全集第29巻P136〜
(「十字架の道」No.13)
第13回 「禍(わざわい)なる哉(かな)」七回
マタイ伝23章13節以下。ルカ伝11章37節以下。
◎
禍(わざわい)なる哉第一。 人の教師になろうと思う者は、先ず自(みず)からが救われなければならない。自から救われることは、人を救い得る資格の第一である。
ところが多くの教師は、自分が救われた実験を有していないのに、人の救いに従事する。それで彼等は天国を人の前に閉じて自から入らず、かつ入ろうとする者が入るのを許さないのである。
自分が救われていないのは、大きな禍である。けれども人が救われるのを妨げるのは、禍の極である。そして自分が救われた確実な実験を有しない者が伝道に従事して、この禍に陥るのである。
自分自身が平安を得られない。故に人に平安を与え得ないのはもちろん、彼が平安に入ることを喜ばず、さらに進んで、平安に入る道を塞(ふさ)いで、彼が平安に入れないようにする。
◎
禍なる哉第二。 人を平安に導けない。それで自分の党派を立てて、一人でも多く自分に似た者を作ろうとする。その目的を達するためには、あまねく水陸(うみやま)を巡回して、一人でも多くの者を自分の宗旨に入れようとする。
そして既に引き入れると、これを自分に倍した地獄の子とする。世に党人ほど嫌うべき者はいない。そしてその内最も嫌うべき者は、
宗教的党人である。
信仰のない伝道は、いわゆる宗教勧誘運動に化しやすい。何時の世にも、そのような運動が、伝道の名の下に行われた。
人の霊魂を救おうとするのではなく、我が教会の勢力を張ろうとする。この目的によって成ったいわゆる信者は、天国の民ではなくて、地獄の子である。
その熱心は神と真理とに対する熱心ではなくて、自分が属する教会に対する熱心である。それだから宗教戦を起して、信者相互を誹(そし)り、罵(ののし)り、呪(のろ)い、殺して、神に奉仕したと思う。
もし主イエスが、彼の聖名(みな)を以て称えられる今日の教会を御覧になったなら、彼はどれほど御怒りになるであろうか。
偽善な学者とパリサイの人に対して羔の怒を発せられた彼は、きっとそれ以上の怒を発して、彼の教会内に行われる偽善を焼き尽くされるであろう。
◎
禍なる哉第三。 誠実な人は、誓約を慎む。彼の言葉そのものに誓約の価値があるからである。殿(みや)を指し、祭壇を指し、天を指して誓わざるを得なくなったのは、彼の誠実が減退した、何よりも良い証拠である。
誓約に区別をつけ、その間に有無軽重を認めるに至って、誠実は地を払うに至ったと言うべきである。
あたかも今日の社会において、証文がますます煩雑になるような類である。印鑑を要し、証券印紙を要し、証人の連印を要し、さらに進んで公正証書とすることを要する。それでもなお安心できない。
誠実を欠いて約束の履行を誓約に求める時に、事がここに至るのは、当然の順序である。
「然り然り否な否な、此(これ)より過るは悪より出る也」である。単純なイエスは、複雑なパリサイ人の教えに堪えられなかった。
◎
禍なる哉第四。 偽善な学者とパリサイの人は小事に厳しくて大事に寛容であった。彼等は律法(おきて)の言葉に従い、薄荷(はっか)、ウイキョウ、馬芹(まきん)というような小さな野菜に什一(じゅういち)の税を課して、義と仁と信というような大事は、これを顧みなかった。
「
是れ行ふべし、彼も亦廃すべからず」である。小事はこれを行うべきである。けれども大事はこれを廃してはならない。仁義を怠るなら、小事に如何(いか)に忠実であっても、神に対し人に対し忠実であり得ない。小事は為し易い。大事は為し難い。
日曜日に代えて土曜日を安息日とするような事は、誰にでも出来る事である。けれども正義に依って動かず、全国を相手に福音のために闘うような事は、真の勇者でなければ為し得ない事である。
学者とパリサイの人は小人であった。ゆえに小善に忠実であり得て、大善に忠実であり得なかった。そして悪事に対してはその反対に、小悪を避けて大悪を犯した。ボウフラを濾(こ)し出してラクダを呑んだ。
小さな負債は返済して、大きな負債は踏み倒した。そして偽善者がする事は、今日もなお同じである。
◎
禍なる哉第五。 偽善者は、外を潔(きよ)めて内を怠る。器に注意して内容を顧みない。食器が清潔であるように心がけて、これに盛る飲食物の性質がどうかは気にしない。そして器が清ければ、その内容も自(おの)ずから潔まると思うのである。
盲目の人よ、その反対が真理である。先ず内容を潔めなさい。そうすれば器もまた潔まるであろう。会堂が荘厳であることによって信者を潔めようとしても、それは出来ない。信者を潔めれば会堂は自ずから潔まるであろう。
器を重大視して、これを使用する精神を軽視するのが、偽善者の特性である。制度、方法、組織、団体、これ等はみな器であるに過ぎない。即ち杯と皿とである。これを貪欲と淫欲(放縦(ほうしょう))とで満たすなら、如何なる容器も聖潔であり得ない。
◎
禍なる哉第六。 偽善者は外を飾り、内を顧みない。白く塗った墓に似て、外は美しく見えるが、内は骸骨と様々な汚穢(けがれ)とに満ちている。この世の聖人君子は、全てこの類である。彼等は努めて外を飾るに止まる。内は不平、傲慢、嫉妬で満ちている。
いわゆる修養は、修飾に過ぎない。人の努力は、自己を改めるに足りない。先ず自分の汚穢(けがれ)を認め、神の大能を以て自分の内に新たな心を造り、彼に自分を潔めていただく以外に、潔くされる途(みち)はない。
学者とパリサイの人とは、今の多くの道徳家や宗教家と同じく、神の子の贖罪の恩恵に与ろうとしなかったので、彼等の偽善状態から脱出することが出来なかったのである。
◎
禍なる哉第七。 偽善者は建碑の民である。自分の義を義人の墓碑に現して、自分自身は義に背いて怪しまず、言う、「我等若(も)し先祖の時に在らば、預言者の血を流すことに与(くみ)せざりしものを」と。
けれども若(も)し預言者に直面すれば、彼等はこれを殺して、
預言者殺しの裔(すえ)であることを証明する。イエスの前に立った学者とパリサイの人とがその人であった。
そして古(いにしえ)の聖人、義人、殉教者に対しては称賛の言葉を重ねて惜しまない人も、真の聖人が自分の前に立てば、これを讒謗(ざんぼう)罵詈(ばり)して止まないのが常である。
「
蛇(へび)蝮(まむし)の類よ、汝等いかで地獄の罰を免れんや」とイエスは彼等に対して言われる。邪知に富んでいるので蛇である。毒を蔵(かく)しているので蝮である。
そして蛇と蝮とが草むらを焼き尽くす火で焼かれるように、是等の偽善者は、地獄の刑罰に会うであろう。そう、実に会うのが当然である。
◎ ここに「禍(わざわい)なる哉(かな)」が七回繰り返された。始めの三回はその教えが誤っているので、終りの三回は行いが悪いので、そして中の一回は二つとも悪いので。
4月26日
(以上、9月10日)
(以下次回に続く)