全集第29巻P67〜
批評と信仰
大正14年(1925年)1月10日
「聖書之研究」294号
◎ 自分は、ある人たちが思うような根本的悪人であるかも知らない。もしそうならば彼等の悪評は適当であって、自分の不幸この上なしである。
しかし、もし自分が善人であったとしても、悪評は免れないのである。なぜなら、真の善人が悪人として扱われるのは、この世の常例であるからである。
「
凡(すべ)ての人汝等を誉(ほめ)なば汝等禍(わざわ)ひなる哉(かな)」とイエスは言われた。鬼の王ベルゼブルと呼ばれた者の弟子が悪しざまに人に評されるのは当然の事である。
悪人であれば悪く言われ、善人であっても悪く言われる。人は誰もこの世において、悪評はとうてい免れないのである。
◎ けれども何を恐れようか。クリスチャンは自分でない。彼は善であっても悪であっても、自分は既に死んだ者である。
「
我れキリストと共に十字架に釘(つ)けられたり。最早我れ生けるに非ず、キリスト我に在りて生ける也。今我れ肉体に在りて生けるは、我を愛して我が為に己を捨てし者、即ち神の子を信ずるに由りて生ける也」(ガラテヤ書2章20節)とある。これが文字通りにクリスチャンの生涯である。
「神の子を
信ずるに由りて生く」。信仰が彼の生命である。道徳でも、品性でも、人格でもない。
信仰である。信仰があれば信者である。信仰が無ければ他に何物があっても信者ではない。
信者を裁くのに信仰を以てせずに、信仰以外のものを以てするのは、誤った裁きと称せざるを得ない。
◎ 自分はたびたび思う。ルーテル、カルビンのプロテスタント(新教)運動は失敗であったと。そしてその事を思って、プロテスタント主義まで疑わざるを得なくなる。
しかしながら、新教(プロテスタント)主義が間違っているのではない。その名だけが残って、その実は消えてしまったのである。ドイツも米国も新教国であると言うが、実はそうではないのである。道徳や人格によって生きず、信仰によって生きるという点において、ドイツも米国も新教国ではないのである。
彼等は実は彼等が捨てた、元のローマ天主教に帰ったのである。即ち主の十字架を仰がずに、己に省みるという「此(この)世の小学」に帰ったのである。
今の米国宣教師が伝えるキリスト教は、その実質において、概ね旧いローマ天主教である。彼等は完全な人を要求する。故に自己を裁き、また他人を裁くのである。
本当の新教徒は、完全を人に求めず、キリストにおいて発見する。故に自己を裁かず他人をも裁かないのである。新教徒が自他を裁き始めた時に、彼独特の信仰を捨てたのである。望ましいのは、宗教改革当初の純信仰である。
完