全集第31巻P183〜
(「来世問題の研究」No.6)
その6 イエスの栄光体について(上)
ルカ伝4章16〜32節、マルコ伝9章2〜9節
◎ イエスが言葉によって来世について教えられた場合は、至って少ない。私たちは彼の御言葉から、いわゆる来世訓を編もうと思っても、編むことが出来ない。
しかしながら、イエスは言葉によってよりも行為によって、明らかに永生を示された。その点において彼は確かに「
生命と壊(くち)ざる事とを明著(あきらか)にせり」(テモテ後書1章10節)であった。
永生は、彼の内に働いていた。故に彼が為す事が、すべて永生的であった。即ち、死者を蘇らせるに足る生命が彼を動かした。
まことに、彼御自身がその生命であった。限りない生命が何であるかは、イエスを知ることによって解る。彼の御生涯そのものが無窮の生命である。
◎ 聖書は道徳を離れて宗教を教えない。そこに聖書が聖書である理由がある。聖書は道徳を離れて来世を教えない。キリストのような聖(きよ)い行為があって、キリストのような復活があり、不死の生命があると教える。
故に福音書において、徳行と不思議とが、並んで記してある。イエスの行為が彼の奇跡を証明し、彼の奇跡が彼の行為を証明する。世にイエスの教訓を是とするが、彼の奇跡を非とする者が多いのは、この事を認めないからである。
イエスの教訓は、彼の奇跡と同じだけ不思議である。彼の教訓が超自然的であることに気付いた者は、彼の奇跡を疑わない。
◎ ルカ伝4章16〜32節の記事は、明らかに、イエスのこの両方面を示す。ここに彼は、その公生涯の門出(かどで)において、彼が何者であるかを示された。
彼が聖書に精通されていた事、旧約の預言が彼において充たされた事を、彼が自覚された事、また「
人々その口より出る所の恩恵(めぐみ)の言を奇(あやし)み」とあって、彼の風采(ふうさい)に神らしい所があった事等を記し、
そして後に預言者の権威を以て村人を警(いまし)められたので、全村こぞって大いに憤り、起ってイエスを村の外に引き出し、その村が建っていた山の崖から投げ落とそうとした。「
然るにイエス彼等の中を通過して去りぬ」と書いてある。
これは簡単な記事であって、多くの人が気付かない所であるが、しかしその内に、尋常でない行動を認めざるを得ない。
若い大工が聖書を引いて、この言葉を発したのが不思議であったが、それに加えてその去り方が不思議であった。イエスはこの場合に、逃げなかった。また身を隠さなかった。荒れ狂う暴徒の中を独り通り過ぎて去られた。
関ヶ原の戦争において、島津兵庫頭が取った途(みち)であって、兵法から言っても、最も大胆な、最も男らしい途(みち)である。
何がイエスをそのように勇敢にさせたのか。もちろん彼に義人であるという確信と権威とがあって、彼にこの道徳的勇気を与えたに相違ない。ところが彼は、「大工ヨセフの子」であって、村民から何の尊敬をも受けていなかった。
その彼にこの権威があった事、その事が既に不思議である。今日私たちの目前にこの事が行われたとして、私たちはその理由の説明に苦しむであろう。
◎ この場合に、
キリストの身から御光が射していて、暴民は彼に手を触れ得なかったと見れば、説明が出来る。あるいは、彼の身に普通の生命以外の生命が働いて、それが物理的法則を超越して働いたと解して、解することが出来る。
いずれにしろ、この場合もまた、奇跡と見るのが適当である。もし純奇跡でないにしても、奇跡に類した行為であったことを、否定できない。
◎ 聖書にたびたび栄光という言葉が使われている。まことに広い意味の言葉であって、今一々これを指摘することは出来ない。
栄光はギリシャ語のdoxa (ドクサ)、ヘブル語のkabod (カーボード)であって、聖書特有の言葉である。これに物的な意味もあれば、霊的な意味もある。
ベツレヘムの夕、天使が救主の降誕を牧者たちに告げようとする時に、「
主の栄光彼等を環照(めぐりてら)しければ」とあるのは、物的即ち自然の光であったと見るのが適当である。
その他パウロがダマスコの途上、まばゆいイエスの御顔を拝したと言うのもまた、彼の肉眼に映じた強い光と解せざるを得ない。
しかしながら、多数の場合においては、栄光は道徳的栄光、即ち霊的栄光である。あるいは半物的半霊的栄光である。
コリント後書3章末節において、「
我等顔おほひなくして鏡に照(うつ)すが如くに主の栄を見、栄に栄いや増さりて其同じ像(かたち)に化(かわ)る也」とパウロが言った場合において、栄光は物的でもあり、また霊的でもある。
即ち、
聖書に在っては、光に物的・霊的の区別はなくて、霊的栄光は即ち物的光輝である。
◎ 以上の見方によって、共観三福音書が記している変貌の山におけるイエスの栄化を少しではあるが説明することが出来ると思う。
これが確かに在った事であるのは、三福音書がそろって記していることによっても分かる。そしてある聖書学者がするように、単なる自然的現象として解するのは、あまりに浅薄である。
いわく、レバノン山中腹に、春まだ寒くして残った雪に彼等が囲まれた時に、電光がひらめき渡ったので、「
イエスの容貌変り、其衣輝き、白きこと甚だしくして雪の如く、世の布晒(ぬのさらし)も斯(か)く白く為(な)し能(あた)はざる」(マルコ伝9章3節)ほどであったと。
西洋近代の学者は、そのように解するより他に、この記事を解し得ないのである。しかしながら、これは浅薄で不完全な解釈であると言わざるを得ない。なぜこれを、イエスの栄光体の現れとして解し得ないのであるか。
(3月11日)
(以下次回に続く)