰、その報賞(むくい)として霊を賜り、霊は義の果(み)を結ぶ。そして霊が信者の内に在って義を行うので、信者は義が現れるのを望み待つ。
彼は霊の器と化したのであって、自分で義を行うのではなくて、霊が自分を以て義を行われる時を待ち望むと言う。実(まこと)に回り遠い途(みち)であるが、しかし謙遜で確実な途(みち)である。そして霊(みたま)は信者が待つまでもなく、彼を以て直ちに完全な義を行われる。
直接道徳ではなくて間接道徳であると言えば、まだるい、なまぬるい道徳のように聞こえるが、しかし実際的には最も敏活で最も熱烈な道徳である。
◎ 律法が正しくて、福音は正しくないか、最後の決定は、その結果に依るのである。イエス・キリストに在っては、割礼も無益、割礼がないのも無益、
ただ愛を以て働く信仰だけが益があると言う。
テストはここに在る。ただの信仰ではない。
愛を以て働く信仰、この信仰の働く所に真理は在り、神はおられる。
律法がもしこの嘉(よみ)すべき結果を生じ得るなら、律法は良いものである。福音が神の真理であることの証明もまた、これを除いて他に求めることは出来ない。
人生最後の問題は、
やはり実際問題である。樹(き)はその果(み)によって知られる。愛を以て働く信仰を結ぶ樹(き)は、善い樹(き)である。結ばない樹(き)は、悪い樹(き)である。
私は私の反対論者と、この点で争いたいと思うとパウロは言うのである。最大の弁論家は、ここに実際道徳の主張者と化したのである。
◎ そしてパウロは、ここに実例を挙げているのである。6章1節から5節までがそれである。
兄弟よ、若(も)し計らずも過(あやまち)に陥る者あらば(若し過に追い
つかれる人がいるなら)霊の感化の下に在る汝等は、柔和なる心を以て
斯かる者を取戻すべし。
各自(おのおの)己に省みよ。自己(みずから)も亦誘はるゝ事あらん。相
互の重荷を担ふべし。而(しか)してキリストの律法を完成(まっとう)す
べし。人もし有(ゆう)ならざるに自から有なりとせば、是れ自から欺く
なり、云々。
ここに愛を以て働く信仰の実例がある。真の信仰とはそのようなもの、真の愛とはそのようなものでなければならない。
兄弟が罪に陥った場合、あるいは罪に追われて追いつかれた場合に、あなたたち聖霊を与えられてその支配の下に在る者は、柔和な心を以てそのような者をいたわり、その回復を計るべきである。あなたたちは相互の重荷を担わなければならない。相互の責任を分かち合わなければならない。
彼の罪を、自分の罪として感じなければならない。そして柔和な心を以て、彼の罪を責めずに、自分で自分の罪を処分する心で、彼を元の状態に取り戻さなければならない。これがキリストの愛である。
キリストは私たちの罪を御自分の罪と見なして、私たちに代わって神の怒を御自分の身に受けられた。私たちもまた、キリストのこの御心を以て相互の罪を担わなければならない。そうするのがキリストの律法である。モーセの律法とは異なり、兄弟を愛し、その罪の責任を分かち持つのが、神に仕え奉る途(みち)である。
◎ 他人の罪の責任を分かつというような事は、自分にはとうてい出来ない事だと言う者はいるか。そのような人は、自分を省みなさい。人が、もし価値が無いのに自分には価値があるとするなら、これは自分を欺く事である。
あなたがたは、各自、自分の行いを調べてみなさい。そうすれば、自分が無価値であることを知るであろう。たとえ一二の誇るべき行為があるとしても、それは当然なすべきものであるに過ぎず、ことさらに他人に勝り、彼等に比べて独り誇り得るようなものではない。
人は各々(おのおの)、罪の重荷を負う。故に全ての罪人に同情すべきである。「
凡(すべ)て人に為(せ)られんと欲(おも)ふ事は、汝等も亦人にも其の如くせよ」と主が命じられたように、私たちは各々(おのおの)自分の重荷を人に分け持ってもらいたいと思うように、自分もまた他人の罪の重荷を分け持つべきである。
◎ 第4、5節は難句である。私は正確な解釈を与えたかどうかを知らない。けれどもパウロが言おうと思う事の要点は明白である。キリストの愛の唱道である。
愛にも種々(いろいろ)ある。そしてキリストの愛は特別な愛である。
自分が他人に代わって苦しむ愛である。「
キリスト既に我等の為に詛(のろ)はるゝ者となりて我等を贖(あがな)ひ律法の詛(のろ)ひより脱(はな)れしめ給へり」(3章13節)とあるのはこの事である。
自分は清浄な身であって、他人の罪に与(あず)からず、その罪を責めて責任を分かたなければ、罪人を救うことは出来ない。
キリストはそのような冷淡で無責任な方法によって、私たちを贖(あがな)われなかった。彼は私たちのために呪われられた。私たちの罪を御自分の罪として受けて、甘んじて木に懸(かか)られた。そこに神の愛が現われた。キリスト信者たる者は、この特殊な愛を現わす者でなければならない。
◎
神に在っては独子(ひとりご)の提供、人に在っては信仰の服従、そして信仰に応じる聖霊の恩賜、その結果は、キリストの愛の実現、キリスト教の大意はこれである。そしてこの事を述べた者が、ガラテヤ書である。
(1月25日)
(以上、5月10日)
完