全集第29巻P139〜
(「十字架の道」No.14)
第14回 イエスの愛国心
マタイ伝23章37~39節。ルカ伝13章34~35節。
ルカ伝19章41〜44節。
◎ イエスに愛国心があった。彼はただの個人主義者でなかった。彼は個人さえ救われれば国はどうでも良いという個人主義者でなかった。
彼は国を国として愛された。彼はイスラエルに関わる神の聖旨を信じておられた。「救はユダヤ人より出づ」と言って、ユダヤ国の天職を信じておられた。世にイエスの愛国心に勝る聖(きよ)くて正しい愛国心はなかった。
私たちは全ての事について、彼から学ばなければならないが、愛国心についても彼から学ばなければならない。私たちはイエスがイスラエルを愛された心を以て、日本国を愛さなければならない。
◎ そしてイスラエルの愛国心は、彼の全ての行為において現れたが、殊に彼が国都エルサレムに至った時に現れた。全てのイスラエル人はエルサレムを愛した。エルサレムは、彼等の愛国の目標であった。
預言者は、全て熱烈にエルサレムを愛した。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル等の四大預言者は、殊にそうである。彼等に取り、イスラエルと言えばエルサレムであった。単に中央集権と言っただけでは足りない。中央生命である。
エルサレムはイスラエルの目の瞳であった。神の聖殿の所在地であった。「エホバは其聖殿に在(い)ます」と言って、エルサレムはエホバがその民の間に宿られる時の、地上で最も聖(きよ)い一点であった。
◎ イスラエルがどれほどエルサレムを愛したか。その情熱を歌ったものが、詩篇第137篇である。多分世界文学の中で、愛国の至情を述べた言葉で、これよりも痛切なものはあるまい。
エルサレムよ、若(も)し我れ汝を忘れなば
我が右の手に其巧(たくみ)を忘れしめよ。
若(も)し我れ汝を思ひ出ず
我れ汝を我が凡(すべ)ての歓喜(よろこび)の
極(きわみ)となさずば
我が舌を我が顎(あご)につかしめよ。
そしてこの情が福音化されてキリスト信者の讃美歌となって現れたものが、「噫(ああ)母なるエルサレムよ」の一篇である。
O mother dear Jerusalem,
When shall I come to thee?
When shall I my sorrows have an end,
Thy joys when shall I see?
噫(ああ)懐(なつ)かしき母エルサレムよ、
何時(いつ)我れ汝に到るを得ん。
何時我が悲しみに別れを告げて、
汝の供(そな)ふる喜びを見ん。
イスラエル人が慕ったエルサレムが、キリスト信者の望む天国の型(かた)と成った。「我れ聖(きよ)き城(まち)なるエルサレムの備(そなえ)整(ととの)ひて神の所を出て天より降るを見たり云々」の言葉がそれである。
預言者が慕ったエルサレム、イエスが愛して涙をそそがれたエルサレム、キリスト信者が待ち望むエルサレム、古今東西を通して人類の希望を繋ぐエルサレムである。イエスはエルサレムを愛して、国を愛し、また世界を愛されたのである。
◎ 「
噫(ああ)エルサレムよエルサレムよ、預言者を殺し、汝に遣(つかわ)さるゝ者を石にて撃つ者よ」と言う(37節)。
聖(きよ)い城(まち)は盗賊の巣となった。神の城(まち)は悪魔に占領された。神殿(みや)はあり、祭儀(まつり)は行われ、祭司と民の長老等は教えを説くが、エホバの神は聖山を去られて、今や遺(のこ)されたその一子をさえ殺そうとしている。
これを見て、イエスは泣くまいと思っても、泣かずにはいられなかった。
悲劇は、危機に臨んでも危機を覚らない事である。神殿があり、礼拝があり、教職があり、神学があるので、神の恩寵は絶えず、信者は安全であると思う事である。
祭司の目に栄光が輝いた時に、イエス御一人の御目には滅亡が鮮やかに映った。涙は衆人(ひとびと)と共に流す時はそれほど辛(つら)くないが、一人で流す時は耐え難く辛い。
滅亡は確かに目前に横たわる。ところが宗教家は政治家に和して言う、「安し安し」と。その中に在って独り神の子は胸を打って叫ばれる、「噫エルサレムよ、エルサレムよ」と。
天下の憂いに先んじて憂えるぐらいではない。天下が憂えないのに、その前に泣くのである。都の人は彼を見て嘲ったであろう。「泣き虫よ」と。
かつて私の愛国心が今よりも遥かに熱烈だった時に、故大隈重信侯が私を評して言ったとの事である、「内村という奴(やつ)は多分御膳(ごぜん)に茶をかける代わりに涙をかけて食うのであろう」と。
そして今から20年前の私の涙でさえそのように嘲られたのであるから、イエスの聖(きよ)い御涙が、当時のエルサレムの政治家たちに、どれほど誹(そし)られ笑われたかが推量される。
民は楽天家を愛して悲観者を嫌う。イエスは預言者エレミヤの後を受けて、エルサレムの滅亡を預言された。これが、彼が十字架に釘(つ)けられる主な原因となった。そして二人の場合において、滅亡は排斥の後に来た。
◎ 「
母鶏(めんどり)の雛(ひな)を翼の下に集むる如く我れ汝の赤子を集めんとせしこと幾次(いくたび)ぞや。然れども汝等は欲せざりき」。 イエスは他の所で言われた、「
我と共に集めざる者は散らす也」と(マタイ伝12章30節)。
イエスと共に集まってのみ、本当の結合があり、結合に伴う救いがある。イエスが民をその翼の下に集めようとされるその目的はここに在る。
故に彼は幾たびかエルサレムに上り(ヨハネ伝がこの事を記す)、その民を御翼の下に集めようとした。集めようと
思って努力された。けれども彼等は
欲しなかった(原語は特にehthelehsa ehthelehsate を用いる)。主は欲された。民は欲しなかった。
両者の意志に根本的な相違があった。故に主の努力は無効に帰して、民は往くべき所に往った。イエスは救おうとし、民は救われようと思わなかった。それは、見る目が違ったからである。
イエスは信仰を以て見、民は肉眼で見たからである。是非もない次第である。けれども悲歎(かなしみ)の極みである。
◎ 「
視(み)よ汝等の家は荒地となりて遺(のこ)されん」。 「
汝等に遺されん」と読むべきである。
「家」とは、神殿、宮殿、市街全部を含む都城である。「視(み)よ汝等の家は汝等に遺されて荒地と成らん」と読むことが出来る。
「汝等に遺(のこ)さる」。 あなたたちの自由に任せられる。神はあなたたちがする事に干渉されないであろうと。実に恐ろしい宣告である。神に警(いまし)められ、鞭打たれる間は希望がある。
しかしながら、神に見放され、自分が思うままにするように放任されて、私は滅亡に定められたのである。そのような場合において、地が荒地となるのは、自然の成行きである。
その場合に、神が特別に罪を罰されるのではない。彼が聖手(みて)を引かれた結果として、荒廃が自ずから臨むのである。
「汝等の家は汝等に遺(のこ)されん」と。罪人は言うであろう、「誠に結構である。私は私の思う通りにしよう」と。そしてその道が滅亡である。神を求めず、神を退ける国が亡び、家が傾き、身が亡びるのは、このためである。
◎ 39節。 主が最後に都に上られた時に、群衆は弟子たちと共に叫んで言った、「
ダビデの裔(こ)よホザナ、主の名に託(よ)りて来る者は福(さいわい)なり」と(21章9節)。
そして祭司、学者、民の長老等は、イエスに対するこの歓迎を嫌い、何とかしてこれを打ち消そうと計った。彼等は正当な王を拒否しつつある。このために覆滅が彼等の上に臨もうとしている。
しかしながら、彼等がイエスを歓迎することを余儀なくされる時が来るであろう。彼等もまた、群衆と共に彼に対して「主の名に託(よ)りて来る者は福なり」と言わざるを得ない時が来るであろう。
それは何時(いつ)であるか。
主の再臨の時である。その時、彼を十字架に釘(つ)けた者までが、彼を崇めざるを得なくなるに至るであろう。黙示録1章7節に言っている通りである。
彼は雲に乗りて来る。衆(すべて)の目彼を見ん。彼を刺したる
者も之を見るべし。且(かつ)地の諸族之が為に哀哭(なげか)ん。
イエスは敗北の後に勝利を期された。そして彼の再臨は、審判の時ではなく、赦免の時であるであろう。エルサレムの滅亡は、復興となって現れるであろう。
「地の諸族之が為に哀哭(なげか)ん」とあって、彼等は再臨のイエスを拝して、自分の罪を悔いて、彼を栄光の主として御迎えするであろう。恩恵の主は滅亡の黒雲の彼方(かなた)に悔改復興の光を認められた。
◎ イエスは情の人であって、熱烈な愛国者であられた。彼は神の子であっても、冷静な審判人(さばきびと)ではなかった。彼は全ての偉人を代表して泣くことを、恥とされなかった。
「既にエルサレムに近づける時、イエス城中を見て、之が為に哭(な)き、言ひけるは云々」とルカ伝19章41節以下は記す。
人生には、言葉ではとうてい言い表せない悲歎がある。その時に、涙がこれを言い表すのである。禽獣に涙はない。涙は言語と共に人の特有である。涙のない人は、人ではない。
イエスは泣かれたと言って、彼は女々しい人であったと言うのではない。人らしい人であったと言うのである。そして勇者の涙ほど人生に貴いものはない。
◎ イエスは人類の救主である。故に彼の愛は抱世界的であって、これは彼を生んだ国に限られるべきものではない。自国に対して厚くて、他国に対して薄いようなことは、人類の王たるべき者が取るべき態度ではないと言う者がいる。
しかし、事実はそうではなかった。イエスは特にイスラエルとその民を愛された。
イエス十二人を遣はさんとして命じ曰ひけるは、異邦の途に
往く勿(なか)れ。惟(ただ)イスラエルの家の迷へる羊に往け。
往きて天国近きに在りと宣伝へよ。
(マタイ伝10章5〜7節)
と。この言葉に表れたイエスは、確かに自国に対して厚く、他国に対して薄かった。彼はイスラエル人として、特にイスラエルを愛された。そしてその情がほとばしり出たものが、「噫(ああ)エルサレムよエルサレムよ」という呻(うめ)きである。
愛国は人の至情である。これがあるから、人は人であるのである。人の愛国心は、少しも彼の人類愛を減じない。その反対に、人類愛に燃えた人は全て、愛国心に強い人であった。イエスはエルサレムに注いだ愛を以て、万国の民を愛されたのである。
◎ 見よ、強くイタリアを愛したダンテが、人類愛の模型であったことを。同じことをミルトンやクロムウェル等についても言うことが出来る。
日本の今日の博士、学生のように、愛国心がほとんど消滅した人たちから、愛という愛を、そのどのような形においても望むことは出来ない。
(5月31日)
(以下次回に続く)