全集第32巻P17〜
聖霊を授かる途(みち)
昭和4年(1929年)1月10日
「聖書之研究」342号
ルカ伝11章1〜13節
◎ 「
天に在(いま)す汝等の父は、求むる者に聖霊を賜はざらん乎」とあって、聖霊は神が人に与えて下さる最大の賜物です。知的方面から見て、聖霊は神を知る知識です。聖書を解する光です。
聖書によらずには、キリストの福音の深い事は分かりません。パウロが言った通りです、
聖霊は凡(すべ)ての事を究め知り、神の深き事をも究め知るなり。
それ人の事は、其中にある霊の外に誰か之を知らんや。此(かく)の
如く、神の事は神の霊の外に知る者なし。
(コリント前書2章10、11節)
と。
聖霊によらずにキリストの御父である真の神を知ろうとするのは、光によらずに物を見ようとするのと同様に不可能です。
◎ 実行的方面から見て、聖霊は神の聖旨(みむね)を行なう能力(ちから)です。神を愛し人を愛すると言っても、聖霊によらなければ、満足に愛することは出来ません。愛は神から出るのです。そして神は聖霊によって、その愛を私たちに注がれるのです。
パウロが、「
我等に賜ふ所の聖霊に由り、神の愛我等の心に灌漑(そそげ)ばなり」(ロマ書5章5節)と言っている通りです。
そして愛に限りません。希望も忍耐も勇気も、キリスト信者独特の美徳とこれを行う能力(ちから)とは、すべて聖霊によって降るのです。
「
彼等信仰に由りて国々を征服し、義を行(おこな)ひ、約束の物を得、獅子の口をつぐみ、火の勢を消し、剣の刃を逃れ、弱きよりして強くせられ、戦争(たたかい)において勇ましく、異邦人の陣を退かせたり」(ヘブル書11章33、34節)とありますが、それは信仰によって聖霊を授かって為したのです。
信仰そのものは能力(ちから)でありません。神が信仰に対して聖霊を与えて下さり、それが能力(ちから)として働くのです。人が神の善い器として働くためには、先ず聖霊に充たされなければなりません。
◎ 霊的方面から見て、聖霊はキリスト信者のすべてです。人に霊魂と肉体があって、肉体は汚れているのに対し、霊魂は元のままで清いと言うのではありません。人の霊魂そのものが汚れ、神の栄を顕すに足りないと言うのです。
言辞(ことば)を替えて言えば、人の意志そのものが汚れていると言うのです。私たちは、神に私たちの意志そのものを聖(きよ)めていただかなければならないのです。
聖霊降臨の必要は、ここにあります。熱心を加えていただくだけではありません。霊魂を改造していただかなければなりません。私の生命の泉を清め、その根底を立て直していただかなければなりません。
倫理学の術語を以て言うならば、私たち各自が、神に
善い意志の人としていただかなければなりません。
即ち悪を思い得ず善を思い、容易(たやす)く赦し、与えて惜しまず、善事のためであるならば、何事においても熱心になることが出来る心を植え付けていただかなければなりません。
これはみな、神が聖霊を以て人の心に施される御業(みわざ)であって、人が神から授かる最大の恩恵は、聖霊のこの御働きに与ることです。
そして聖霊の御働きに与ると言うのは、結局、神御自身の御臨在に与るという事であって、人としての祝福(さいわい)また栄光の中にこれ以上のものはありません。
◎ そのような次第なので、聖霊を授かることは、信仰生活の万事(すべて)です。このための宗教、このための信仰です。それ故に「如何にして聖霊を授かるか」という問題が起るのです。
そしてこの問題に対し、直ちに与えられる答は、「このために祈り求めなさい」と言うものです。
「
求めよ然らば与えられん。……汝等の内、父なる者誰か其子のパンを求めんに石を与へんや……然らば汝等悪者なるに善き物を其子等に与ふるを知る。況(ま)して天に在(いま)す汝等の父は、求むる者に聖霊を与へざらんや」と言うのです。
聖霊は、祈祷の第一目的物であることは言うまでもありません。しかしながら、祈祷にも種々(いろいろ)あります。祈祷は、言葉を以てするものに限りません。祈祷は祈求であって、その方法は一つだけではありません。
そして
善行は、いわゆる「祈り」以上の祈りです。 Laborare est orare 働くことは神を拝することであって、また最も効果のある祈祷の途(みち)です。
信者の生涯の全部を、礼拝または祈祷として見ることが出来ます。たとえ順序正しく祈ることが出来なくても、即ち祈祷の術を知らなくても、私たちは私たちの働きによって、最も良い祈祷を神に捧げることが出来ます。
聖詩人はこの事を言葉で述べて言いました。
汝は憐憫(あわれみ)ある者には憐憫(あわれみ)ある者となり、完全
(まった)き者には完全き者となり、潔(きよ)き者には潔き者となり、
僻(ひが)む者には僻む者となり給ふ。
(詩篇18篇25、26節)
と。またキリストは同じ事を教えて言われました。
衿恤(あわれみ)ある者は福(さいわい)なり。其人は衿恤を受くべけれ
ば也。
(マタイ伝5章7節)
と。即ち神の憐みに与る途は、彼の聖名(みな)によって憐れみを施すことにあると言うのです。言葉を替えて言えば、
神の最大の賜物である聖霊を授かりたいと思うならば、自分の最大最善と思う物を人に授けることにあるという事になります。
そしてこれは、真理であり、また事実です。私たちは私たちの最善を人に与えて、神の最善の賜物を授かるのです。これは経済学で言う、quid pro quo ある物を与えて、ある物を得るという事ではありません。実物実行を以てする祈祷です。
私の善意を人に表して、神の善意の表彰に与ろうと思うことです。これを交換交易と称するのは、その人の勝手です。しかし、主御自身が言われたのです、「
衿恤ある者は福(さいわい)なり。其人は衿恤を受くれば也」と。
私たちは人の罪を赦して、神に私たちの罪を赦されるのであって、これは世人の言う交換条件ではなくて、倫理学的法則であって、神の聖意(みこころ)です。
◎ そして実際はどうかと言えば、人は言葉を以て聖霊を祈り求める事が多くて、行為(おこない)を以て祈る事が少ないのです。人は祈り叫んで恵まれようと思って、恵んで恵まれようとはしません。
ただひたすら自分の利益、自分の教会の利益だけを計り、他(ひと)の利益、他の教会の利益を計らずに、神の恩恵を授かろうとしています。故に神の最大の賜物である聖霊はその上に降りずに、彼等は常に霊において飢え、能力において不足しています。
いくら熱心に神に祈っても、自分に寛大な心がなく、人の非を見るのに鋭くて、自分の非を見るのに鈍い者に、神の赦しの霊が降るはずはありません。
また、ただ自己にだけ与えられることを欲して、遠く、広く万国の民に与えたいと思う心なく、またその心を実現する行為がなければ、世の罪のためにその独子(ひとりご)を惜しまずにお与えになった神の霊が、その人の上に降りるはずはありません。
もちろん私たちが善行を為すに当たって、自分のためを思うのではなく、他人のためを思うのですが、しかしそのようにして神を喜ばし奉り、神がその聖霊を以て私たちの行為を印されることは、これまた高貴な動機であり、彼が御許しになることです。
この動機によって行った善行に、聖霊の降臨が伴って、人の眼の届かない所において、私たちは深くて清い歓喜を感じるのです。
◎ キリスト信者が何よりも願い求めるものは聖霊であって、何よりも恐れることは、聖霊を取り去られることです。
彼が罪に陥った時の祈祷は、ダビデの祈祷です。詩篇51篇10、11節の言葉です。
あゝ神よ、我が為に清き心を造り、
我が衷(うち)に直き霊を新たに起し給へ。
我を聖前より棄たまふ勿(なか)れ。
汝の聖(きよ)き霊を我より取り給ふ勿れ。
信者にとり、最も恐ろしい事は、この事です。聖霊を取り去られてキリストが分からなくなり、神が見えなくなる事です。これは信仰生活の災禍(わざわい)です。
信者は、どんな災禍(わざわい)に遭っても、この災禍(わざわい)だけは免れたいのです。そしてそのために彼は悪を慎むのです。敵を憎み、仇を返すような事をしないのです。賎しい恥ずべき事をしないのです。すべての事を正直に、すばての事を寛大に扱おうと努めるのです。
人に棄てられても構いません。教会や社会に嫌われる事に意を留めません。国賊と言われようが、偽善者と呼ばれようが構いません。しかし
神に見放されて聖霊を取り上げられる事、それは苦痛の極です。霊魂の死です。暗黒と地獄です。
「あゝ神よ、汝の聖(きよ)き霊を我より取り給ふ勿れ」。そしてこの災禍(わざわい)が私に臨まないようにするためには、私は神のどのような命令にも従おうと思います。
◎ 今日の教会が振るわない理由は、ここに在ると思います。彼等が自分と自分の教会のためだけを思って、援助を他人に貸そうと思わず、他教会の繁栄を祈らないからです。
その結果として、聖霊が彼等の上に降らずに、彼等の信仰が衰え、熱心が衰えるのであると思います。「
汝等自(みず)から欺く勿れ。神は侮るべき者に非ず」です。
人を偽ることは出来ても、神を偽ることは出来ません。神の聖旨(みむね)に背けば聖霊の降臨が止まります。その結果として信者も教会も固い冷たい規則一点張りのものとなります。実に恐ろしいことです。
◎ 人は神を試みてはなりませんが、ただこの事についてだけは、神御自身が人に向い、「我を試みよ」と言われます。献金を怠ったイスラエルの民に対して、神は預言者に言わせられました。
我が殿(みや)に食物あらしめん為に、汝等什一(じゅういち)を
凡(すべ)て我が倉に携へ来れ。而(しか)して是をもて我を試みよ。
我が天の窓を開きて、容るべき所なきまでに恩恵(めぐみ)を汝等
に注ぐや否やを見るべし。万軍のエホバ之を言ふ。
(マラキ書3章10節)
と。神は必ずしも金を以て金に報い、物を以て物に報いられません。しかし必ず聖霊を以て、善い心を以て、良心の満足を以て、私たちの善行に報いて下さいます。
そして慈善や献金の場合に限りません。善を以て悪に報いる時に、人の罵詈嘲弄(ばりちょうろう)に対して沈黙と祈祷を以て応じる時に、神は聖霊を降して私たちを恵んで下さいます。
善行に対する神の即座の報いは、聖霊です。私たちが怒りを抑える時、恨みを断つ時、すべての耐え難い事に耐える時に、神は聖霊の御褒美を以て、十分に私たちに報いて下さいます。
ここにおいてか、神の訓戒(いましめ)が、単に道徳的の訓戒でない事を知ります。報いの伴う訓戒なのです。しかも物質的な報賞ではなくて、霊的な、清い心の報賞なので、いっそうありがたいのです。
(9月30日)
完