全集第31巻P298〜
北海道特産物の一つとして見た独立的キリスト教
9月5日小樽希望館において
昭和3年(1928年)10月10日
「聖書之研究」339号
◎ 北海道の特産物は種々あります。ニシンがあります。サケがあります。コンブがあります。リンゴがあります。その他ほとんど数え尽すことが出来ません。
しかし、その内に一つ人があまり気付かないものがあります。それが金銭を以て、その価値を決めることが出来ないものであるからです。
それは、独立のキリスト教です。北海道にそのような貴い特産物があると聞いて人は驚くでしょうが、しかし事実です。後世の歴史家が、日本国の歴史を綴るに当たって、必ずこの事を特筆大書するであろうと思います。
◎ 今から50年前でした。日本にキリスト信者なる者は、わずかに3000人ばかりだったのです。キリスト教は今でも、外教と称せられて、賎しめられるのです。その当時において、外人を離れてこれを信じようと思う者などいるはずはなかったのです。
その時に当たって、この北海道において一団の青年が起(た)って、日本人特有の独立的キリスト教を主張したのです。先ず外国宣教師から提供された金銭的補助を断ったのです。
メソジスト教会とか、エピスコパル教会とか、長老教会とかいう、外国で始まった諸教会を脱して、ここに純然たる日本人式のキリスト教会を始めたのです。それが札幌独立基督教会であって、我が国において初めて起った、純然たる独立教会でした。
当時の私ども青年の意気は実に盛んなものであって、
積丹(しゃこたん)岬以北には、再び外国産のキリスト教を入れないであろうとの事でした。
しかし、この目的は完全に達せられませんでした。独立教会の進歩は一伸一縮であって、その勢力は、それによって全道教化の任に当たるには足りませんでした。
殊に外国宣教師は、独立教会の出現を喜びませんでした。彼等は、その成功を疑いました。日本人が全く彼等外国宣教師の手を離れて、信仰と伝道とを継続し得ようとは、彼等は思いませんでした。
私が軽井沢のような外国宣教師集合の地において、常に彼等に問われる事は、「札幌独立教会はどうなりましたか」という事です。その成功如何に、彼等が常に深い注意を払っていることが分かります。
そして積丹岬以北に教派的教会を入れないようにするという不文の約束は、早くも破られました。
組合教会が先ず第一に札幌に教会を立て、続いて一致教会(今の日本基督教会)が帰って来て、さらにメソジスト教会、聖公会が来て、次にホーリネス教会が来て、札幌ならびに北海道全体は、今や昔以上に教派の繁栄を見るに至りました。
こうして札幌独立教会設立の目的は、全く破れました。独立運動など、起こさなかった方が却て良かったのではないかとの感を起こさざるを得ませんでした。
◎ しかし、私はそうは思いません。独立が良い事であることは、たとえ宣教師でも、これを肯定せざるを得ません。彼等はただ常に、
独立尚早論を唱えるのです。
私どもが50年前に札幌において独立を唱え、これを実行した時に、彼等はこの論を唱えました。
そして今から4年前、米国が排日法を設けて、我が国に国際的大侮辱を加えた時に、私どもがこれを機会として日本のキリスト教の絶対的独立を唱えた時に、彼等は同じ事を唱えて言いました。
「独立はまだ早い。さらに30年待つべきである。その時は平和の内にこれを実行し得るであろう」と。
私はその時に思いました、もし30年待ったならば、日本のキリスト信者は独立の精神を失い、たとえまたその時に至り独立を断行しようと思っても、外国宣教師は同じ事を唱えて、さらに30年の猶予を勧告するであろうと。
◎
高尚な主義はすべて貴いのです。成功するにしても失敗するにしても、貴いのです。独立は今日まで幾回も失敗しました。しかし独立の尊さは、そのために少しも減じません。
コシウスは、ポーランドの独立に失敗しました。しかしポーランド今日の独立は、彼から始まったのであり、その栄誉ある独立は、彼コシウスの賜物であると称すべきです。
我が国の歴史においても、楠正成、万里小路藤房が唱えた王政復古運動は、失敗に終りました。しかし明治の維新は、500年後に彼等の思想を受け継いで成功しました。
懐くべきは、高尚な思想です。唱えるべきは、高貴な主義です。これを唱えこれを行って、失敗するのも名誉であり、また遠い将来において、その完全な成功を期することができます。
◎ 日本人は日本人として、外国人に依らずに、直ちに神を信じ、彼にお仕えするであろう。日本人は、仏教を支那、インドから受けて、これを終(つい)に日本人の仏教にしたように、日本人はキリスト教を欧米人より受けて、これを日本人特有のキリスト教にするであろう。
殊に我が日本においては、西洋諸国において見るような、醜い教派の存在を許さないであろう。日本においては、「
師一人、汝等は凡(すべ)て兄弟なり」というキリストの教訓の実現を見るであろう。
日本人はキリスト教の生粋(きっすい)を受けて、その弊害はこれを受けないであろうとの理想は、単に「理想」としてこれを斥けることなく、主義としてこれを信じ、勇敢にその実行を試みることは、善い事、貴い事、誉めるべき事、人として行うべき事であると思います。
◎ そしてこの事が、明治の13〜14年ごろ、今からほとんど50年前、札幌がまだ一農村であり、小樽がまだ一漁村であった頃に、北海道の地において試みられたのです。
キリスト教は西洋の宗教であると今でもなお多くの日本人に思われているのに、これを日本人の宗教としようという大胆な企てが、北海道において試みられたのです。
これは北海道の大きな産物ではありませんか。世界に向って誇るべき産物ではありませんか。これに比べれば、サケとかカニとかコンブとか青豆とかいうものは、数えるに足りないではありませんか。
ギリシャの特産物はソクラテスによって始められた真理の自由研究であり、ドイツの特産物はルーテルを以て始まった宗教改革であり、
英国の特産物はピューリタン主義と自由政治であると言いますが、それにも比べるべきものが、北海道において始まったキリスト教の日本化または東洋化運動でありませんか。
諸君北海道人は、これについて大きな誇りを感じませんか。
◎ 私は、札幌において始まったキリスト教独立運動は、失敗に終ったと言いました。しかし、
全くの失敗に終りませんでした。
第一に、札幌独立基督教会(
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E4%BC%9A )は、依然として存在しています。これはどう見ても、北海道第一の教会です。札幌南大通り西7丁目、黒田清隆公の銅像と相対して立っている広壮な会堂がそれです。
しかし札幌独立教会は、かの独立運動の遺物の一つに過ぎません。小樽のこの希望館も、その独立運動の余波として起こったものです。独立の精神は、田母神翁を以て札幌から小樽に飛び火して、今なおここに燃えつつあるのです。
◎ そして同じ火が、不肖私を以て日本全国に燃え広がりました。私は過去40年間、至る所に日本的キリスト教を唱えました。
殊に大正7年から12年まで、好い機会を与えられて、東京は大手町、内務省正門前の大日本衛生会講堂を借り受けて、東京の公衆に向って、この主義を唱えました。
満4年間にわたり、およそ140回の聖書講演において、毎回400人以上800人まで、たいていは空席一脚もない盛況の内に、東京人士は私の独立的信仰を謹聴してくれました。そしてその集会は、今なお東京郊外柏木の聖書講堂において続けられつつあります。
私の機関雑誌「聖書之研究」は30年の歴史を有し、日本において発行されている最も古い宗教雑誌の一つです。南は台湾から北は樺太に至るまで、誠実な読者を有します。
数はもちろん「キング」や「主婦の友」には敵(かな)いませんが、その霊魂を霊魂に結び付ける能力においては、遥かにこれ等大雑誌以上であると信じます。
殊に私が英文で著した「余は如何にして基督信徒となりし乎」という、札幌におけるキリスト教運動について詳細に述べた書は、ドイツ、フィンランド、スウェーデン、デンマーク等の外国語に訳されて、欧州において識者の間に大きな注意を引きました。
先年この世を去った世界有数の大哲学者オイケン博士は、その熱心な読者であって、博士は最後まで私と私の仕事に対し、篤(あつ)い同情を表してくれました。
二三カ月前の事でした。スイスの首府ベルン市のある大教会の牧師ドクトル・マールバッハは、日本訪問の際、わざわざ札幌を訪れ、日本におけるキリスト教独立運動の発祥地に到って、感慨に耐え難いものがあったように見受けました。
ちょうど本年6月2日は、私ども数名の札幌出のキリスト信者が、札幌においてバプテスマを受けて第50年に当たりましたので、同博士は特に札幌からドイツ文の祝電を発して、東京にいる私に対して、同情尊敬を表してくれました。
その他、御話しは尽きません。札幌に始まった日本人のキリスト教独立運動は、北海道以外に広がり、今や日本内地はおろか、欧米人の注意を引きつつあります。
◎ 私は恐れます、この事に関して、北海道人は「灯台下(もと)暗し」であることを。北海道人は利権の獲得、事業の発展に忙殺されて、彼等の間に起こった精神的大運動を忘れていると思います。
現に内地における私の仕事に対して賛成を表し、実際的援助を与えてくれた者の内に、北海道人は一人もいません。
私の独立運動に多大の援助を与えてくれた者は、第一に大阪商人でした。全体に関西人の方が、関東人よりその運動に興味を有(も)つと思います。
私はそう言って、諸君北海道人の援助を哀求するのではありません。私どもは諸君が賛成されようと、されまいと、私どもの独立運動を続けます。
しかしながら、これに参加されるのは、諸君の名誉また義務であると信じます。北海道において起ったこの貴い運動の助長を、他国人に委ねて、諸君は安閑としていられるのですか。
私は今夕、小樽市民の寄付金を募りに、御当地に参ったのではありません。私の独立信仰の友である田母神翁に招かれて参ったのです。
しかしながら、この機会を利用して、私は諸君に、この北海道に始まって、今や世界の注意を引きつつある大運動が有ることに気付いていただきたいのです。
私は、「預言者はその故郷に於て省みられず」という諺が、諸君の間に実現しないように望みます。
そうでなければ、独立の名誉は悉(ことごと)く私ども少数者に帰して、諸君はこの短い夢のような世に在って、ただわずかばかりの富を作り、朝露に等しい名誉を得て、それで諸君の貴い生涯を終られるのです。
完