全集第29巻P117〜
(「十字架の道」No.7)
第七回 カイザルの物と神の物
マルコ伝12章13〜17節。マタイ伝22章15〜22節。
ルカ伝20章20〜26節。
◎ パリサイ派は、国権主義の独立党であった。ローマ政府の保護の下に存立するヘロデ王朝に反対し、「国をイスラエルに還(かえ)さん」と称し、ユダヤ国の独立を期待した者であった。
ヘロデ党はその正反対であって、ローマ皇帝の権威に頼って、ヘロデ王朝を維持しようとする者であった。故に普段は氷炭相容れない党派であったが、イエスに対しては二党が結合したのである。
この世の党派は、全てそのようなものである。彼等は利益のために相争うので、利益のためには容易に一致する。
イエスは両派にとって共同の敵であった。その当時の人にとって、パリサイの人とヘロデの党(ともがら)とが提携したという事は、今日の日本において、憲政会と政友会とが提携したという以上の奇観であったろう。
しかし怪しむに足りない。この世の人たちが聖善の主であるキリストに対する時は、常にこの道を取るのである。
◎ 「
貢(みつぎ)をカイザルに納むるは善きや否や」と。実に陰険極まる質問である。イエスを苦しめる質問として、これ以上のものはない。
「善(よ)し」と答えれば独立を熱望する民を怒らせ、「悪し」と答えれば反逆を理由として政府に訴えられる。民の敵か政府の敵か、イエスはその態度を明らかにするように迫られたのである。
ちょうど我が国の官吏教育家等がキリスト信者を苦しめようとして、「キリスト教と我が国の国体との関係はどうか」という質問をしばしば提出するのと同じで、悪意から出た質問であった。
神の子ではない私たちは、この質問をされて、如何に苦しめられたかを知って、イエスのこの場合における困難を推し量ることが出来る。
◎ しかしイエスは、私たちと異なり、立派にこれに応じる途(みち)を知っておられた。彼は質問者に向かって、彼等が納税用として使用するように命じられていたローマ政府鋳造の銀貨デナリを持って来るように、彼等に要求した。
そして彼等にこれを示して、その貨幣に打ち込まれた像とその周囲の文字とが誰を表すかを反問された。そして「カイザルなり」との答えを得て、これに対して答えられた。
カイザルの物はカイザルに返し、神の物は神に返すべし。
と。実に驚くべき言葉であった。反対者はこれに対し、一言も返す言葉がなかった。
◎ デナリは、ローマ皇帝勅命の下に鋳造された貨幣であって、帝国に納める諸税は、全てこの貨幣で納められた。これはカイザルの物をカイザルに返すのであって、帝国の統治を受ける者であれば、誰もが為すべき事であった。
納税は、臣民第一の義務である。故に納税と称して、貢(みつぎ)を献納するものではない。借りた物を返すのと同然である。カイザルが受けるべき物を彼に返すのである。服従か独立かの問題ではない。義務実行の問題である。
カイザルは秩序を供し、民はこれに対して、貢(みつぎ)として税を払う。貸借関係の実行である。質問者の dounai domen (納める、与える)に対し、イエスは apodote (返せ、払え)を以て御答えになった。
◎ カイザルの物に対して神の物があった。当時のユダヤ人の間に、二種の銀貨が流通した。一つはデナリであって、ローマ政府に納税するために用いられた。他の一つはシケルであって、これは神殿に献金するために用いられた。
その意味においてデナリは皇帝の物、シケルは神の物であった。イエスはここに、「デナリはこれを政府に納めよ。シケルはこれを神殿に献じなさい」と言われたと解して、多く誤らないのである。
故にある人は、イエスはここに政教分離を教えられたのであると解するが、その意味もあるいはその内に含まれているかも知れない。
イエスがここに教えられた事を、さらに精細に伝えたものが、ロマ書13章6〜8節においてパウロが述べた言葉である。いわく、
汝等貢(みつぎ)を納めよ。彼等(有司)は神の用人(つかいびと)
にして常に此(この)職を司(つかさど)れり。汝等負債は何人に
も之を返すべし。
貢(みつぎ)を受くべき者には貢を、税を受くべき者には税を、
畏(おそれ)を受くべき者には畏を。敬(とうとび)を受くべき者
には敬を返すべし。汝等互に愛を負ふ外は、何人にも何物
をも負ふ勿(なか)れ。
と。そして人に対してだけでなく、神に対しても負債は償却せざるを得ない。神もまた私たちから要求されるものがある。神は私たちに全てを与えて下さったので、私たちは彼に全てを償却せざるを得ない。
神に対して私たちは、これは「我有(わがもの)なり」と称すべき一物をも有しない。故に全てを献げざるを得ない。そして先ず第一に、自分のハートを献げざるを得ない。
自分の所有はもちろん、自分自身が汝のものであると言って、彼の聖前(みまえ)に全心全霊を献げざるを得ない。
実にパウロが言ったように、この身を神の意(こころ)に適(かな)う聖(きよ)き活ける祭物(そなえもの)として彼に献げまつるのは、「是れ当然の祭なり」である(ロマ書12章1節)。
カイザルの物はカイザルに、神の物は神に、この正当な要求に応じられる者はどこにいるか。
パリサイ派とヘロデ党の者たちは、イエスにこの質問を発して、自分たちの傷を指摘されたのである。故に「彼等は之を奇(あやし)とせり」とあって、イエスの知恵と権威と洞察とに驚いたのである。
国体問題を以て私たちに迫る、我が国の偽忠臣と偽愛国者に対しても、私たちは同一の筆法で彼等を説服すべきである。
(3月15日)
(以下次回に続く)