全集第32巻P91〜
山岸壬五を葬る言葉
(3月20日柏木聖書講堂において)
昭和4年(1929年)4月10日
「聖書之研究」345号
◎ 私たちの旧い教友の一人である山岸壬五は、去る3月5日払暁(ふつぎょう)に58歳を一期(いちご)として、彼の郷里越後古志郡栃尾町において、主の御許に召されました。
彼は生粋(きっすい)の越後人でした。そして大倉、安田、大橋と言うような資産家を産した越後人の内にあって、彼は最もささやかな一生を終りました。
多分新潟県のいずれの新聞紙も、彼の死について一行半句をも与えなかったでしょう。彼の郷里における彼の埋葬式は、至って微かなものでした。
会葬者は30人に足らず、彼は静かに生き、静かに死んで、静かに葬られたのです。見ようによっては、彼の生涯は生甲斐のない生涯でした。
◎ しかしながら、私たち彼の信仰の友は知ります、彼の生涯に深い意味が有ったことを。
私たち彼と人生の行路を共にした者は、彼を失って、充たし難い欠陥を覚えます。山岸壬五は私たちに必要不可欠な人でした。
他の人には知らず、私たちには大倉、安田はいなくても済みましたが、山岸壬五なしには済みませんでした。もし私たちの生涯に意味があったならば、彼の生涯にも意味がありました。
私たちは今ここに彼の遺骨を迎えて、これに対してこの葬儀を行って、私たち自身の葬儀の一部を行うのです。
◎ 私が初めて彼を知ったのは、明治の21年、越後新潟において、彼が16歳の青年の時でした。彼は私の給仕として、私に仕えたのです。
彼は私の部屋を掃除しました。靴を磨きました。しかも音を立てず、抜き足で出入りし、あたかも静粛そのもののようでした。彼の奉仕の下に、私の室内は万事が整頓していました。塵一つをも留めないという有様でした。
山岸壬五と私との関係は、そのようにして始まりました。そしてその関係がその後30年間、大正11年まで続いたのです。
もしこの世の地位より言うなら、私は上であって彼は下であり、私は仕えられる者であって、彼は仕える者でした。しかしながら、彼は私にとり無くてはならぬ者であり、多分また私は彼に取り同じく無くてはならない者であったでしょう。
主であり従であるのは、夫であり妻であるのと同じく、神が定められた位置であって、私たちはこれによって私たち共同の主である天の神に仕えるのです。その意味において上下尊卑の別はなく、全ての者が兄弟姉妹であるのです。
◎ 明治21年以来40年後の今日に至るまで、山岸壬五は私の生涯の全ての大事件に携わりました。彼と私とは幾たびか離れましたが、また幾たびか合いました。そして私の生涯に何か事件が生じた時には、不思議にも彼が私の側に在るようになりました。
彼は新潟における米国宣教師の一団に対する私の苦戦奮闘を目撃しました。そしてその翌年、私が東京第一高等学校の教師となり、有名な不敬事件を起こして全国民の避難攻撃を身に受けた時に、彼は図らずも郷里を出て東京に来て、私の家に泊まっていたので、
内村加寿子と共に私の病を看護しながら、荒れ狂う私の敵を
あしらい、その罵詈雑言(ばりぞうごん)を身に浴びました。
その後まもなく加寿子が召された時に、山岸は私の唯一の慰謝者(なぐさめて)であって、私は彼に伴われて、彼女の遺骸を小石川白山の墓地に埋めました。
そのようにして私の地位は奪われ、私の家庭は破れ、私は天下の流浪人となったので、私は山岸を永く私の家に留めることが出来ず、惜しんでもなお余りありましたが、彼を私の親友、札幌の宮部金吾氏の許に送りました。
そこで私の若い山岸は、私の家におけると同様の信頼を受けました。私にとって大きな損失でしたが、私の友人にとっては、山岸を送られたことは、大きな利得でした。山岸は終生、私を彼の父と呼び、宮部氏を彼の母と呼びました。
そして宮部氏の推薦により、山岸は北海道において色々な仕事を試みました。ある時は清真布(きよまっぷ)駅の駅長となりました。ある時は後志(しりべし)の某漁場で漁業を試みました。そして至る所で信任を博し、前途はなはだ有望でした。
札幌の友人は私に書き送って言いました、「山岸は必ずその目的を達するであろう、数年ならずして数万円の資産を作るであろう」と。私たちは、彼は必ず越後人の特性を発揮して、必ず富を以て世を益し、家を起こすであろうと思いました。
◎ そのようにして彼と私とは丸9年間の長い間別れていました。ところが明治33年の夏でした。彼は突然上京しました。そして東京に来れば私の家が、もちろん彼の家でした。
大金を携えての上京かと思ったのですが、そうではありませんでした。彼は少し学費を貯めたので、東京専修学校夜学部に入り、経済学を研究するためでした。そして昼は働いて夜は通学したいとのことでした。
時はちょうど「東京独立雑誌」の破壊、「聖書之研究」発刊の時であって、私の生涯で最も多難な時でした。私の同僚は挙(こぞ)って私を去り、私に対して反対運動を開始し、私の骨肉もまた、私に背いて内から私を攻めるという時でした。
その時東京には私が味方として頼むべき人は一人もなく、私たち夫婦は二人の子供と二人の老人を擁(よう)して、信仰のために辛い戦闘を続けなければならない時でした。その時ちょうど山岸が北海道から帰って来てくれたのです。
地獄に仏とはこの事でした。私たちは直ちに彼に、新たに設けられた聖書研究社の事務会計を依頼しました。彼は快くこれを引き受けてくれました。そしてここに私と家内と山岸の三人によって、「聖書之研究」が、社会の嘲笑、教会の呪詛の内に始まったのです。
そして外の敵はいくら強くとも、私を主筆とし、山岸を事務員とする、この新事業を壊すことは出来ませんでした。そして敵もまた私にとり山岸が如何に強味であったか、その事をよく知りました。故に私に浴びせる呪詛を、山岸にも浴びせました。
しかしながら、既に10年以上の親交を続け、その上に札幌の友人が二人の間をつなぐ楔(くさび)となった事であれば、外吹く嵐は内の平和を乱せずに、難産で生まれた「聖書之研究」は、無難にその成長を続けることが出来たのです。
今に至ってこの事を思い、私は神の御摂理を感謝せざるを得ないと同時に、彼に対して深謝なしにはいられません。もしあの場合に山岸がいなければ、「聖書之研究」は生れなかったでしょう。またもし生まれても直(じき)に押しつぶされたでしょう。
山岸壬五は良い産婆の役を務めてくれたのであって、聖書研究社がこの世に何か善事をしたならば、山岸はその功労の大きな分け前に与(あずか)るべきです。
◎ その後においても彼と私とは、分かれてはまた合い、合ってはまた別れました。まことに二人は人生の侶伴(りょはん)として造られたようでした。殊に私の家の大事件の場合には、彼が必ず私を助けてくれました。
彼が私と共に居てくれる時は、私の家は安全でした。私は彼に留守を頼んで、幾度か完全な夏休みをしました。こうして山岸は、私と私の仕事には、無くてはならない者でした。
ところが大正11年に、彼の切なる乞いに応じ、彼を彼の郷里に送るざるを得なくなった時に、私に耐え難い悲しみがありました。私は、肉を切られるような思いがしました。
私は何人と離れても、山岸壬五とは離れないのであると信じました。私は何故彼が、この貴い事業のために私と共に斃(たお)れないのであるかと思いました。
私はまた思いました、私は終(つい)に山岸をも失望させたのではなかろうかと。そう思って私はいっそう辛(つら)くなりました。
◎ しかしながら、このたび彼の永眠につき委細(いさい)を聞いて、私の心は全く和らぎました。
彼は死の準備をするために越後に帰ったのです。
彼は郷里に帰って聖化されました。同情の人となり、祈りの人となって、多くの患難(なや)んでいる人を慰めました。彼は至る所に、彼独特の和光を放ちました。村民は彼を、「山岸のお父(とつ)つあん」と呼んで、彼において一種異様の聖人(ひじり)を見ました。
彼は仏教国の越後に生れ、仏教徒の間に成育して、明白にキリストの聖名(みな)を言い表し、キリストの忠実な僕(しもべ)として世を去りました。栃尾町禅宗寺の住職は、彼の葬儀に列して、彼に対し敬意を表しました。
彼の死は、最も平和なものでした。讃美歌第59番「朝日は昇りて」の歌を歌ってもらいながら、彼の58歳の一生を終りました。
◎ このようにして山岸壬五は、彼が一時望んだように、また私たちが彼について期待したように、富者となって一生を終り得ませんでした。しかしながら、彼は安田、大倉、大橋等、彼の同国人以上の富者となりました。彼は純なキリスト信者となって、彼の一生を終りました。
そしてこの事は、私にとり最大満足です。もし山岸がキリスト信者として死んでくれなかったならば、私自身の生涯が、大きな暗黒です。
多くの青年は私の許に来て福音を聞いて、終(つい)にこれを棄て、不信者として世を去りました。そして山岸は最初に私の許に来て、30年の長い間、私と生涯の旅行を共にした者でした。もしその山岸が不信者として死んだなら、私の生涯は実に憐れむべきものです。
ところが神は、彼を恵み、私を恵んで下さいました。彼は立派にクリスチャンとして死んでくれました。
山岸は今日まで沢山に私のために尽してくれましたが、彼の平和な死が、私に対する最大の奉仕でした。私はここに彼に対し、私の感謝を表すに足る言葉を持たないのです。
◎ ここに山岸壬五を失って、人生はさらに淋しくなりました。しかし、淋しいとか賑(にぎ)わしいとかは、言うべきでありません。私たちは小さいけれども、ある永遠的事業をさせられて感謝すべきです。
誰が先生で、誰が弟子でも良いのです。上も下もあったものでありません。私たちは共同の主にお仕えするのです。神の聖旨(みこころ)により私の名は不幸にして揚がり、山岸の名は幸いにして隠れました。
しかし、これから後しばらくしてこの世の状(さま)は変わります。そして審判(さばき)の主の前に出る時に、誰が知っているでしょう、山岸が師であって、私が弟子であったかどうかを。
イエス曰ひけるは、我は生命のパンなり。我に来る者は餓ゑず、
我を信ずる者は恒(つね)に渇くことなし。(ヨハネ伝6章35節)
今より後主に在りて死ぬる者は福(さいわ)ひなり。聖霊も亦言ふ、
然り彼等は其労苦(はたらき)を止めて息(やす)まん。其功之に
随(したが)はんと。(黙示録14章13節)
愛する山岸壬五よ、汝の霊キリストの国にて安かれ、アーメン。
完