全集第29巻P333〜
堕落の教義
ロマ書7章15節以下、イザヤ書1章2〜6節、エレミヤ記13章23節
エゼキエル書16章3節
大正14年(1925年)12月20日
「聖書之研究」305号
◎ キリスト教に堕落の教義というものがある。それは、人類は根本的に堕落した者であって、自分で自分を救う能力(ちから)を有(も)たない者であると言うことである。即ち人類の状態は
常態ではなくて、
変態である。
外部の状態はどれほど発達してもその内部においては、癒しようのない腐敗がある。人類の進化はその極に達しても、その進化は根本的なものでない。
人は生まれながらにして悪人である。自己中心の動物である。白く塗った墓であって、外は美しく見えるが内は骸骨と諸々の穢れで満ちていると言うのが彼の本当の状態である。
◎ 人類をこのように見ることを、人類全体殊に近代人が喜ばないのは言うまでもない。彼等は人類を尊い者として見たいと思う。生物進化の最後の産物であって、さらに無限の進化を遂げる能力を有する者であると信じる。
彼等はキリスト教の人類堕落の教義を、人類を最も甚だしく侮辱するものであると唱える。彼等といえども人類の欠点は認めざるを得ないけれども、これは進化の途中にある人類に当然あるべき現象であって、進化の上進と共に自(おの)ずから除かれるべきものと信じる。
近代人はキリスト教の原罪の教義は、既に廃(すた)れた教義として、これを顧みず、その代わりに人類の無限進化説を唱え、それによって自己を慰め、進歩を奨励しようとする。
◎ けれども、聖書が近代人とその人生観を異にするのは一目瞭然である。
聖書の人生観は明らかに悲観的である。そして聖書に忠実なキリスト信者は、世に受け入れられようとして、人類に係わる楽観説を唱えない。
聖書は全巻を通して、人類の堕落を高唱する。この事を第一に表示するものは、創世記第三章の人類の始祖堕落に関する記事である。
しかし堕落の教義は、この記事によって起こったものではない。この記事はその一つであって、堕落の教義は創世記の記事がなくても起こるべきものである。有名なエレミヤ記13章23節の言葉などは、明らかに堕落を示すものである。
エチオピア人その膚(はだえ)を変へ得る乎(か)。豹(ひょう)その斑駁
(まだら)を変へ得る乎(か)。若(も)し之を為し得ば、悪に慣れたる汝
等も善を為し得べし。
と。これよりも強く善行不可能説を唱えた言葉はない。悪を為すのに慣れた人間が善を為すのは、アフリカ人がその皮膚を白くし、また豹がその斑点を除くのと同様に難しい。即ち不可能であるとのことである。
預言者エゼキエルが、当時のユダヤ人を罵った言葉がある、
汝の起本(おこり)、汝の誕生(うまれ)はカナンの地なり。汝の父はアモ
リ人、汝の母はヘテ人なり。
(エゼキエル書16章3節)
と。即ち神の選民と称せられるユダヤ人も、その生まれつきの性はどうかと尋ねれば、その起こりは異邦のカナン、その父は異教のアモリ人、その母は同じくヘテ人であるとの事である。
イエスもまた彼御在世当時の国人を呼ぶのに、「蝮の末」という過激な言葉を使われた。パウロは、自分は罪に売られた者であると公言して憚(はばか)らなかった。イザヤもまた、自分の国人を評して、「悪を為す者の裔(すえ)、足の裏より首(こうべ)まで全き所なし」と言った。
その他、人類堕落に関する聖書の言葉は、数限りない。人は生まれながらにして善い者であって、発達進化によって完全に達するとは、聖書のどこにも書いてない。
イエスは、「
汝等悪しき者ながら、善き物を其子に与ふるを知る」と言われて、人に多少の善心があることを認められたけれども、その本性が悪であることを、明白に示された。
人は悪人であり、神に背いた者、故に滅亡に定められた者であるとは、聖書全体の教えである。これを要約したものが、ロマ書3章10節以下においてパウロが引用した旧約聖書の言葉である。
義人なし一人も有ることなし。暁(さと)れる者なし、神を求むる者な
し。皆な曲りて邪(よこしま)と成れり。善を為す者なし。一人も有る
なし。その喉(のど)は破れし墓なり。その舌は詭詐(いつわり)を言ひ、
其唇には蝮の毒を蔵(かく)す。
其口は詛(のろ)ひと苦きとにて満ち、其足は血を流さん為に疾(はや)
し。残害(やぶれ)と苦難(わざわい)とは其途(みち)に遺れり。彼等は
平和の道を知らず、その目前(めのまえ)に神を畏るゝの懼(おそれ)あ
ることなし。
と。強い言葉である。そしてパウロは人類全体についてこう言って、少しも憚らなかったのである。
◎ そして人生の事実が、聖書のこの主張を証明して余りがある。人類全体の歴史が、流血の歴史である。それは、野蛮時代の歴史に限らない。文明人種の歴史もまた、それである。いや実に、文明が進歩すればするほど、流血が甚だしいのである。
わずか10年前に、人類が存在するようになってから未だかつて在ったことのない最も悲惨な戦争が闘われたのである。そして未だかつて在ったことのない残害苦難を見たのである。
「其足は血を流すに疾し」とは、イギリス人、アメリカ人、フランス人、ドイツ人、日本人に悉(ことごと)く当てはまる言葉である。
文明の進歩は、彼等の殺伐の性を少しも減じない。いや益々これを増進する。今日ほど武器が精巧な時はなかった。そして年と共に益々精巧に成りつつある。
そしてまた、戦争が止んだとは、誰も信じない。より大きな大戦争が、近い将来において起こるであろうとは、誰もが予期することである。
「其足は血を流すに疾し」。戦時ともなれば、牧師も伝道師も衆愚に雷同して、戦争を謳歌する。彼等は勝手に聖書の言葉を曲げて、軍旗を祝福し、敵国を呪詛する。その時には、福音も平和もあったものではない。
彼等の平和主張は常に戦争が終わった後に行われ、戦争の最中の彼等の主な事業は平和論者の呪詛である。私たちはこの事を世界戦争の最中に日本の牧師において見た。
そして米国に在っては、その事が日本よりも遥かに甚だしかった。アメリカの宗教家が敵国ドイツを呪う激烈さは、実に前代未聞であった。
そしてキリスト教の教師においてそうなのだから、その他は推して知るべしである。「其足は血を流すに疾し」。これが人類全体の特性であることは火を見るよりも明らかである。
その喉は破れし墓なり
その舌は詭詐(いつわり)を云ひ
その唇には蝮の毒を蔵(かく)す。
この事もまた充分に世界大戦争中に事実を以て証明された。
英米人が敵国に対して盛んに行った宣伝は、何であったか。今や宣伝とは一つの述語であって、「偽りの宣伝」を言う。無い事を有ると称して、これを宣伝する。それが今日のいわゆる「宣伝」である。
そして宣伝の術において最も巧みな者は、宗教のことにおいて最も進歩していると称せられる英米人である。殊に米国人である。
英米人がドイツに勝ったのは、勇気と戦術によってよりは、むしろ宣伝によってである。彼等は敵国に関する有る事、無い事を広く巧みに宣伝して、世界の同情を敵国から奪って、これを自己に収めたのである。
そして宣伝によってほとんどドイツとオーストリーを殺した米国は、同じくまた宣伝によって日本を傷つけた。米国人が排日に成功したのは、これまた宣伝によるのである。日本人に関する偽りを広く巧みに宣伝して、彼ら米国人はその友邦日本に永久の傷を負わせたのである。
宣伝といえば無害のように聞こえるが、偽りの伝播は蝮の毒の注射と言うから、その害毒の程度が推量される。
◎ 最も進歩した国民と称せられる英米人がそれであるのを知って、人類全体がまことに蝮の裔(すえ)である事が分かる。
もちろん世には、比較的に善い国と人とが無くはない。しかしそれは単に比較的であり、絶対的ではない。そしてこの事に就て、国家、人類、他人の事を論究する必要はない。自分を顧みれば良く分かる。
自分は罪の人でないか。何故に自分には善を為すことが難しくて、悪を為すことが易しいのか。何故に多くの場合において、簡単な善事さえも為し得ないのか。何故に小さな事について怒るのか。何故に他人の小さな過ちを厳しく責めて、自分の大きな過ちを寛大に赦すのか。
悪い友には親しみやすく、良い友には近づき難いのか。悪い癖には染まりやすく、善い習慣は作り難いのか。自分自身を深く研究してみて、自分は罪に売られた滅亡(ほろび)の子であることが明白に分かるではないか。
◎ このようにして聖書と人生の事実とは、人類全体が全く堕落していることを示す。それでは私たちは、失望すべきか。実に、もし人以外に頼むべき者がいないならば、失望は当然である。
人は自分で自分を救うことは出来ない。もちろん人は、国家または人類を救うことは出来ない。大政治家が出て、国家を救った例があると言うが、これまた比較的または暫時的な事であって、決して絶対的または永久的な事ではない。
たとえ暫時的であるとは言え救ったとしても、彼は自分で救ったのではない。自分以外のある力に頼んでである。クロムウェルやワシントンと言うような大政治家は、みなよくこの事を知った。
私は我が国を救ったと言うような政治家は、碌(ろく)な政治家ではない。大政治家は全て、自己を知った人であった。即ち、自分は価値なき者であった、ある他の力が、自分を使って大きな事を為さしめたのであると信じる者であった。
そしてこれは、決して彼等の偽りの謙遜ではない。堅い真の確信である。大政治家の伝記を読んで、この事に気付かない者は歴史を読む目を有(も)たない者である。
◎ 人は国家人類はもちろんのこと、自分をさえ救うことは出来ない。それでは絶望すべきか。
神がおられる。罪人をさえ愛して下さる神がおられる。神は人のためにではなく、御自身のために堕落した人類を救って下さる。この事もまた、聖書が明らかに示している。
主エホバ斯(か)く言ひ給ふ、イスラエルの家よ、我れ汝等の為に之を
為すに非ず。汝等がその至れる国々に於て汚せし我が聖(きよ)き名の
為に為すなり。……我れ清き水を汝等に注ぎて汝等を清くならしめ云
々 (エゼキエル書36章22節以下)。
とある。イスラエル人に救われるべき資格があるので彼等が救われるのではない。その反対に、彼等が至る所で汚した主エホバの聖名(みな)の故に、即ち愛を以て憎しみに報われるエホバ神の故に、彼等は救われるであろうとの事である。
神は恩を以て怨に報いるために、背いた民を救われるとの事である。そして聖書の至る所に、同じ事が言われている。
懼るゝ勿(なか)れ我れ汝と共に在り
驚く勿れ我れは汝の神なり
我れ汝を強くせん、汝を助けん
我が義(ただ)しき右手汝を支えん
(イザヤ書41章10節)
とある。「我れ」である。全ての善い事は「我れ」エホバから出ると言うのである
「エホバの熱心之を為し給ふべし」とある(同9章7節)。人の神に対する熱心ではない。神の人に対する熱心によって善事は行われるであろうと言うのである。
「一切(すべて)のもの神より出づ」とパウロが言ったのは、この事である(コリント後書5章18節)。
一切のもの神より出づ、彼れキリストに由り我等をして己と和(やわら)
がしめ云々
とある。私達の方から進んで神と和らぐのではない。和らぎたくても和らぐ事が出来ない。また和らぎの心も起こらない。
彼キリストによって私たちを御自分と和らがせられるのである。
キリスト教が提供する救いは、そのようにして成るものである。救いの動機も神から出、その方法も神による。「神キリストに由りて」である。人を除いての救いである。神から出、神により、神に終る救いである。
◎ 以上は救いに関わる聖書の示しであって、また信者の実験である。自分が何であるかを明らかに示された後に、神の救いに与った者は、誰でもその救いが自分に因るのではなくて、全く神の恩恵に因ることを知るのである。
善なる者は我れ、即ち我肉に在(あ)らざるを知る。
噫(ああ)我れ悩める人なる哉(かな)。此(こ)の死の体より我を救はん
者は誰ぞや。
是れ我等の主イエス・キリストなるが故に神に感謝す。
これはパウロの実験であって、全ての信者の実験である。
先ず第一に自分の堕落を示され(善なる者我に在らず)、第二に悲惨な状態に在る事を自覚し(噫(ああ)我れ悩める人なる哉(かな))、第三に上からの恩恵によって救われた事を感謝する。これを称して、「救いの三段階」と言うべきであろう。
アウグスティヌスも、ルーテルも、クロムウェルも、真の信者は全て尽くこの階段を経過したのである。信者が救われて最後に発する言葉は、詩篇115篇1節のそれである。
エホバよ我等に帰する勿れ我等に帰する勿れ
栄光は之を唯汝にのみ帰し給へ
汝の憐憫(あわれみ)と信実(まこと)との故に由りて
と。私たちは信仰によって救われるのであるが、その信仰までが、神の賜物であることを知るのである。「
汝等の信ずるは、神の大なる能(ちから)の感動(はたらき)に由るなり」とエペソ書1章19節に言われている通りである。
◎ このようにして、
堕落の教義は救いの教義の基礎を作るのである。神がキリストによって施された救いが何であるかは、人類の堕落の事実を知らずには分からない。
神は愛なりと言っても、その愛の深さは、罪の深さを知らなければ推し量れない。「
キリストは我等の尚ほ罪人たりし時に我等の為に死たまへり。神は之に由りて其愛を彰(あら)はし給ふ」(ロマ書5章8節)とある通りである。
(10月25日)
完