全集第31巻P214〜
(「ホセア書の研究」No.3)
その3 家庭の不幸 ホセア書1章。
◎ 神の人にすべて神の
みまねき(聖召)があった。神の聖召に与らずには、誰も神の
みわざ(聖業)を行うことが出来ない。
偉人は必ずしも神人でない。神に特別に招かれて、偉人も凡人も神人となるのである。
◎ 聖召の方法は種々ある。招かれるべき人によって異なる。モーセはミデアンの地において、棘(しば)の中の焔(ほのお)の中に、彼に現れられたエホバによって招かれた(出エジプト記3〜4章)。
「
棘(しば)は燃ゆれどもその棘(しば)焼けず。即ち神、棘の中よりモーセよモーセよと呼び給へり」とある。
その他、イザヤ書6章にイザヤの聖召(みまねき)が記され、エレミヤ記1章にエレミヤの聖召を見る。パウロがダマスコの途上キリストの聖召に与った事は、私たちがよく知っている事である。
◎ そしてホセアにもまた
みまねきがあった。そして彼の場合において聖召は奇態な形を取った。彼は家庭の実験によって、預言の職に招かれた。エホバはホセアに言われた、「
汝往(ゆ)きて淫行(いんこう)の婦人(おんな)を娶(めと)るべし」と。
「
是(ここ)に於て彼れ往きてデブライムの女ゴメルを妻に娶れり」とある。「淫行の婦人」とは、不貞の女である。貞操が何であるかを知らない婦人である。娼妓(あそびめ)の性格の婦人である。
エホバは果たしてそのような婦人を娶れとホセアに命じられたのであろうか。そう受け取ることは出来ない。ここに神の命令として記されていることは、事実の成行きを記すものである。
ホセアは知らずに淫婦ゴメルを娶って、後になってそれが神の命であったことを知ったのである。
有った事はすべて神の聖旨(みこころ)であるとは、ヘブライ人の人生の見方であった。
ホセアは誤って淫婦を娶り、そのために耐え難い苦難を舐め、恥辱を忍んで、後になって、その事がすべて神の聖旨(みこころ)に出たことを悟ったのである。
◎ ホセアに臨んだ家庭の不幸は、尋常一様のものでなかった。彼の妻は三人の子を生んだけれども、その父系はいずれも怪しかった。彼はそのいずれをも彼の実子として認め得なかった。
故に彼等各自に不祥の
(:不吉な)名を付けた。長子はこれをエズレルと呼んだ。イスラエルに臨もうとしている神の審判を予表してである。
次に生まれた女子をロールハマと呼んだ。「憐れまれぬ者」という意味であって、その父が不明なので、父の憐憫(あわれみ)を受けないという意味である。
第三子は男子であって、彼はこれをローアンミと呼んだ。自分の子でない事が明白なので、「我が子にあらず」と呼んだのである。
若い預言者の悲憤・悲痛はどれほどであったかと思い、察するに余りがある。人生に不幸は多いけれども、結婚の
やりそこないほどのものはない。
これはたいていの場合において家庭の破壊に止まらずに、生涯そのものの破壊である。殊にホセアのように多情多恨な人にとって、耐え難い苦痛であったに相違ない。失恋は多くの若人を死に追いやった。ホセアもこの時死と墓とを慕ったであろう。
軽薄な婦人、デブライムの女ゴメルは、どのような夫を持ったかを知らなかった。彼女は彼女の淫行の剣を以て、彼の心臓を刺しながら、それほどの悪事をしたとは思わなかったのである。
◎ しかしながら、神はホセアと共におられた。神は淫婦の淫行を以て、ホセアを御自身に招かれつつあった。聖霊の
しめし(示し)により、ホセアは自分の身に臨んだ不幸・艱難の意味を悟った。
彼は第一に、不幸は彼一人に限らないことを悟った。彼の家庭に臨んだ不幸は、社会道徳紊乱(びんらん)の一兆候に過ぎないことを知った。
どのような重荷でも、多数と共にこれを担えば、甚だ軽くなる。ホセアは自分の不幸を、国民の不幸として感じた。イスラエルに婦徳が絶えたので、彼の家庭は破壊されたのである。彼は自分の不幸を嘆くよりも、先ず国の不幸を嘆くべきであると思った。
そして
社会道徳紊乱の主因は、誤った宗教の流行にある。淫祠(いんし)の盛んな国家社会において、堅固な男女道徳は期待するべきでない。
ホセアの家庭にこの悲惨事があったのは、イスラエルに真の信仰が絶えたからであると、聖霊はそのように彼に示され、彼はよくその訓示(おしえ)を解した。
◎ ホセアは第二に、神の御心を御察しした。彼は辛い自身の実験によって、姦淫の意味を悟った。妻が夫に背く心は、民が神に背く心であることを知った。
神と民との関係は、親子の関係であるよりも、むしろ夫婦の関係である。親子は血でつながる者であるから、切っても切れない関係においてある。
これに対して、夫婦は愛でつながる者である。故に愛が絶える場合に、そのつなぎは断たれる。愛は強い者、しかし同時に脆い者である。実を結ぶための花のような者であって、美しいだけ、それだけ繊弱である。
そして民は、愛を以て神につながるのであって、愛を捨てれば神との関係は絶えるのである。
背教は姦淫である。他神(あだしがみ)に仕えるのは、間夫(まぶ)に行くのと同じである。
そしてホセアは、その妻の姦淫によって、イスラエルの民がエホバに背いてバールに仕えたその罪の深さと恐ろしさとを知った。
◎ こうしてホセアは自分の身の不幸に打ち勝った。彼は国家的不幸の一端として、これを見た。また神の御嘆きを自身に実験して、聖名(みな)のために起たざるを得なくなった。
こうして彼の不幸は、彼が神に召されて、その預言者となる機会と成ったのである。
(5月6日)
(以下次回に続く)