全集第31巻P7〜
イザヤ書の研究
昭和3年(1928年)1月10日〜6月10日
「聖書之研究」330号〜335号
その一 イザヤ書の紹介 1章1〜17節、40章1〜13節
◎ 今日からイザヤ書の研究を始めようと思う。イザヤ書は、聖書中最大の書である。その量においても最も大きい。
マタイ伝は28章、ロマ書は16章、黙示録は22章、旧約の創世記は50章、ヨブ記は42章、エレミヤ記は52章であるが、イザヤ書は66章であって、聖書の中で最も長い書である。その量において、聖書66巻の中で最も多く、共観三福音書を一つに合わせたほどのものである。
◎ そしてそれが教えていることは、その深刻な点において、あるいはロマ書に及ばないかも知れないが、その規模が広大なこと、その思想が荘厳なこと、その言葉が優美であることにおいて、とうてい他の書はイザヤ書に及ばない。
イザヤ書に親しまなければ、聖書の雄大優美を知ることは出来ない。
聖書は世界最大の書であって、イザヤ書は最大の聖書である。
もしロマ書が聖書の中心であるならば、イザヤ書はその本体である。旧約聖書はイザヤ書においてその絶頂に達し、新約聖書はその源をイザヤ書において発している。
イザヤ書を知らなければ聖書は解らない。旧約と新約とはその中にある。モーセの律法とキリストの福音とは、イザヤ書において合体する。イザヤ書は全聖書を縮めた書と見て間違いはない。
◎ 聖書は66巻より成り、イザヤ書は66章から成る。巻と章とがその数において一致するのは不思議である。その点において、イザヤ書は聖書の縮写であると言って間違いはない。
しかし、一致はここに止まらない。
イザヤ書は明白に前後の二編に区分される。初めの39章が前編であって、終りの27章が後編である。
そして前編の39章は旧約の39巻に当り、後編の27章は新約の27巻に当る。これまた不思議な一致である。その意味においてイザヤ書は聖書の縮図である。しかし、一致はこれ以上である。
イザヤ書の前編は人の神に対する義を教えて、律法の書である。後編は神の人に対する義即ち恩恵を伝えて、福音の書である。このようにして、イザヤ書そのものの中に、旧約聖書と新約聖書とがある。モーセの律法とキリストの福音とがある。
その意味においてもまた、イザヤ書は旧新両約聖書の縮写である。その構造において、その内容において、イザヤ書は小聖書である。
◎ 新約聖書の宗教であるキリスト教は、主としてイザヤ書によって起こった者である。イエスは旧約に精通されたが、特にイザヤ書を愛されたことは明らかである。
彼が「聖書」と言われた場合は、たいていはイザヤ書を指して言われたのである。例えばマタイ伝26章54節、マルコ伝14章49節において、
此(か)くあるべき事を録(しる)しゝ聖書に如何(いか)で応(かな)
はん乎(か)。
と彼が言われたのは、イザヤ書53章を指して言われたのである。即ちマタイ伝の26章45節に言われている「
人の子罪人の手に附(わた)されん」という事であって、これはイザヤ書53章に書かれている預言に応じるためであるという事である。
イエスがまた、彼が成長した所であるナザレに来て、ユダヤ人の会堂に入り、説明を試みられた聖書の言葉は、イザヤ書61章1節以下であった(ルカ伝4章16〜21節)。
その他新約聖書の中に引用されている旧約聖書の言葉の多数は、イザヤ書から出たものである。それによって、イザヤ書の感化が、イエスと使徒たちの上にどれほど深かったかを知ることが出来る。
イエスはイザヤ書の言葉の実行を、その一生の目的とされたのである。私たちはこの書において、イエスの理想を発見するのである。イザヤ書によって養われた彼は、福音書が示しているような生涯を送られたのである。
人なる彼は、私たちと異なることなく、ある理想をある書に得て、その実行を試みて、これを成就されたのである。そしてイエスの場合において、その書は主としてイザヤ書であった。殊にその後編であった。
太平記(
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98 )がなければ高山彦九郎(
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E )、蒲生君平(
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E5%90%9B%E5%B9%B3 )等の勤皇家がいなかったように、イザヤ書がなければ、イエスは無く、パウロも無かったのである。
人はその理想を知らずに知ることは出来ない。イザヤ書を知らずに主イエス・キリストを知ることは出来ない。
イエスが精神を込めて読まれたイザヤ書、後に神の受膏者(じゅこうしゃ)となる理想を供したイザヤ書、彼の生命の血であり肉であったイザヤ書、この書を解さなければイエスは解らない。
◎ キリスト信者が常に口にする聖書の言葉の多くは、イザヤ書の言葉である。
汝等の罪は緋(ひ)の如くなるも雪の如く白くなり、紅の如く赤く
とも羊の毛の如くならん。(1章18節)
エホバは諸(もろもろ)の国の間を裁き、多くの民を責め給はん。
斯くて彼等はその剣(つるぎ)を打かへて鋤(すき)となし、其鎗
(やり)を打かへて鎌となし、国は国に向ひて剣を挙げず、戦闘
(たたかい)の事を学ばざるべし。(2章4節)
聖なる哉(かな)聖なる哉万軍の主エホバ、その栄光は全地に充
つ。(6章3節)
今苦難(くるしみ)を受れども後には闇(やみ)なかるべし……
幽暗(くらき)を歩める民は、大なる光を見、死陰(しかげ)の地
に住める者の上に光照らせり。(9章1、2節)
(昭和2年10月2日、東京青山日本青年館大講堂において)
(以下次回に続く)