全集第32巻P254〜
世に勝つ途(みち)
昭和4年(1929年)12月10日
「聖書之研究」353号
汝等世に在りて患難あり。然れど懼るゝ勿(なか)れ。我れ既に世に
勝てり。 (ヨハネ伝16章33節)
凡(およ)そ神に由りて生るゝ者は世に勝つ。我等をして世に勝たし
むる者は、我等が信なり。誰か能(よ)く世に勝たん、イエスを神の
子と信ずる者ならずや。 (ヨハネ第一書5章4、5節)
◎ リッチェルという有名な神学者が言いました、「キリスト教の目的は、人を世に勝たせることにある」と。これを実際的方面から見て、そう言って間違いないと思います。
人は生れながらにして、世の属(もの)です。何事によらず世に支配され、その圧迫を受けます。故に生きることを称して、世に処すると言います。世に適合するという意味です。
時を見てこれに応じる、これを成功の生涯と言います。「生命とは即ち環境との調和である」とは、生物学者が唱えていることです。
ところが世に勝つと言うのです。強くて悪い世を逃れるのではありません。
これに勝つと言うのです。そんな事が出来るでしょうか。
出来るとキリスト教は言います。
私たちは、世の征服に従事した人がいたことを聞きます。アレキサンダー、ジンギスカン、ナポレオン等がそれです。彼等は世の征服に従事して、これに成功しませんでした。
ところがイエスは単身世に勝たれたと言うのです。そして彼は彼の弟子である者すべてに、世に勝つことを要求されたと言うのです。私たちはキリスト信者たる者が、アレキサンダーやナポレオン以上の功績を要求される者であることを忘れてはなりません。
私たちはまた仏教やバラモン教が、人に世を逃れる途を教えると聞きます。ところがキリスト教に在っては、世を逃れるのではなくて、世に勝つのです。この事を知っただけで、キリスト教が人の道である以上に、神の道であることが分かります。
◎ それではどうすれば世に勝つことが出来るでしょうか。その事を示すものが、ここに引用したヨハネ書の言葉です。「凡(およ)そ神に由りて生るゝ者は、世に勝つ」とあります。
世は勢力によって、または工夫によって勝つことは出来ません。神によって新たに生まれて勝つことが出来ます。
イエスがニコデモに言われたように、「
人もし新たに生れずば神の国を見る能(あた)はず」であって、「人もし神に由りて生れずば、世に勝つ能(あた)はず」です。世に勝つ能力(ちから)は、新たに世を造る能力です。
「
人もしキリストに在る時は、新たに造らるゝ也」とあるように、神の国は、神の造化の能力がこの世に加えられた者、神の人であるべきクリスチャンは、同じ能力が生れつきの人に加えられた者です。
神に新たに造られて、即ち神によって生まれて、人は世に勝つことが出来るのです。「
是は勢権(いきおい)に由らず、能力に由らず、我霊に由る也」と預言者が言ったように、神の霊によって生まれて、人は世に勝つことが出来るのです。
ゼカリヤ書4章6節に明らかに示されているように、世に勝つことは尋常な事ではない。人が神に造化の奇跡を施されて為し得ることなのです。
◎ それでは人はこれに対してどうすべきかと言えば、「
我等をして世に勝たしむる者は、我等の信なり」とあって、私たちは信仰によって世に勝つことが出来ると言うのです。
信仰とは信念という自力ではありません。信(まか)せ仰ぐという受動的態度です。神がキリストにより聖霊を以て施される聖業(みわざ)に我身を御任(まか)せする事です。
自分で世に勝とうと思っても勝てない。故に自分の無能無力を認めて、神の御力を仰ぐ。その謙遜の心、それが信すなわち信仰です。
私が世に勝って見せようと言って、アレキサンダーが世界征服の途に就いた時のように、自己に誇って奮い立つ心ではありません。この弱い私に聖霊(みたま)を注いで、私を新たにして下さいと祈る、天の父に寄り縋(すが)る心です。
神の大能が私に加わろうとするのに対して、これを受けようとする、この信徒の態度です。人にこの謙遜があって、人は世に勝つ能力(ちから)を与えられると言うのです。
世に勝つ途は、決心でもなければ、運動でもありません。自己を虚しくして、これを神の恵みの聖業(みわざ)に御任せする事です。
◎ そして神の私たちを新たに造ろうとする聖意(みこころ)に対し、その恩恵(めぐみ)に与ろうと思う私のこの態度があって、私の内に新たな信念が起こるのです。即ちイエスは神の子であるという信念が起こるのです。
イエスは神なる人、神が人として現れた者であるという事が解るのです。(人の子とは人の性を帯びた者という意味です。それと同様に、神の子とは、神の性を帯びる者と解すべきです)。
人は聖霊によらなければ、イエスを主であると呼ぶことは出来ないとあるように、神によって新たに生れることが出来て、人は初めてイエスが神の子であることが分かるのです。イエスの神性と言うのは、神学上の命題ではありません。信仰上の実験です。
私は研究の結果、イエスは神の子であるという結論に達したのではありません。私の霊魂に根本的改造が行われたのを実験して、彼を神の子または子なる神として認めざるを得なくなったのです。
これは実験より起こる幻像(ビジョン)であって、思索の結果として得た確信ではありません。ある能力(ちから)ある者が来て、私を世に勝ち得る者として下さったのです。
そして私はその者を神の子として認めたのです。私が私の神学論を作り得る前に、私に信仰的実験があったのです。
◎ 以上はすべて主観的事実です。神と信者との間に行われる事であって、他人には窺い知ることの出来ない事です。しかしながら、主観的事実は、やがて客観的事実として現れるのです。信仰は行為として現れるのです。
私たちは世に勝つ能力(ちから)を与えられて、まことに世に勝つことが出来るのです。世に勝つとは、世に支配されずに、世から独立して自分が欲することを行い得ることです。そしてイエスは、そのような生涯を送られたのです。
我より我が生命を奪ふ者なし。我れ自(みず)から之を捐(すつ)る
なり。我に之を捐るの権能(ちから)あり。亦よく之を得るの権能
あり。
(ヨハネ伝10章18節)
と彼が言われたその自由が彼に在りました。即ち善はこれを為し、悪はこれを為さない自由が彼に在りました。イエスは世に在りましたが、世の属(もの)ではありませんでした。彼は神の子として世を支配し、その圧迫をお受けになりませんでした。
彼が十字架に釘(つ)けられたのは、彼が言われたように、自ら己を捨てられたのです。そして彼は、その自由を彼を信じる者にお与えになります。神の子である故の自由を、彼等にお与えになります。
是故に子もし汝等に自由を賜(あた)へなば、汝等誠に自由を得
べし。 (ヨハネ伝8章36節)
と彼が言われた通りです。クリスチャンは神に新たに造られて、キリストが世に対して自由であるように自由にされた者です。
◎ イエスはその生涯を以て、世に勝たれたのです。彼の御生涯は、勝利の生涯です。彼の敵は彼の身を殺すことが出来ましたが、彼の心を汚すことは出来ませんでした。
「
汝等の中に、誰か我を罪に定め得んや」と、彼が言われた通りです。彼の敵は、彼を十字架に釘(つ)けて、彼から得たものは、「
父よ彼等を赦し給へ。彼等は何を為せる乎を知らざれば也」との祈りでした。
イエスは愛を以て世に臨んで、世に勝たれました。そしてアレキサンダー大王やナポレオン皇帝がとうてい為し得なかったていどにおいて、これを征服されつつあります。
イエスの世界征服の武器は愛、その方法は愛です。今に至って不戦条約も何もあったものでありません。一方において軍備をますます進めながら、他方において不戦を宣伝するようなことは、もしこれが偽善でないならば、何が偽善ですか。
米国を始めとして、イギリスもドイツもフランスも、
国としては未だ全くキリストを知らない者です。私たちは、彼らによってキリストを学ぼうとしてはなりません。
◎ 「
汝等懼るゝ勿(なか)れ、我れ既に世に勝てり」とイエスは言われました。そして私たちは彼を信じて、彼の勝利に入るのです。
世はイエスを十字架に釘(つ)けて、自らを十字架に釘(つ)けたのです。神の子を罪に定めて、自ら罪に定められたのです。そして歴史とは他でもなく、人類の上に行われる審判の歴史です。
キリストの聖名(みな)は年と共に高められて、彼に逆らう勢力は年と共に衰えるのです。私たちは我が国の歴史においてさえ、明らかにこの事を見るのです。
私たちは既成宗教の廃滅と、その内にキリスト教が含まれていることを聞かされます。この札幌においてさえ、松村松年博士によって、進化論の立場から、キリスト教の衰亡が宣告されました。
しかしながら、私たちは失望しません。キリスト教は活きています。ますます発展します。世界征服を継続します。
50年前に、札幌に信者は30人とはいませんでした。今は何百人、あるいは何千人といます。20年前までにその存在を認められなかったこの宗教は、今や三大宗教の内に数えられて、その内で最も有力な者と認められるようになりました。
今や聖書は、何万冊刷(す)っても日本人の需要に応じるに足りません。丸善書店に行って、日本の識者が読む外国語書類で、直接間接にキリスト教関係のものが多いことに驚かされます。その他すべて同様です。
キリスト教の衰退を唱える者は、自分の知識の狭い範囲において唱えるのであって、人類全体の進歩の状態から観察して、キリストの福音は急速に進歩するのを見るのです。
The Kingdom of God is marching on! 神の国は日に日に進みつつある。その点において進化論も高等批判も、福音を裨益(ひえき
:助けとなり、役立つこと)しさえすれ、何も害を与えません。
キリストが既に世に勝たれたからです。神の子が完全な愛を以て勝ち得た勝利を、学者たちがその不完全な知識で壊すことは出来ません。
キリスト教にももちろん進歩があります。しかしキリスト教はキリスト教として進歩します。他の者に取って代わられることはありません。黙示録6章2節にこう書かれています、
我れ観(み)しに、一匹の白馬を見たり。之に乗る者弓を携ふ。
且(かつ)冕(かんむり)を与へられたり。彼れ常に勝てり。又
勝を得んとて出往けり。
と。キリストは、常勝軍の大将です。そして私たちは、彼に属(つ)いて勝つのです。
あたかも大河に舟を浮かべるように、洋々として勝利の大海に臨まざるを得ません。「
諸(もろもろ)の星その道を離れてシセラを攻む」とあるように、全宇宙が私たちの勝利を助けてくれます。
(昨年9月9日札幌独立教会において)
完