全集第31巻P170〜
栄辱50年
昭和3年(1928年)6月10日
「聖書之研究」335号
◎ キリストに在って満50年! 楽しくもあった、苦しくもあった。思えば嬉しくもある。悲しくもある。
◎ 信仰生活の苦しみを知らない教会の宣教師ならびに信者たちは、人がバプテスマを受けるのに会えば、「おめでとう」と言って祝辞を述べる。
彼等は何を言うかを知らないのである。何故(なぜ)「同情を表します」と言わないのか。イエスはゼベダイの子等に問うて言われた、
汝等は、我が飲まんとする杯を飲み、又我が受けんとする
バプテスマを受け得る乎。 (マタイ伝20章22節)
と。バプテスマは苦い杯である。キリストの栄光(さかえ)に入る第一歩ではあるが、直接に臨むものは栄光ではなくて恥辱である。十字架の恥辱である。
この世の人たち(教会の教師、信者たちをも含む)に嫌われ、嘲られ、斥けられる事である。真のバプテスマを受けて来るものは、この世の善い事ではなくて、悪い事である。
不孝な子として父母肉親の者に嫌われ、国賊として国人に斥けられ、異端の徒として教会から追い出される。人をここまで追いやらないバプテスマは、偽りのバプテスマである。
まことに苦い杯である。これを思えば、これを我が愛する者に授けたいと思う心は起こらない。私は50年前にバプテスマを受けて、知らぬ間に十字架の途(みち)についたのであった。顧みて万斛(ばんこく)の涙なしにはいられない。
◎ しかしながら、私は苦い杯をキリストの手から受けたことを悔いない。その内に限りない生命があった。私は十字架の
キリストにまでバプテスマされて、そこに尽きることのない神の生命の泉に達した。
杯の苦味(にがみ)は、生命(いのち)の甘味(あまみ)である。深い、遠い歓楽である。虚空の彼方(かなた)に潜(ひそ)む星の光のようなものである。口には言い得ず、筆には表し得ない、深い深い歓楽である。新約聖書を「我が書」として読み得る歓楽である。
ダンテ、ミルトンに共鳴し得る特権である。私の罪の為に神に呪われて下さったキリストの聖顔(みかお)に、神を拝し得る幸いである。
ああ、私はバプテスマを受けて、キリストの誹(そし)りを負って、この世の囲みの外に出て、善い事をした(ヘブル書13章13節)。苦難(くるしみ)は出エジプトの苦難であった。また再び俗悪の世に帰らないための苦難であった。
神の国に生きるための、この世に死ぬための死の苦難である。幸いな、恵まれた苦難であった。
◎ それだから、この記憶すべき日において、私はエベネゼル(助けの石)を建てるであろう。そしてサムエルと共に言うであろう、「エホバ是まで我を助け給へり」と。
こうして私はこの不信国に在って、多くの苦難(くるしみ)に会いながらも、キリスト信者に成ったことを、神に感謝する。
完