全集第30巻P373〜
現代思想とキリスト教
昭和2年(1927年)7月10日
「聖書之研究」324号
その1 近代人のキリスト教
◎ 近頃私が切に感じることは、
キリスト教が米欧キリスト教国において絶えようとしていることである。
彼等の間に、「私たちは今日なおキリスト信者であり得るか」という問題が討議される。50年前に彼等が送った宣教師が私たちに伝えた事を、彼等は今は全く信じない。
私たちを異端と呼んだ宣教師が、今や私たち以上の異端を唱えて憚らない。彼等がキリストの福音として唱えたものを、今や彼等の間に見ることが出来ない。
私たちが正直に彼等の説教に耳を傾け、これを解し得たと思う頃には、彼等は既にこれを捨て、「他の福音」に移ったのである。実に不真実極まる彼等である。
私たちにある事を信じさせて、彼等は今はこれを捨て、彼等が教えたように信じる私たちを、彼等は今はビゴット即ち頑迷偏執(がんめいへんしつ)の徒と呼んで嘲るのである。
その点から見て、彼等米欧のキリスト信者、また彼等によって送られる宣教師を排斥する十分な理由がある。
◎ 彼等は第一に聖書を神の言(ことば)として私たちに伝えた。聖書は世界第一の書、これに真の生命があり、これ以外には生命はないと伝えた。私たちは正直にその言葉を受けた。そして彼等の言葉が真理であることを知ることが出来て喜んだ。
そして私たちのある者は、多くの犠牲を払って聖書の研究を一生の事業として、これを以て自分と同胞とを救おうと努力した。
ところが教会と宣教師とは、今や聖書に対してどのような態度を取りつつあるか。彼等は聖書研究を信仰第一の要件と見なさない。彼等のキリスト教なるものは、聖書を離れたキリスト教である。
たまたま彼等の間に聖書学者がいるとすれば、その人は面白半分に聖書を研究する者であって、これによって自分の霊魂を救い、生命に飢えた世界を活かそうという真剣な努力をはらって研究する者でない。
「
汝等聖書に永生ありと思ひて探索(しら)ぶ。この聖書は我に就いて証する者なり」(ヨハネ伝5章39節)と主は言われたけれども、今日の教会信者は、真剣に聖書を調べず、またその内に神の子を発見しようとしない。
今日の宣教師、彼等に使われる牧師・伝道師たちが主として読むものは、聖書でない。心理学書である。社会学書である。
彼等は参考書として聖書の所々を読むに過ぎない。
聖書全体を貫徹する主義精神を握って、これによって万物を説明し、万事を行おうとしない。今日のキリスト信者大多数にとっては、聖書は本文ではなくて注釈である。
彼等にとって聖書は、一つの人生の見方に過ぎない。しかも古い異邦人の見方であって、現代の人たちにとっては、価値の至って少ないものである。
そして聖書に対してそのような態度を取るので、彼等は聖書を尊信する信者を賎しめて止まない。彼等はそのような信者を「聖書信者」と呼ぶ。聖書を多食して、公平な判断力を失った者であると言う。
殊に
彼等は聖書の終末観を嘲る。彼等が何よりも誹(そし)るのは、主の再臨の信仰である。聖書にはこの事を教えている箇所が沢山あるが、その事は彼等の心を動かさない。彼等は公然とキリスト再臨の信仰を嘲り笑う。
◎ 私が第二に怪しいとするのは、今日の信者、殊に宣教師の間に、
キリストの神性が討議されないことである。
キリストの神性は、キリスト教の第一問題である。これは決して閑問題ではない。もしキリストがただの人であるならば、キリスト教の根本が崩れるのである。
キリストは神の子である、崇拝すべき神であるとは、千九百年来キリスト信者全体が、維持してきた信仰である。そしてこれは単に教会が奉戴(ほうたい)している教義でない。深い道徳上の真理を包蔵する信仰箇条である。
もしキリストが神でないならば、罪の赦しがないのである。したがって真の自由はなく、人類進歩の本源が絶たれるのである。
ヨハネ伝8章36節に、「
子もし汝等に自由を賜(あたえ)なば、汝等誠に自由を得べし」とあるその言葉は、実に深い意味の言葉であって、キリストが神であることは、この真理を証明するために必要不可欠な事実である。
キリストの神性をなおざりにすれば、キリスト教の能力の根本が失せるのである。論より証拠である。
今日の教会に人を活かす実力なく、今日の日本に千人以上の宣教師が布教しているにも関わらず、彼等の精神的運動に何も見るべきものがないのは、彼等の信仰がその根本において誤っていることを示しているではないか。
◎
今日のキリスト教会は、全く進化論に降参したのである。今から70年前にダーウィン、ワルラス等によって進化論が唱道されると、教会はこぞってこれに反対した。
ところが今日ではどうかと言うと、教会は進化論を採用して、これをその信仰箇条とするに至った。ダーウィンやハックスレーは、墓の下でこれを聞いて、さぞかし笑っていることであろう。
今や宣教師のある者は、公然と言って憚らない、「私は世界を人間の住家(すみか)に適する所にしたいと思う者である。
人間を作ろうと思う者ではない」と。
これは実に驚くべきステートメントである。
人間を作るのが宣教師の職務でないと言うのである。境遇を良くすれば、人は自ずから良くなると言うのである。これは極端な進化論である。
直接に天然について学ぶ学者は、そこまで極端に境遇の力を唱えないのである。
(2月13日)
その二 キリスト教はキリストである
◎ キリスト教はキリストである。キリスト教は必ずしもキリストを真似ることではない。また彼の戒めを守ることではない。キリスト教は彼御自身である。
彼は言われた、「
我は復活(よみがえり)なり、生命なり。我を信ずる者は、死ぬるとも生くべし」(ヨハネ伝11章25節)と。
即ち、生命にしてもキリストを離れて別にあるのではない。彼御自身が生命であるとの事である。正義その他の徳もまた同じである。この事に関する標準的章句とも称すべきものが、コリント前書1章30節におけるパウロの言葉である。
イエスは神に立られて、汝等の智慧(ちえ)また義また聖
また贖(あがない)となり給へり。
と。即ちイエス御自身が、信者の正義また聖(きよ)めまた贖(あがない)であられるとの事である。一見して不可解な言葉のように思われるが、しかし全て深くキリスト教を味わった者は、パウロのこの言葉が、キリスト教の真髄を穿(うが)ったものである事を知るのである。
キリスト教はキリストである、キリスト教道徳でもなく、キリスト教会でもなく、社会運動でもなく、キリストの名によって為されるいずれの事業でもなく、キリスト彼御自身であるというのが、キリスト教の根本的真理である。
◎ エペソ書に、「天の処」という文字が五回もつかわれている。ギリシャ語のタ エプラニア 英語の heavenly places である。その1章3節に言う、
彼れキリストに在りて諸(すべて)の霊の恵みを以て天の処
にて我等を已(すで)に恵みたり。
と。その他同章20節、3章10節等を見よ。そして「天の処」とは、天国または上の国という事ではない。霊の世界という事である。これはこの世とは、全く別の世界である。
しかも後に来るべき世界、またはこの世を離れて在る世界でない。
今私たちの内にある世界である。この世に在るが、この世とは全く性質を異にする世界である。
そして信者は、信仰によって、この世からこの異なった世界、即ち「天の処」霊の世界に移された者である。
そしてこの異なった世界に在っては、正義も生命も、聖(きよ)めも、贖(あがない)も全てキリスト御自身である。その世界に在ってはもし信者特有の美徳があるとすれば、それはただ信仰だけである。
その他の全ての善いものはキリストであって、信者は彼の他は何物をも求めないのである。
◎ このようにしてキリスト信者は、キリストという霊の世界に住む者である。彼の義はキリスト、彼の聖(きよ)めはキリスト、彼の救いはキリスト、ここにはこの世の人たちの言う道徳も宗教もないのである。
彼が覚めて思い、寝て思う者はキリストである。彼があって信者は満ち足りるのである。ここに生命の水は絶えず流れ、希望の光は永遠に輝く。信者は今なおこの世に在りながら、この理想の世界に住む者である。
そしてこれは夢の世界ではない。最も確実な世界である。キリストと言う岩の上に築かれた世界である。
これを「天の処」と称して、最も相応しい。地の世界は動いても、この世界は動かず、地は汚れてもキリストという天の世界は汚れないのである。
◎ そして現代人は、この信仰から離れたのである。彼等はこの世界の他に、他の完全な世界すなわち「天の処」を有(も)たないのである。故にこの世界を化して天国にしようと焦(あせ)っているのである。
すなわち進化論者と成って、この世が進化発達して天国と成るのを待つのである。しかしながら、これは空しい希望である。原始人がバベルの塔を築いて天に達しようとしたのと同じ空想である。
それが混乱に終るのは、何よりも明白である。神はその聖子(みこ)を以て天国を築かれたのであって、私たちはただ感謝して、信仰によってこれを私たちの有(もの)とすれば良いのである。
問題は、天国は誰が築くべきものなのかということである。クリスチャンは、神が既にキリストを以て築かれたと言い、現代人はこれを築くのであると言う。二者の間に根本的な相違がある。
◎ それでは信者はこの世をその成るがままに放任して、その改善を計らないかと言えば、決してそうではない。信者は天の処に在りながら、地に宿るのであるから、天の光と生命と喜びとを、地に伝えざるを得ないのである。
故に真の信者が地に宿ること、その事が地の改良の最大勢力である。そして今日まで、この世を実質的に良くした者は、天の処に地ならざる生命を営んだ人々であった。
クロムウェルとか、ミルトンとか、リビングストンとかいう人は、この地本位の人ではなくて、国籍を天に置いた人である。故に地から何も望むことなしに、大いに地のために尽したのである。
現代人が地の改良を叫ぶだけであって、実際的に少しもこれを良くし得ないのは、彼等が地の属(もの)であって、彼等の霊魂が塵(ちり)につくからである。
◎ それだから、私たちは誰も、先ず霊においてキリストの国に移される必要がある。先ずキリストだけを以て満足する人とならなければならない。
この世または自分の身について多くの不満足があっても、一朝キリストを仰ぎ見る場合には、直ちに化して歓喜充実の人と成る。
現代教会は、単なる境遇改良論者と成った。彼等に深い平安と喜びがないのは、このためである。
(2月20日)
その三 活けるキリスト
◎ キリスト教はキリストである。そしてキリストは活きておられる。「
我れ生くれば汝等も生くべし」(ヨハネ伝14章19節)と彼は言われた。
信者は死んだ過去の人を信じるのではない。実際今生きて働いておられる主を信じるのである。聖書は明白にこの事を教える。この事を信じずに活ける信仰はない。合理か不合理かは別問題として、キリスト教の歴史は、この信仰の実現に他ならない。
ある人が言った事がある。「もしイエスを葬ったアリマテヤのヨセフの墓が空にならなかったならば、キリスト教は起こらなかったであろう」と。
即ち、キリストがもし復活されず、彼がもし単に道徳的感化力として後世に生きておられるならば、キリスト教と称する活ける宗教は起こらなかったであろうとの事である。
◎ キリスト信者の教主は活きておられる。これは他の宗教には無い事である。儒教信者の中に、孔子は今なお生きていると思う者はない。仏教信者は、釈迦の現存を認めない。彼は二千四百年の昔、既に涅槃(ねはん)の雲に隠れた人である。
モハメットもまた同じである。宗祖は全て過去の人であって、今はただその感化力によってその信者を導くに止まる。
ところがキリスト教に在っては、全く違う。キリスト教に在っては、教主は今なお生きていると信じる。信者はただ肉眼で彼を見ないだけであって、彼が生きておられる事は、千九百年の昔、彼がその弟子たちと共にガリラヤ湖畔においておられたように確実である。
いや実に、それ以上に確実である。キリストの復活、その昇天、その父の右に座しておられると言うのは、この事を言うのであって、これは単に教義ではない。信仰箇条ではない。確実な事実である。
◎ キリスト昇天以後の歴史が、明らかにこの事を示すのである。使徒行伝は、決して使徒の言行録でない。地を離れて天におられるキリストが、使徒たちによって、その聖旨(みこころ)を地に行われた、その事績の記録である。
彼はステパノに現れ、パウロに現れられた。彼は、使徒たちを聖旨(みこころ)のままに使われた。記者が眼中に留めた者は、ペテロでもなく、パウロでもなかった。彼は、これ等二大使徒の終焉(おわり)について記す必要がないと感じた。
ペテロ伝ではなく、パウロ伝でもない。
キリスト死後のキリスト伝である。そう見て使徒行伝の意味が分かる。この世の普通の人が見れば、この書は不完全極まるものである。
◎ 最後のヨハネの黙示録も、この立場から書かれた書である。「
天の内、地の上の凡(すべ)ての権を我に賜はれり……夫(そ)れ我は世の終末(おわり)まで、常に汝等と共に在るなり」とは、イエスが地上において語られた最後の言葉であると言う。
即ち彼は、世を去って、これと離れたのではない。天父から与えられた領土として、これを治められると言うのである。
使徒たちによって行われた伝道は、実はキリスト御自身が行われた伝道である。そして使徒たちが世を去った後でもなお、永久に生きておられるキリストは、世を主宰(つかさど)っておられると言う。その事を示したものが、黙示録である。
「
今在まし、後在ます者……死者の中より首(はじめ)に生れし者、天下の諸王の君イエス・キリストより云々」(1章4、5節)とある。
また言う、「
我は首先(いやさき)なり末後(いやはて)なり。我は生ける者なり。前(さき)に死しことあり。視(み)よ我は世々窮(かぎ)りなく生きん」と(同17、18節)。
そのような者が、どのように世界を裁かれるか、その事を新約の預言者ヨハネが明らかに示したものが、黙示録である。
キリストを生きている者として見なければ、黙示録もまた無意味である。同じ事を聖書全体について言うことが出来る。キリスト信者は、初めから今日に至るまで、生きているキリストの存在・活動を信じてきたのである。
◎ そしてこれは迷信でなく、また単に教会の
言伝えでないのである。これは信者の実験である。全て徹底的に信仰生活を送った信者は、固くこのように信じたのである。
人がキリスト信者になるのは、キリスト教の真理を理解したからではない。キリストに会い、彼を我が主として認めたからである。彼に見出され、捕らえられ、その僕として召されたからである。真のキリスト信者は、誰でも生きているキリストと直接の関係に入った者である。
その点において、アウグスティヌス、ルーテル、カルヴァン、ウェスレーに何の選ぶ所はない。キリスト教に在っては、改宗は単に
さとりでない。救主との直接個人関係の成立である。
もしキリストが今生きておられないならば、コンヴァージョンは無いのである。教理を覚っても、改宗でない。キリストに
お目にかかっての全生涯の変化である。
教理さえ分かれば、終に誰でもキリスト信者になり得ると思うのは、仏教その他の宗教の思想をキリスト教に移して言うのであって、大きな誤謬である。
◎ そして現代思想は、この事についてキリスト教の根本義を離れたのである。現代人は、歴史的イエスを探ろうと思って、今生きておられる彼を忘れたのである。彼等はソクラテスやシーザーを知るようにキリストを知ろうと努力している。
そして歴史的に探り当てたイエスは尊い者に相違ないけれども、今生きて世界を主宰されるキリストに比べて、甚だ力の弱い者である。真の信者は、歴史の研究を怠らないが、歴史に頼らずに実験に依るのである。
生きるキリストに接して、歴史によって信仰を強めるのである。キリストは今おられる。それ故に私たちは人生について失望しない。天地の権をその掌中に握っておられる者が、これを善い方に導かれつつあるのである。
(2月27日)
完