全集第31巻P182〜
(「来世問題の研究」No.5)
その5 活動の来世 マタイ伝18章10節、
ルカ伝19章12節以下
◎ 来世が有ることと、これに達する道について、イエスは重ねて説かれた。これを「永遠の住宅(すまい)」と称して、人に勧められた。しかしながら、それがどのような所であるか、またこれに入る者がどのような状態で生存するかについては、多く語られなかった。
一つには、語るのがほとんど不可能な事であるからである。彼がイスラエルの宰(つかさ)ニコデモに言われたように、
若(も)し我れ地の事を言(い)ふに汝等信ぜずば、況(ま)して天の
事を言(い)はんには、如何で信ずる事を為(せ)んや。
であって、地とは全く状態を異にする天について、地に在る人に語るのは、困難の境を越えて、不可能であるからである(マタイ伝3章12節)。
二つには、来世については、詳細を語るのは害が多いからである。これによって人の好奇心を挑発して、いたずらに憧憬(しょうけい)に耽(ふけ)って、目前の義務を怠る危険に、彼を陥れる恐れがあるからである。
来世は、それが有る事をさえ確かめられれば、その他を知る必要はなく、知れば反(かえ)って害が多いのである。キリスト教はその点において、仏教ならびにイスラム教に勝る。
キリスト教の来世に関する比較的沈黙は、他の二教の詳細にわたる説明に比べて、合理的であって有効的である。恵心僧都の「往生要集」(
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%80%E7%94%9F%E8%A6%81%E9%9B%86 )の天道篇に次のような言葉を読んで、私たちはその言葉の美(うる)わしさに引かれるが、反ってその事実を疑わしいと思わせられるのである。
かの西方世界は楽しみを受くる事極まりなし。人と天人と交はり
て、倶(とも)に相見る事を得たり。すべていづれも慈悲心に薫じ
て、互にひとり子の如くに愛を為し、諸(もろ)ともに瑠璃(るり)
の地の上をゆきかへり、
同じく栴檀(せんだん)の林の間に遊びたはむれ、宮殿より宮殿に
至り、池より池、林より林に至る。
若(も)し静かならん事を思へば、風の声、浪の音、管絃のしらべ
耳に隔たり、若し見んと思ふ其時は、深山(みやま)がくれや谷川
の珍らしき境地まで目の前に現はれて、見まじと思へば其境地去
りて目に隔たる。
香をかぎ味をなめ身にふれ、法を説述る事も亦然(しか)り。
或(ある)は雲の梯(かけはし)を渡り、楽を奏して舞ひ遊び、或は
虚空(こくう)に揚(あが)りて神通を現じ、或は他方の大士に従ひ
て迎へ送り、或は天人聖衆(しょうじゅ)に伴ひて遊覧し、或は宝
の池の畔に至り、
新たに生(うまれ)し人を訪(とぶら)ひ慰めて、「汝知るや否や此所
(ここ)をば、極楽世界と名づけ、此(この)界の主をば弥陀仏と申
奉る、今まさに帰依すべし」などと云ふ。云々
と。この美(うる)わしい言葉の中に、貴い真理がこもっていなくはないが、けれども形容は事実に過ぎて、読む者を言葉に囚われさせて、実を逸せさせる恐れが多い。
もちろんキリスト教に在っても、ヨハネ黙示録において、ダンテの神曲において、この種の形容を見なくはない。ある種の形容は来世を説くに当たって必要不可欠である。
けれども形容は少ないほど良い。真剣で真面目であったイエスは、最小限度に形容詞を使われた。
◎ マタイ伝18章10節即ち、
汝等慎みて此(こ)の小さき者の一人をも侮る勿(なか)れ。そは
我れ汝等に告げん。彼等の天の使者等(つかいたち)は天に在り
て、天に在(い)ます我父の顔を常に見ればなり。
とのイエスの御言葉は、特に死後生命について教えるために発せられたものでない。しかしながら、その内に天使について告げると同時に、天使に等しい状態に入る復活者について知らせる所があると思う。
即ち死後生命は、決して静止・安息の生命ではなくて、活動・奉仕のそれであるとの事である。天使が天に在って地上の幼児のために執成(とりな)し、その祝福を計るように、私たちも天使に等しい者とされて、彼等に等しい働きをさせられるとの事である。
イエスが彼と共に十字架に釘(つ)けられた盗賊の一人に、「
今日汝は我と共に楽園に在るべし」と言われたから、来世とは今世とは異なり、無為安楽の世界であると思うのは間違いである。
イエスは金ミナのたとえを以て、明らかにそうでないことを教えられた(ルカ伝19章12節以下)。来世は現世の継続であって、現世においてわずかな物に忠実な者は、来世において大きな物を委ねられるとの事である。
ダンテが、「我は死して
より高貴な戦闘に入るのである」と言ったのは、この意味である。もちろん罪の世の戦闘ではないが、「高貴なる戦闘」は、健全な生命の必要条件として存せざるを得ない。
「
我が来るは羊をして生命を得しめ、更に豊かに之を得しめん為なり」と主は言われた。豊かに生命を与えられて、活動を免れることは出来ない。死後生命は
より高い、
より能力(ちから)ある、
より充実した生命でなければならない(ヨハネ伝10章10節)。
◎ 事は空想のようで、そうではない。人の希望によって、その生涯は定まる。
仏法の涅槃寂滅を望む者は、世を避け山に入りたいと思い、キリスト教の活動的天国を志す者は、終りまで奉仕活動の生涯を送ろうと思う。
詩人ホイッチャーの「雪籠り」に、彼の去った妻を思う一句がある。いわく、
I cannot believe thou art far
Since near at need angels are.
我は汝は我を離れて在りとは信ずる能はず
危き場合に援(たす)けん為に天使は我側に在るに非ず耶(や)
天に在って相互を助け、また地に在る者をも助けることが出来る。それが真の死後生命である。
(3月4日)
(以下次回に続く)