全集第31巻P209〜
ホセア書の研究
昭和3年(1928年)8月10日・9月10日・10月10日
「聖書之研究」337・338・339号
その一 ホセア書の紹介 ホセア書2章16、17節、6章6節
◎ モーセに五書があり、福音書に五書があるように、預言書に五書がある。
福音書に五書があると言うのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの他に、使徒行伝を言う。使徒行伝はキリスト伝の続きであって、キリストが使徒たちを以て為された行跡(みわざ)の記録である。使徒行伝、一名これを「聖霊の福音」と言う。
預言書の五書は、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルの他に「十二預言書」である。普通これを四大預言者と十二小預言者と言うが、この名称は、甚だ人を誤らせ易くなる。
第一に預言者に大小の別はない。小預言者と称せられる者の内にあって、アモス、ホセアはどう見ても大預言者である。
第二に預言書はいずれも
預言集であって、一人の預言者が書き著(あらわ)したものではない。
例えば「イザヤ書」と言うのは、イザヤが著した書でないだけでなく、彼一人の預言を集めた書でもない。
イザヤ書は、イザヤ系統の多数の預言者の言葉を集めた書であって、これをイザヤ書と称するのは、彼がその中の主な預言者であるからである。
他の預言書についても同じ事を言い得る。そして十二預言書は、元は一書と見做されたものである。十二個の別々の書ではなくて、十二人の預言者の言葉を一書にまとめたものであった。
我が国の「先哲叢談」が、幾人かの先哲の伝を一書にまとめた書であるのと同様のものである。故にこれを称して「十二預言者の書」と言った。
このようにして、預言の五書は次のようになるのである。
一、イザヤ預言書。二、エレミヤ預言書。三、エゼキエル預言書。四、ダニエル預言書。五、十二預言書。
◎ ホセア書は、十二預言書の第一巻である。年代的に言えばアモス書が前であるが、しかし何かの理由で、ホセア書が第一に置かれたのである。
あるいは十二預言書中で最も長い書であるからかも知れない。(ホセア書とザカリヤ書とは、各々十四章である。他はいずれもそれ以下である)。
しかし、その他に深い理由があると思う。ホセアはいずれの点から見ても、大預言者である。彼はイザヤ、エレミヤと匹敵すべき大人物である。
ゆえにいわゆる「小預言者」の中に置かれてはいるが、その第一位に置かれるべきはもちろんである。
十二預言の最善最美は、ホセア書にあると言っても過言でないと思う。
人は全体に預言者に目を注ぐこと少なく、注いでも多くはイザヤ書またはダニエル書に止まるのが通例であるが、ひとたびホセア書を味わえば、思わぬ所で新福音に接するという思いがする。
ここに
福音書以前の福音書がある。あるいは、旧約の中の新約と称することも出来る。神の無限の愛を説く書として、旧約の内にこれに及ぶ者はない。
その事は、イエスが幾たびかホセア書を引かれたことによっても分かる。イエスの特愛の聖語の一つは、預言者ホセアの次の言葉であった。「
我は愛情(いつくしみ)を歓びて犠牲(いけにえ)を喜ばず」と(ホセア書6章6節)。
福音書は、イエスが二度、ホセアのこの言葉を引かれた事を記している。旧い邦訳聖書は、これを次のように訳している。「
我れ衿恤(あわれみ)を欲(この)みて祭祀(まつり)を欲(この)まず」と(マタイ伝9章13節、同12章7節)。
イエスはこの他にも、たびたびこの言葉を用いられたであろう。彼の御精神を言い表す言葉で、これ以上に適切なものはなかったに相違ない。これを新約の根本的精神と称してよい。
「犠牲」また「祭祀」は、宗教の儀式である。教会制度である。教職階級である。信仰箇条である。信仰を機械化したものである。
これに対して「愛情」がある、「衿恤(あわれみ)」がある。いずれも熱くて優しい心である。そして
神は儀式よりも愛情を歓ばれると言うのである。当然の事であるが、しかし人が容易に受け入れない真理である。儀式はいくらでも精密にする、厳粛にする、しかし衿恤は容易に行わない。
教会はいずれも、教義と儀式を守るには火のように熱心である。しかし愛においては、殊に他教会の人々に対する愛においては、氷のように冷淡である。
この宗派的、僧侶的精神に対して、預言者ホセアは、2650年の昔に、この信仰的大真理を投げつけて言ったのである、「エホバは愛情を歓びて犠牲を喜び給はず」と。実に偉大な宣言であった。
そして預言者より750年後に、イエスはこの言葉を取り上げて言われた、「
我れ衿恤(あわれみ)を欲(この)みて祭祀(まつり)を欲まず」と。
そしてイエスの弟子が今日といえども教会制度または僧侶階級に対して戦う時には、常に預言者ホセアのこの言葉を繰り返して言うのである。
◎ 私自身の生涯において、私はホセア書の二節によって、私の生涯の危機から救われた者であることを告白する。それは、2章16節、17節の言葉である。
ホセアのこの言葉によって救われた者は、私以外にも多数いると信じる。まことに心の傷を癒す霊薬の中に、これ以上のものがあるとは思えない。
「
ギレアデに乳香あるにあらずや。……如何にして我が民は癒されざる乎」(エレミヤ記8章22節)とエレミヤが叫んだその乳香は、ホセア書のここに在ると思う。
(4月22日)
(以下次回に続く)