全集第31巻P179〜
(「来世問題の研究」No.4)
その4 永生の基礎 ルカ伝20章37、38節
◎ イエスにこの馬鹿げた質問をかけた人は、サドカイ派の人であった。使徒行伝23章8節に言われているように、「
サドカイの人は復活また天使また霊を無し」と言った。
彼等は特にモーセを信じ、モーセの五書にこの事が記されていないので信じないと主張した。ところがイエスはこれに対して、復活と天使が有ること、そして復活後の信者は、天使のような者である事を説かれた。
それだからイエスの立場は、大体において、サドカイ派の反対に立ったパリサイ派のそれであった。故にイエスの説明を傍で聞いていたパリサイ派の人々は敵ながらも、さぞかし満足を表したであろう。
◎ イエスはさらに進んで、モーセを説明された。彼の質問者がモーセを引いたので、彼もまたモーセによって答えられた。モーセが復活を信じないというのは、誤りである。出エジプト記第3章即ち「棘(しば)中の篇」に何と書いてあるか。その第6節に言う、
我は汝の父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神
なり。
と。エホバがモーセに語られたこの言葉の中に、復活・永生が示されているではないか。アブラハムの神なりと言われたことによって、彼が今なお生きている事が示されるではないか。アブラハムの神で
あったのでない。で
あるのである。
生きている神が、死んだ者の神で
あると言われるはずがない。殊に
神である、
造主であると言われなかった。
神は人格的である。霊に対し霊的関係を保たれる者である。神が、「我はアブラハムの神なり」と言われたのは、「我は彼の友なり」と言われたのと異ならない。
ヤコブ書2章23節に言う、「
彼(アブラハム)また神の友と称(よば)れたり」と。永遠に生きておられる神が、その友と言われたアブラハム、その者が死んでいるはずがない。神にこう言われたことが、彼がなお生きている何よりも良い証拠であると、イエスはここに述べられたのである。
実に深い聖書の見方である。人は未だかつてこのように聖書を解しなかった。これは言葉を弄(もてあそ)ぶ、いわゆる「聖書道楽」の見方でない。真理を穿った見方である。
神はその御言葉を、
ゆるがせにされない。彼が「我はアブラハムの神なり」と言われれば、その通りに意味されたのである。
もし私が誠実な人であるならば、私がある人の友であると言うならば、私の全ての信用を賭(と)してそう言うのである。そして私の能力のある限り、私は彼を助け、彼を保護する。まして神においてはなおさらである。
神が「我は彼の神なり」と言われた者、その者が神と共に生きているのは当然である。故にイエスは続いて言われた、「
それ神は死せる者の神に非ず、生ける者の神なり」と。
実に生きている神が死んだ者の神であり得るはずがない。あたかも善人が悪人の友であり得ないのと同然である。アブラハムとイサクとヤコブとは、神に「我は彼等の神なり」と言われて、その永生を証明されたのである。
◎ マタイ伝に「
人々之を聞いて、其教に驚けり」とあるが、それはそうであろう。イエスのこの見解によって、モーセの五書を初めとして、旧約聖書全体が、全く新しい書に化したのである。
旧約聖書は復活来世を説かないというような事は、全く意味のない事になった。
神がおられる所に永生がある。神は生命の源であるからである。人は神を信じ、神の友となって、神と共に限りなく生きるに至る。
教義または信仰箇条の問題でない。事実の問題である。旧約聖書は、復活来世の教義は説かなかったが、真の神を伝えて、限りない生命を伝えたのである。
◎ 故に旧約時代の信者は、神と交わって、知らず知らずのうちに、不死不滅永生を感じたのである。詩篇第16篇の作者が、その好い一例である。
我れ常にエホバを我が前に置けり
エホバ我が右に在(いま)せば、我れ動かさるゝ事あらず。
この故に我心は楽しみ我が栄は悦ぶ、
我が身もまた平安(やすき)に居らん。
そは汝我が霊魂を陰府(よみ)に棄置き給はず、
汝の聖者を墓の中に朽しめ給はざる可(べ)ければ也。
ここに確かに復活の希望が述べられている。故に使徒ペテロは後の日に、詩篇のこの言葉を引いて、イエスの復活を証明したのである。使徒行伝2章31節を見よ。
◎ このようにして復活永生は、イエスが神の子である特権を以て私たちに押し付ける信仰箇条でない。明白な道理に基づいた信念である。
生命につながる、故に死なないと言うのである。
イエスが弟子たちに言われたとおり、「
我れ生くれば汝等も生きん」と(ヨハネ伝14章19節)。電線が発電所とつながる間は、電灯は消えないと言うのと同じ道理である。
故に永生は死んで後に始まるのでない。この世において始まり、来世に継続されるのである。人が初めて真の神を信じたその時に、永生は始まるのである。
イエスは30歳の時に、1900年の昔に、この近代的大真理を述べられたのである。シュライエルマッハーは近世哲学を代表して言った、「有限の真中(まなか)に在りて無限なる事、今この瞬間より永遠的である事、これが真の宗教が供する不死の生命である」と。
(2月26日)
(以下次回に続く)