全集第32巻P140〜
病閑雑記(一)
昭和4年(1929年)6月10日
「聖書之研究」347号
1.生殖の権利と義務
◎ 彼等は言う、「私に生殖の権利を与えよ」と。そして彼等は、これを与えられて、これに付属する義務を実行しない。
ドイツ人の諺(ことわざ)に言う、「誰でも子を生むことが出来る。しかしながら、子を適当に教育し得る者は滅多にいない」と。
もし生殖と言う文字の内に、教育の義務と言う意義を含ませるならば(そして含ませるのが当然である)、生殖の権利実行を迫る者は、滅多にいないであろう。
たいていの人は子を生みっ放して、社会にその面倒を見させ、そして社会が思うように自分が生んだ子の面倒を見ないからと言って、その(社会の)無情無慈悲を憤って止まない。気まま勝手な人よ、近代人よと言わざるを得ない。
2.信不信の区別
◎ 信者と不信者との区別はここにある。即ち
信者は事物の善い方面を見るのに対して、不信者はその悪い面を見る。
不信者に誠実は無くはないが、しかし悪を指摘し、これを矯(た)めて善を起そうとする態度において信者と異なる。
信者は善を奨励して悪を消そうとする。愛を以て世に勝つと言うのは、この事である。愛の洪水を起こして世の罪を洗い去ろうとする。それ故に信者が為すことは、常に積極的である。彼は改革者となろうとするよりも慈善家となろうとする。
◎ 信者と言っても、もちろん教会信者をいうのではない。人の悪い方面を見る眼の鋭さにおいて、私は教会者に勝る者を知らない。多くの場合において、教会が地上の地獄そのものであるのは、そのためであると思う。
教誨ほど人の悪評が行われる所はない。教会は善の奨励者ではなくて、悪の摘発者である。悪魔は幾度か教会の法王監督として、地上に現れた。故に信者不信者は、教会無教会を以て判別することは出来ない。
信者は事物の善い方面を見る人、不信者はその悪い方面を見る人、信者不信者は、そのようにして見分けるべきである。
◎ 政友会には悪の他に何も善い所がない者と見る民政党、同じように民政党を見る政友会、共に不信者の好い標本である。
自分の教会以外に何も誉めるべき、貴ぶべき所を見ることが出来ない多くのキリスト教信者、彼等は紛れもない不信者である。神は人類の救済完成について、永久的希望を懐いておられる。
私たちは特にその意味において、天に在(いま)す父が完全であられるように、完全であるべきである。
◎ かつて関西のある大宗教家の訪問を受けたことがある。私は東京のある大宗教家が、私にした事について、彼に訴えた事がある。その時彼(関西の大宗教家)は、私に告げて言った、
「
彼(東京の大宗教家)が悪いことは、よく分かっている。しかし、アンナ者を信じた君もまた、甚だ悪い。僕はアンナ者は信じない。故に騙されたことはない、云々」と。
こうして私は大宗教家を信じたので、他の大宗教家に大いに叱られたのである。これによって、明治大正の日本のキリスト教会がどのようなものであったかを知ることができる。
多分元亀天正の戦国時代も、こんなものであったろう。昭和に入って日本のキリスト教会が急に衰微したのは、理由のない事ではない。
3.霊の弁別
◎ キリスト教を学ぶに当たって、霊の弁別は最も肝要である。ヨハネ第一書4章に言う、
愛する者よ、凡(すべて)の霊を信ずる勿(なか)れ。その霊神より
出(いず)るや否やを試みよ。多くの偽預言者世に出(いで)たり。
と。すべてのキリスト教と言う者がキリスト教なのではない。すべてのキリスト信者と言う者がキリスト信者なのではない。その真偽を弁えよと言うのである。そして真偽弁別の能力(ちから)は、聖霊による特種の賜物として与えられると言うのが、聖書が教える事である。
コリント前書12章10節に言う、
或(あるい)は(同じ霊に由りて)異能を行(おこな)ひ、或は預言し、
或は霊を弁(わきま)へ、或は方言を言ひ云々
と。即ち初代においても、現代におけるように、種々の霊が神の霊として宣伝されたので、信者は神の霊を、神以外の霊から弁別するために、聖霊を授かる必要があるとの事である。
◎ 日本においても、キリストの名が忌み嫌われる時代があった。その時代にキリスト教は比較的に純潔であった。ある種の十字架を担わずに信徒であると表白することは出来なかった。
ところが悲しい事に、その時代は余りにも早く過ぎ去った。今やキリスト教は三大宗教の一つとして認められ、その監督や牧師が、仏教の管長、神道の神主と共に、その功労を賞せられて、金杯・銀杯の下賜に与ると言う、浅ましい世となった。
その結果として、誰でもキリスト信者と成ることが出来、また誰もが自己独特の教義を唱えることが出来るようになった。したがって日本においても霊を弁える必要が起こったのである。
私たち昭和時代の日本のキリスト信者もまた、すべての霊を信じることは出来ない。その霊が果たして神から出ているかどうかを試みる必要があるに至ったのである。
悲しい事に、キリスト教の事においてまで、日本は欧米諸国と類を同じくするに至った。日本におけるキリスト教的黄金時代は既に去った。次のような言葉がある、
ローマ皇帝コンスタンチンがキリスト教を公認した時に、悪魔は
キリスト教会に入って来て、そして1500年後の今日に至っても
教会は彼悪魔を追い出すことが出来ない。
と。日本においても日本政府の寛大な政策により、100年経たないうちに、悪魔は公然とキリスト教会に入って来て、多分世の終末まで、これを去らないであろう。
◎ 今や日本において、キリスト教と言えば極めて漠然とした者である。愛を唱え、人類の救済を説き、平和、禁酒、霊的生命、地上における神の国建設等を主張すれば、それでキリスト教として通るのである。
故にキリスト教の名を以て、「新しい神の発見」までが唱えられ、宇宙の改造、新天新地の出現等が、キリスト教特有の問題として扱われる。
私は日本において、阿弥陀(あみだ)の名をキリストに変えたに過ぎないキリスト教を見た。その実質は、まごうべきなき浄土真宗であって、名のみのキリスト教である。
その他どう見てもイエス、パウロのキリスト教でない者が、キリスト教の名を付して、盛んに唱えられるのを見た。
もちろんどれが真のキリスト教であるかを定めるのは、甚だ難しい事であるとしても、キリスト教と仏教との間に、根本的な相違があることは、明らかである。
そのように、ローマカトリック教とプロテスタント教との間に、アルメニア系のメソジスト教とカルビン系の組合、バプテスト教との間に、同様の根本的相違がある。
その事を弁(わきま)えずに、愛を説くものは全てキリスト教、キリスト教でさえあれば、カトリックとプロテスタントの間に何も選ぶ所はない、また新教でさえあれば、メソジスト、聖公会、無教会も何の異なる所はないと言うのは、広いように見えて、実は浅い見方である。
ここに至って、真理弁別の能力が必要なのである。もちろん仏教は悉く誤謬で、キリスト教は悉く真理であると言うのでない。またローマカトリック教に何も善い事が無いと言うのでない。メソジスト教は悉く世俗教だと言うのでない。
しかし天然物におけるように、宗教においても事物を弁別する必要がある。そのための学問、そのための信仰である。
私は、私自身の信仰が唯一の真理であって、他は悉く異端であるとは言わない。しかし、私は仏教徒ではなく、ローマカトリック教徒ではなく、メソジスト、聖公会、末世之福音、その他近代流行の理学教、米国流の社会奉仕教等のいずれの信者でもないことを、弁えているつもりである。
私は主義としてメソジスト、聖公会の信者となることは出来ない。単に感情的にこれを嫌うのではない。信仰の根本を異にするのである。
◎ まことに信仰の相違は止むを得ない。しかしながら、信仰の混同は、極力これを避けなければならない。私はカトリック、聖公会、メソジストを忌(い)むが、徹底的な彼等には、深甚な敬意を表せざるを得ない。要は弁別にある。明白な識別にある。
人の知るように、私自身は仏教徒ではなくて、キリスト信徒である。ローマカトリック教徒ではなくてプロテスタント主義者である。教会主義者ではなくて無教会信者である。
私は、人がこの明白な理由のために私を憎むならば、憎んでもらいたい。愛するならば、愛してもらいたい。
敵に愛されるのは、味方に憎まれる以上の不幸である。
ギリシャ語の diakrisis 英語の discernment, clear thinking 弁別、信仰上これほど大切なものは無いのである。
4.弟子と友人
◎ 私は、師は一人の他に持ちたくない。私は彼等がすべて私の友人であって欲しい。私は、弟子は一人も持ちたくない。私は、彼等がすべて私の友人であって欲しい。
最も貴い関係は、師弟の関係ではなくて、友人の関係である。キリスト御自身さえ、その弟子たちを友と呼ばれた(ルカ伝12章4節、ヨハネ伝15章14節)。
私たちキリストの弟子は、すべて相互の友でなければならない。友は対等である。授け、また授けられる。教え、また教えられる。
友は相互を愛して、その内の誰をも主として仰がない。東洋流の師弟の関係は、貴いけれどもいつかは消え果るべき者である。永久に消えない者は、「キリストに在る友」である。
5.信者の義と愛
◎ 愛する事ではない。愛される事である。義である事ではない。義とされる事である。神に愛され義とされて、自ずから愛し、義となり得るに至るのである。
愛であり義であることは、外から見れば同じであるが、内から見れば全然違う。神の義(ロマ書1章17節)は、神から出て信者に臨む義であって、信者が義務に強いられて自ら行う義でない。
神の愛もまた同じである。信仰の義と愛とである。神を仰いで、これを受けて、他に向って反射する義と愛とである。「
神の充足(みちた)れる徳は、悉(ことごと)く形体(かたち)をなしてキリストに住めり」(コロサイ書2章9節)と記される。
憐みと真実と、義と平和とは、キリストに在って接吻した(詩篇85篇10節)。私たちはキリストを仰いで、同時に義となり愛となり得るのである。
義と愛との境は定めがたい。けれどもキリストの愛は義に基づく愛であり、彼の義は、愛を以て働く義である。
キリスト教道徳は、信者が独り行う道徳ではない。信者の信仰に応じて、キリストが彼に在って行われる道徳である。信者は読んで字の如く、信じる者である。自分は空手で、キリストがその大能を以て、自分の内に働くようにさせる者である。
完