全集第29巻P219〜
近代人の愛とキリスト信者の愛
大正14年(1925年)5月10日
「聖書之研究」298号
◎ 面白い者は近代人である。私は大きな興味を以て、彼等の常性と思想とを研究する。これはもちろん、決して気持ちの好い研究ではない。
しかしながら研究は研究であって、これに興味の伴わないものはない。あたかも天然物の研究に興味があるのと同然である。冷静に近代人を研究して、学ぶところが甚だ多い。
◎ 殊に面白いのは、近代人の愛の観念である。彼等もキリスト信者を真似て、愛を高調する。けれどもその愛は、最も不思議なものである。
第一に近代人の愛は、愛する事ではなくて、愛される事である。故に彼等に愛を説けば、彼等は言う、「実にその通りである。
そのように私を愛せよ」と。そして愛されないと彼らは怒る。彼等は、愛は愛する事(active)であって、愛される事(passive)でない事を知らない。
しかし、彼等がそう思うのは当然である。
近代人とは他でもない。大いなる駄々っ子である。彼等は馴致(じゅんち)されていない野生馬のような者である。彼等は人間に義務と称する大きな束縛があるのを知らない。
キリスト信者の見るところによれば、
愛は最大最上の義務である。しかしながら近代人にとっては、「義務としての愛」などは、自己矛盾の絶頂である。そのようなわけで、キリスト信者は近代人を解せず、近代人はキリスト信者を解しないのである。
◎ キリスト信者の愛は、本来
神に対する愛である。先ず神を愛して、その後に人を愛するのである。近代人の愛は、全くこれと異なる。近代人は神と称するような第三者を経ずに、直ちに人を愛しようとする。いわゆる「直接行動」である。
ある愛すべき人に対して、「私はあなたを愛する」と言う。故に彼等の愛は熱烈であって、遠慮がない。これに義務もなければ、責任もない。「愛はそれ自体の法則に従う」と彼等は言う。彼等にとり、正しい愛と正しくない愛との差別はない。
近代人にとっては、愛とは愛する者を愛する愛であって、これは絶対的に自由である。愛を抑えるとか、ある他の要求によって愛を支配されるというような事は、彼等にとっては罪悪であり、偽善である。
何者の支配をも受けない愛、彼等はこれを称して、「純愛」と言う。これは実に前代未聞の愛であって、近代人は反(かえ)って、それが新しいことを誇るのである。
◎ 殊に注意すべきは、
近代人の愛は、婦人に対する愛である事である。彼等の愛は、神に対する愛でないのはもちろん、国に対し、人類に対し、国家に対する愛でない。一言でこれを言えば、
近代人の愛は、恋愛である。
これは人間独特の愛ではなくて、鳥にも獣にもある愛である。そして近代人は、この愛即ち恋愛を至上善と見なすのである。故に彼等はソクラテスのように、正義を愛する愛で燃えない。またダンテやミルトンのように、国を愛する愛で熱しない。
近代人は全て他の事については至って冷淡であって、
ただ恋愛の事にのみ熱心である。正義が蹂躙されても怒らず、国家が滅亡に瀕(ひん)しても悲しまず、師友が辱められても敢えて憤りを発しない。
けれども
彼等の恋愛が妨げられるなら、彼等の憤怒は火山のように破裂する。彼等は恋愛のためには、万事万物を犠牲にして惜しまない。彼等は自分が愛する婦人のためにする事を人生最大の美事であると信じる。
愛国者は国のために死に、哲学者は真理のために死に、キリスト信者は信仰のために死ぬ。そして近代人は自分が愛する婦人のために、あるいは彼女と共に、死んで人生の目的を果たしたと信じる。
そして近代人の特徴は、国と哲学と宗教とを挙げて、これを恋愛の弁護、立証、奨励の用に供する。彼等の人生観には、少しも自己矛盾はない。彼等の哲学は終始一貫している。「我が意中の婦人」、彼女に満足を与えるのが、人生の目的であると彼等は主張する。
◎
さらにまた不思議なのは、近代人の愛が、男子の婦人に対する愛であって、必ずしも婦人の男子に対する愛でない事である。普通の愛は相互的であるが、近代人の愛は片務的である。
近代人の内に在っては、婦人は男子から絶対的な愛を要求するが、男子は婦人から、そのような愛を要求しない。
婦人は男子に向かって言う、「あなたは私が他の男子を愛しても、喜んでその愛を許すほどに、深く、純粋に私を愛さなければならない。私があなたを愛するので、あなたは私を愛すると言うのは、純粋無我の愛ではない。愛されなくても愛する。これが真実の愛である。あなたは私に対し、この純粋無垢で無我の愛を抱かなければならない」と。
そして男子はこれを聞いて、そうだと答えるのである。そしてそのような愛を婦人に供して、絶対無我の境地に入ったと信じて、無上の満足を覚えるのである。昔の婦人道徳の正反対である。
昔は男子が放蕩して、女子が喜んでこれに耐えたのであるが、今は女子が乱倫して、男子が喜んでこれに服従するのである。
近代人の内に在っては、女子が男子を捨てるのは罪悪でなくて、男子が女子を捨てるのは最大の罪悪である。女子は自由気ままであっても良いが、男子は永久に忍耐しなければならない。実に預言者エレミヤが預言した時代が来たのである。いわく、
反(そむ)ける女よ、汝いつまで流蕩(さまよ)ふや。エホバ新しき事を
創造(つく)らん。女は男を抱(いだ)くべし。
(エレミヤ記31章22節)
「女は男を抱くべし」、包囲するであろう。捕虜にして、自分の自由にするであろうと。実に不思議な時代である。そして今がその時代である。
男子が神に背いた結果として、女子に捉えられたのである。
何よりも奴隷を嫌う近代人は、女の奴隷と成ったのである。まことに彼等が受けるべき適当な刑罰である。
「エホバ新しき事を創造(つく)らん」とあって、これは絶対的新現象である。未(いま)だかつて無かった事である。エホバが創(はじめ)られたとある。彼がそうある事を許されたという意味である。アモス書3章6節に、「
邑(まち)に災禍(わざわい)の起るは、エホバの之を降し給ふならずや」と言うのと同じである。
◎ 以上は近代人の愛である。けれどもキリスト信者の愛は、全くこれと異なる。
第一にキリスト信者の愛は、義務であって、情でない。「
我れ新しき訓誡(いましめ)を汝等に与ふ。汝等互いに相愛すべしとの訓誡是なり」と主が教えられた通りである。
信者にとっては、愛は神の訓誡(いましめ)即ち命令である。これに従うのは彼の義務である。もちろん父の命令なので、従うのは難しくないけれども、義務は依然として義務である。
故に信者は、愛すべき者を愛するに止まらず、愛の対象となり得ない者をも愛するのである。真の愛は愛を以て報いられることを願わない。聖父(ちち)の命を守って愛するのが義務であり、名誉であり、歓喜である。
止むに止まれぬ愛と称して、情に駆られて愛するのではない。愛する道理を示されて、愛する気分がないにもかかわらず、愛するのである。故にキリスト信者は、自分で愛の目的物を選ばないのである。アダムがエバを与えられたように、信者は愛すべき者を神から与えられるのである。
リビングストンは、アフリカの黒人を与えられて、熱愛を以てこれを愛した。ロシア宣教師ニコライは日本人を与えられて、意中の愛人を捨て、日本にその一生を終った。近代人の愛とキリスト信者の愛は、そのように、その根本において相異なる。
◎
キリスト信者の愛は、近代人のそれと異なり、間接的であって、直接的でない。信者は「我は汝を愛す」と言って、相互に愛さないのである。
彼は先ず神を愛する。
キリストに在って神を愛する。そして
キリストに在って相互を愛する。神につながるのにキリストを通し、人につながるのもキリストを通すのである。
故に近代人の愛のように熾烈(しれつ)ではないけれども、堅固で深遠である。私はキリストを愛し、彼もまたキリストを愛して、その愛を以て互いに相結ぶ、それが信者の愛である。故に愛の継続について、信者にとって何よりも必要なのは祈祷である。
夫婦相共に祈り、親子相共に祈る。一家団欒(だんらん)は、キリストを中心として、祈祷を以て成立し、また継続される。若い男女は祈祷を以て婚約し、祈祷を以て結婚し、祈祷を以て偕老(かいろう)の契(ちぎ)りを全うする。
そしてキリストを通しての間接的な愛なので、冷たい、律法的な愛であろうと人は思うであろうが、決してそうではない。愛に伴う全ての幸福は、そのようにして得られるのである。
人は「蜜のような愛」を語るけれども、永久であって蜜よりも甘い愛は、キリストに在ってのみ得られるのである。直接的でなくて間接的である点において、キリスト信者の愛は、近代人のそれと全く違うのである。
◎ 第三に、信者の愛は言うまでもなく相対的である。男は男として女を愛し、女は女として男を愛する。そして男は女の首(かしら)であるので、指導発意の任は男に在って女にない。
女は男に従わなければならないと言うのは、これは神が定められた順序であって、人が定めた法則ではない。従うべき者に従うのは名誉であり、特権である。そして男は神聖な服従として女のそれを受け、これに信頼と誠実とで報いる。
サラがアブラハムに、彼女のバール(主人)として仕えたのは、決して彼女の恥辱でない。これは彼女の為すべき事であって、彼女はこれによって神に恵まれ、彼女の夫と共に、聖(きよ)い契約の祝福に与ったのである。
真の夫婦関係において、夫は妻から愛を要求する必要はなく、妻もまた夫に愛を迫る必要はない。もしそのような必要が起こる場合には、夫婦は相互に各自のキリストに対する愛を要求すべきである。
夫婦の愛情が冷える場合には、しばらく相離れて祈祷に従事し、各自キリストと接近して再び相会する時に、愛は潔(きよ)められ、また強められて、前よりもさらに楽しいホームの実現を見るのである。コリント前書7章5節を読むべきである。
◎ 結論を言えば、
愛に必要なのは尊敬である。近代人の愛は、尊敬の無い愛である。故に熱いように見えるが基礎がないので破れやすいのである。
男女は夫婦である以上に、敬友でなければならない。相互の内に何か尊ぶべき、敬うべきものを発見するまでは、結婚しない方が良い。愛情は強いようで実は脆(もろ)いものである。尊敬に根ざすのでなければ、愛は真の愛であり得ない。
相互尊敬は愛の礎である。相互の内に何かノーブルな、男らしいまたは女らしい所を発見して、愛は情のゆえに崩れないのである。
近代人にこの厳粛味が無いので、その愛は単に楽しみのための愛であって、奉仕、献身の愛でないのである。その意味において、昔の日本武士の家庭は、近代人のそれよりも遥かに健全であり、幸福であった。
ただ幸福だけを愛の標準と認める近代人の愛は、実に下等な愛である。愛する者のために自己を捨てる。
神のため、国のため、義務のために愛そのものをさえ犠牲に供する事、それが本当の愛である。
完