全集第29巻P104〜
(「十字架の道」No.2)
第二回 イエスの殿(みや)潔(きよ)め
マタイ伝21章12〜17節。マルコ伝11章15〜18節。
ルカ伝19章45〜46節。ヨハネ伝2章13〜22節。
◎ 四福音書によれば、イエスは二度殿(みや)潔(きよ)めを行われた。伝道の初めとその終りとにおいて、これを行われた。前者を記す者がヨハネ伝である。後者は三福音書によって記されている。二度であるか一度であるかは、よく分からない。しかし、二度と見て差し支えないと思う。
マタイ伝によれば、イエスは都上りの当日にこれを行われたとあり、マルコ伝によれば、翌日行われたとある。即ち当日は調査に止め、翌日決行されたとの事である。
ゆえに一時の怒によって行った事ではなく、深慮の結果行われたとの事である。神殿の俗用を深く憤られたからである。
四つの記事の中で、最も活気があるのは、ヨハネ伝のそれである。「縄をもて鞭(むち)を作り云々」とある。実に「汝の家の為の熱心我を蝕(くら)はん」という慨歎(なげき)があった。
◎ 何人もここに見逃すことの出来ない事は、イエスは決して「優しいイエス様」でなかった事である。ここにいわゆる「羔(こひつじ)の怒」が遺憾(いかん)なく発揮された(黙示録6章16節)。
イエスは羔(こひつじ)であった。けれどもこの羔(こひつじ)に怒があった。彼は救主であると同時に審判人(さばきびと)である。
彼の眼は明白な不義を許すには、余りにも聖(きよ)かった。全て誠実な人は怒る。怒らない人は不実な人である。
カーライルの英雄崇拝論にモハメットの「額(ひたい)の青筋(あおすじ)」という一条がある。モハメットの誠実は、これに現れたと言う。まして神の子ならなおさらである。
真の愛は怒る。
ルカ伝に従えば、殿潔(みやきよ)めは「噫(ああ)エルサレムよ、エルサレムよ」という歎声(たんせい)を発せられた後に行われたとある。
「
既に近づける時、城中を見て、之が為に哭(な)き曰(い)ひけるは」とある(19章41節)。この愛があって、この怒があったのである。
◎ 殿潔めは、単に殿潔めではなかった。神殿の奪還またはその占領であった。イエスはここに神の正嫡子として父の家を要求されたのである。
「
我が家は祈祷(いのり)の家と称(とな)へらるべし」と言い(マタイ伝21章13節)、「
我が父の家を貿易(あきない)の家とする勿(なか)れ」と言う(ヨハネ伝2章16節)。
我が父の家である。故に
我が家であると言うのが、彼の主張であった。イエスはここに彼の神の子としての権利を主張されたのである。
そしてこの権利を主張できる者は、天上天下、彼を除いて一人もいない。ゆえに彼がしたように殿潔めを為し得る者は、一人もいないはずである。
羔(こひつじ)ではない私たちは、「羔(こひつじ)の怒」そのままを繰り返してはならない。
◎ イエスの要求は容(い)れられなかった。祭司と学者とは、神殿を私用して、イエスは彼等に除かれた。しかしながら、彼は彼の神聖で正当な要求を撤回されない。彼は再び殿(みや)に現れられる。そしてこれを御自身の手に収められる。彼の再臨がその時である。
◎ 旧約のマラキ書3章に言う、
汝等が求むる所の主は
忽然(たちまち)その殿に来らん。
汝等が喜ぶ所の契約の主は、
視(み)よ彼は来り給はんと、
万軍のエホバ言ひ給ふ。
彼れ来る日に誰か堪(た)へ得んや、
彼れ顕(あら)はるゝ日に誰か立ち得んや。
彼は金を吹きわくる火の如し、
又布晒(ぬのさらし)の使ふ灰汁(あく)の如し。
彼は銀を吹分け之を潔(きよ)むる者の如く坐せん
彼はレビの子等を潔めん
金銀の如くに彼等を浄(きよ)めん。
斯(か)くして彼等はエホバに献ぐるに至らん
義をもて献物(ささげもの)を献ぐるに至らん。
其時ユダとエルサレムとの献物は
エホバの悦(よろこ)び給ふ所とならん。
古き日に於けるが如く、
先きの年に在りしが如く、
エホバの悦び給ふ所とならん。
◎ イエスはこのようにして再び現れて徹底的に殿を潔(きよ)められる。そして彼の初めの殿潔(みやきよ)めは、この終りの殿潔めを予表して為された者である。預言は成就されずには止まない。神の殿は、必ず神の子によって潔められるに決まっている。
◎
殿潔(みやきよ)めは、今日の言葉で言えば、教会改革である。教会は神の殿であって、これは地上に在っては神の子に属するものである。しかしその内に在って彼の聖名が称えられるだけで、彼の聖旨(みむね)は行われない。
教会は大体において今なお盗賊の巣であり、また商いの家である。これを潔める困難は、昔のエルサレムの殿(みや)を潔める困難と同じである。
そして幾回か教会改革の声は挙がったが、その徹底的実行は、今なお行われない。フス、サボナローラ、ウィクリフ等がこれを試みて、教会に焼き殺された。教会改革は今の時代においても、イエスの殿潔(みやきよ)めと同じだけ無効である。
しかし教会改革が、徹底的に完全に行われる時がある。それは契約の使者即ちキリストが忽然とその殿(みや)に来られる、その時である。教会改革は、キリストの再臨を待って、行われるのである。
私たちは、その時まで待てばよいのである。ただしイエスに倣い、生命を賭(と)して福音の真理の証明(あかし)を為すことを怠ってはならない。
(2月8日)
(以下次回に続く)