全集第31巻P50〜
(「イザヤ書の研究」No.15)
その15 エルサレムの婦人(上) 3章の梗概(こうがい)
◎ 社会は男と女とから成る。男が堕落して女が堕落しない例はない。女は「
より善い半分」であって、男は腐敗しても、女は純潔を維持して社会の堕落を阻止すると言うのは、主として米国人が唱えている事であるが、それは女を男よりも罪深い者と見る東洋人の見方と同じだけ間違っている。
男女同権であるように、男女同罪である。神は偏り見る者ではないのであって、神の言葉である聖書は、貴賤貧富に対するのと同様に、男女に対してもまた公平である。
女性崇拝は、男尊女卑と同じだけ反聖書的である。キリスト教は女性を高める者であると称して、これに一種の神聖を付与するに至ったのは、西洋文明の一大欠点と称せざるを得ない。
◎ イザヤは実際のユダとエルサレムに多くの欠陥を見た。エホバを離れた結果として、多くの不幸と災害が、彼等の上に臨んだ。
先ず第一に、彼等の間から人物が絶えた。真の軍人、真の政治家、真の判事、真の預言者など、およそ真の人が絶えた。
我れ童子(わらべ)を以て彼等の主(きみ)となし
嬰児(みどりご)に彼等を治めしめん
とあるように、柔弱低能の徒が、彼等の政治家と成って、彼等を滅亡の途(みち)へと誘う。その結果として、
民は互に相虐げ、隣人互に相圧し
幼者は長者を侮り
匹夫は貴人を辱かしむ
と言う。同胞相せめぎ、隣人相苦しめ、弟は兄に背き、弟子は師を売り、上下転倒して下は上を辱める。礼節は全く絶えて、社会には秩序が無い。
これは決して無い事ではない。イザヤの時代のエルサレムに在った事を、今日の東京において見る。かつて在った事を、今また見ると言えばそれまでであるが、これは容易ではない事態であると知って、私たちは寒心(かんしん)せざるを得ない。
◎ 心の状態は、外に現われざるを得ない。イスラエルの背信、腐敗、堕落は、これをその民の容貌において見ることが出来る。いわく、
彼等の顔色は其悪事を証す
彼等はソドムの如くに其罪を示して隠さず
と。預言者は、エルサレムの街を歩いて、彼が行き交う市民の顔に、その悪事を読んだであろう。その多欲、その陰険、その絶望、その悪徳、それらはいずれも、明らかにその容貌に現われていたであろう。
人相は決して偽らない。見る目を以てこれを見れば、その内に心を読むことが出来る。預言者は同時に人相見であって、見る者即ち人格の透視者であった。
もちろん私たちは、預言者を気取って、人の容貌によって妄(みだ)りに彼等を裁いてはならない。「
人は外の貌(かたち)を見、エホバは心を視るなり」(サムエル前書16章7節)とある。
けれども人の容貌が、ある程度までその人の心の状態を現わすのは、誤りない事実である。
◎
禍(わざわ)ひなる哉(かな)彼等は害を己に招けり。
汝等義人に就て言へ、彼に善事ありと。
禍(わざわ)ひなる哉悪人、彼に悪事来らん。
平凡なことわりのように見える。けれども深い真理である。神の光に照らされなければ知ることの出来ない真理である。
普通一般の人は思う、悪心は必ずしも悪事を招かない、善心は必ずしも善事を以て報いられない。人の心と境遇とは、比例するものではないと。
しかし預言者は神の旨を受けて言う、「そうではない。義人に善事あり、悪人に悪事来る」と。善事は幸福に関係ないものではない。経済は道徳宗教と離して論じるべき事ではない。徳は得である。人は神の旨に背いて害を自分に招くのである。
人生の実験は何人にもこの事を示す。それにも関わらず人は明白な義務を怠り、ただ才知によって幸福を獲得しようと計る。
運は運として求めても来ない。神を求め、その聖旨(みむね)を奉じれば来る。簡単であるが、深遠な真理である。
◎
又曰ふ(第12節)
あゝ我民よ、童子(わらべ)は彼等を虐(しいた)げ
婦人は彼等の上に権を揮(ふる)ふ
と。子を支配することが出来ず、子に支配される。男は女の首(かしら)であるのに、女は男の上に権を振るう。神を棄てた結果として万事が狂い、父は父でなくなり、子は子でなくなる。夫は夫でなくなり、妻は妻でなくなる。今日の社会がそれである。
親は子の暴虐に泣き、夫は妻の気まま勝手に悩む。米国で最も甚だしく、日本も米国の後に従いつつある。昔のユダとエルサレムにこの事があって、その国はついに亡びた。同じ原因は、同じ結果に終らざるを得ない。
◎ そして男の上に権を振るう女は、どのように裁かれるべきか。その事を示すのが、16節以下26節までである。実に著しい記事である。これによって預言者イザヤが、如何に鋭い眼で当時の社会を観察したかが分かる。
彼は単に人類の大事だけに心を寄せる人でなかった。家庭の細事にまで眼を注いで、そこに人生の機微に触れた。彼の当時の婦人の衣服装飾に関する知識に、驚くべきものがある。これが万国を裁く大預言者の観察であろうとは、どうしても思われない。
けれども彼の偉大さは細事にまで及んだ。彼が大偉人であったからである。
(2月12日)
(以下次回に続く)