全集第29巻P126〜
(「十字架の道」No.10)
第10回 ダビデの王
マタイ伝22章41〜46節。マルコ伝12章35〜37節。
ルカ伝20章41〜44節参考。
◎ イエスは今までは彼の反対者に対して守勢であられた。彼等に、彼に対して質問をさせ、徹底的にこれに答えて、彼等を教えられた。
そして彼等がこの上さらに質問の矢を放つ勇気がないことを見て取ると、彼は守勢から攻勢に転じられた。彼は今より、自(みず)から質問を発して、彼等に答えさせられた。
そして答える言葉がないのを御覧になると、彼等を責め、彼等の虚偽を暴露し、彼等の滅亡を宣告し、彼等が彼に対して暴力で争うより他に途(みち)がないまでに至らせられた。
衝突は終(つい)にここに至らざるを得なかった。光明と暗黒との衝突であった。そして暗黒は光明を呑み去った。けれども光明は消えるように見えて、再び暗黒の内から生れ出た。
論争は、十字架を紹介するための序幕であった。必然の死を前に控えての論争であった。そこにその重みと深みとがある。
「人が将に死なんとす、其の言ふや善(よ)し」と言うが、神の子が将(まさ)に死のうとして発せられた言葉であったので、悉(ことごと)く真を穿(うが)ち、底に徹したのである。
◎ 質問戦は、「汝は何の権威を以て此(この)事を為すや」という問いから始まった。イエスは直接にこれに御答えにならずに、間接に御答えになった。けれどもさらに明白にこれに答える必要があった。
イエスにある権能が何であるかを知ろうと思うなら、彼が何者であるかを知らなければならない。しかし、今ただちに「我はキリストなり」と言っても、彼等はこれを受け入れることが出来ない。
ゆえにここに質問を発して、彼等の反省を促された。「
汝等キリストに就て如何に思ふや。彼は誰の子なる乎」と。「
ダビデの子なり」と彼等は答えた。
「
然れども聖書はダビデがキリストを呼んで主と言って居るではない乎。詩篇第百十篇を見よ。ダビデが主として崇(あが)めし者が、何(いか)で其子たり得んや。如何(いかに)?」とイエスは反問された。この問いに対して、学者ならびにパリサイの人たちに答えるべき言葉がなかった。
◎ イエスは反対者を苦しめるためにこの問いを出されたのではない。彼等に、キリストは誰か、そして彼御自身がキリストである事を教えるために、このように彼等に問われたのである。
キリストはダビデの裔(すえ)として生まれるであろうとは、聖書が示している事であって、その点についてイエスは学者たちと争われなかった。
ダビデの子であるが、さらにそれ以上である。
ダビデの主である。ちょうどイエスがマリアの子である以上に、彼女の主であるのと同じである。
その事が解らなければ、キリストが誰であるかは解らない。学者たちは、聖書を暗誦(そらんじ)ながら、この事が解らなかったのである。したがってナザレ人イエスがキリストである事にとうてい気付き得なかったのである。
◎ キリストは大王ダビデが主として崇めた者である。そして我はその者であるとイエスは言おうと思われたのである。
聖か狂か。かつて中江藤樹が釈迦の「唯我独尊」の言葉を評して、この言葉を発した人は、最も傲慢な者であると言ったという事であるが、自己を大王の主であると称(とな)えたイエスもまた、この批評に当たる者ではあるまいか。
近代人はイエスのこの問いに対して、反ってパリサイの学者たちに同情して、そのような難問を発して彼等を困らせたイエスに対し、密かに反発するであろう。
◎ 人は言う、聖書の中に、イエスが明白に「我は神なり」と言われた言葉はないと。けれども彼はここに、キリストは大王の主であると明言された。そして他の箇所において、我はキリストなりと明言された。
聖か狂かは別問題として、イエスが自(みず)から神の子キリストなりと信じておられた事は疑うことが出来ない。そして事は信仰問題でも思想問題でもない。実際問題である。
ダビデが、彼の裔(すえ)として生まれるべきキリストを自分の主として崇めただけでなく、「
汝等の先祖アブラハムは、我日を見んことを喜び、且(かつ)これを見て楽しめり」とイエスが言われたとあるように、アブラハムもまた彼を主として仰いだのである(ヨハネ伝8章56節)。
そしてイエスがこの驚くべき言葉を発されてから千九百年、多くの国王、大帝、大学者、大美術家等、大と称された全ての階級の人たちが、彼を主として崇めたのである。
アルフレッド大王、クロムウェル、ヴィクトリア女王、彼等もまたダビデ王同様に、イエスを主として崇めたのである。
そしてヨセフの子イエスを崇めることは、恥辱ではなくて、無上の光栄である。迷信ではなくて、最上の知恵である。
まことに国家人類の運命は、イエスに対するその態度によって決まるのである。神は預言者イザヤを以て、この人に関して宣(の)べられた。
汝に事(つか)へざる国は亡び
その国々は全く荒れ廃(すた)るべし
(イザヤ書60章12節)
と。「神の子キリストなるイエスに事(つか)へざる国は亡ぶべし」と言うのである。
不道理千万であると人は言うであろう。けれどもトルコを見よ。エジプトを見よ。インドを見よ。ペルシャを見よ。思い半ばに過ぎるであろう。
敢えていわゆるキリスト教国がキリストの聖旨(みこころ)に適(かな)うと言うのではない。けれども不完全極まりながらも、イエスに主として仕える点においては、
より善い国と称せざるを得ない。
国が興るのも亡びるのも、つまるところナザレ人イエスに対するその態度によって決まるとは、不思議な、しかも争うことの出来ない事実である。
◎ イエスは何としてでも祭司の長(おさ)ならびに民の学者たちに、御自身に関するこの事を知らせたいと思われた。しかしイエスといえども御自分の事は語るのが甚だ難しかった。
故に間接に、遠回しにこの事について語られた。福音書のこの箇所は、この心を以て読まなければならない。
夫(そ)れダビデ聖霊に由りて自(みずか)ら言ふ、「主我が主に
曰ひけるは云々」、此(か)くダビデ自(みずか)ら彼を主と称へ
たり。然(さ)れば如何(いか)で其裔(そのこ)ならんや。
(マルコ伝12章36、37節)
と。
これは反対者を苦しめるためのコナンドラム(謎)ではない。彼等の平康(やすき)に関わる大問題である。詩篇第110篇の意味を解った者が、自分と自分が属する国家民族との救いに関わる大問題の解った者である。
「
汝の遣はし給ひし者を識(し)るは是れ窮(かぎ)りなき生命なり」である。「汝等キリストに就て如何に思ふ乎」と。主は今日も私たちにこの問題を発しておられる。私たちはこれに対して如何(いか)に答えつつあるか。
(以下次回に続く)