全集第33巻P59〜
(日記No.17 1919年(大正8年) 59歳)
1月17日(金)
昨夜を東海道の汽車の中で過ごし、午前9時に大阪駅に着き、数多の友人の歓迎を受けた。相変わらず安堂寺橋通りにある永広堂今井氏の客となった。
午後2時から中之島公会堂において、キリスト再臨問題研究関西大会を開いた。会堂は新築で、東洋第一と称せられるもの、その高壇に立つかと思い、少し身に恐怖を感じた。
会する者千余、平出、宇津木、松岡、藤井諸氏の証詞があり、続いて中田重治氏の講演があって昼の会を終った。予想外の盛会であって、一同は感謝に満ちた。別に会堂が広すぎるとは感じなかった。
4時半に一先ず閉会、談話を交え、夕食を終え、夜7時に再び開会、林、森両氏の証詞があり、下関のコルテス氏の、東京におけると同じ、いや実にそれ以上の熱心な講演があった。
午後9時になって、高壇は私に譲られた。私は「万民に関わる大きな福音」と題して、キリスト再臨は単にキリスト信者だけに関わる問題ではなくて、人という人、誰にも関わる問題であることに就いて演(の)べた。
この夜来会する者は千六七百人、その半数以上は確かに未信者であった。けれども彼等は水を打ったように静粛に、私が言おうと思った事に耳を傾けてくれた。大きな感謝である。私たちは第一日に勝利を博して、ハレルヤの声を揚げた。夜半12時に床に就いた。
1月18日(土) 好晴
午前永広堂の2階に、独り静かな時を持った。午後2時開会、来聴者は千余名。石川鉄雄、藤本寿作、ユダヤ人のニユマク、藤井武の諸氏と共に高壇に立つ。
ニユマク氏の演説が殊に有力であった。若いタルソのパウロが、私たちの前に立ったように感じた。言葉は簡潔で、一語一語に力があった。まことにユダヤ式の有力な証詞であった。このようにして、ユダヤ人がキリスト者となった時に、最も有力な伝道師が現れるのである。
「
若し彼等の錯失(あやまち)世の富となり、其衰へ異邦人の富とならんには、況(ま)して彼等の盛なるに於てをや」(ロマ書11章12節)というパウロの言葉を思い出さざるを得なかった。
会衆一同の感動は甚だしく、直ちに寄付金を募って、ユダヤ人伝道の資に供しようではないかと提議したところ、一同これに応じ、120円余の献金があったので、これをニユマク氏の手に渡し、彼の同胞間における福音宣伝の志にいささか同情の意を発した。
私はこの日、昨日の続きを演じ、キリスト再臨の証明として、第一に聖書、第二にユダヤ人の歴史ならびにパレスチナの地理について述べた。
5時に一先ず閉会、7時に再会、黒崎、森、河辺、中田、森本諸氏の証詞があった。来会者千八百余。ただし中には新築の公会堂見物のために入ってきた者もあったらしく、出入りが頻繁で、少なからず会の厳粛を妨げた。
また講演者の間にも多少の思想の相違もあり、少し歩調が乱れる観があった。止むを得ない。さらに祈るまでである。10時閉会。
1月19日(日) 晴
昨夜雨、正午に至って晴れる。午後2時開会。来聴者は2300人と注せられている。今日までに再臨問題研究会として開かれた最大の会合であった。青木庄蔵、トリストラム女史、コルテス、平出、中田等諸氏の証詞ならびに講演があり、5時に高壇は私に渡された。
与えられた問題は、「伝道とキリストの再臨」であった。私はマタイ伝28章16節以下の抄訳を試み、続いて再臨の信仰が伝道を助ける事実と理由とに就て述べた。
自分にとっては、甚だ物足りない演説であった。しかし、この日に疲れた頭脳(あたま)と爛(ただ)れた咽喉(のど)とを以て為し得る最善のものであった。
これで感謝のうちに大阪大会を終り、午後7時から隣家の大阪ホテルで、来会者有志の晩餐会を開いた。会する者七十余名。
例により「主の座」を設け、これにお料理代を募ったところ、献金53円を得たので、これを貧者に分かつこととし、とりあえず教会内の貧者に一人につき3円ずつを贈り、彼等に私たちと同じ歓喜(よろこび)を分かちあわさせた。
午後10時、時間の不足を惜しみながら散会した。恩恵の溢れる会合であった。
1月20日(月) 晴
昨夜から風が強く、寒気が厳しい。大責任を終えて、肩から重荷が落ちたように感じた。
京都から便利堂の主人が来て、相連れ立って和歌之浦見物に出かけた。久しぶりに住吉神社を見舞い、その古風な社殿を賞し、南海電車で泉南の平野を馳せ、茅渟海(ちぬのうみ)の波の荒ぶる状(さま)を眺めながら、午後1時半に和歌之浦に着いた。
そこで昼飯を取り、旧友相共に古い事と新しい事とを語った。寒風が強かったので、思う存分に風景を楽しめなかったけれども、少なからず心思を慰められて、7時に大阪に帰った。この夜久し振りに、常習に倣って、10時前に就寝できた。
1月21日(火) 晴
風未だ止まず。芦屋に行き、好本督(よしもとただす)君を訪れ、盲人伝道に関して君の相談を受けた。また江原万里の新家庭を見舞い、新婦に会って、我が子に会うかのように感じた。大阪に帰り、午後6時大阪クラブに行き、住友吉左衛門氏の懇篤(こんとく)な饗応を受けた。
私が日本の富豪の饗応を受けたのは、これが生れて始めてであった。令息寛一君との霊的関係が、ここに至らしめたのである。
1月22日(水) 半晴
近頃新婦を迎えたある家庭を訪問し、その上に祝福が加わるように祈った。午後永広堂主人に伴われて宝塚に遊び、鉱泉に浴し、大阪における疲労の一部分を洗い去った。途中で摂津の中山寺と清荒神(きよしこうじん)とを見た。
前者は聖徳太子以来の古刹(こさつ)、後者は近代式の流行神(はやりがみ)である。仏教にもキリスト教におけると同様に、清俗の二種がある。
大阪に帰り、午後7時22分発の列車で帰途に就いた。滞留5日、いわゆる東洋のマンチェスターの煙と埃(ほこり)とは厭(あ)き厭きした。しかし、戦争は敗北ではなかった。再び来て攻撃を続けるであろう。
1月23日(木) 好晴
夜は富士山下に明け、足柄山以東の原野は、一点の雲もない晴天に輝いて、私が帰るのを迎えた。横浜に至れば社員、品川に至れば家人は私を待ち受け、相携えて家に帰った。
頭脳(あたま)は疲れ、咽喉(のど)は爛(ただ)れ、苦戦の跡が著しかった。二三日は休息である。家ほど休むに良い所は無い。相変わらず数十通の書簡が待っていた。
その内に、宮崎県都城町日本基督教会牧師、園部丑之助君からの信書の中に、以下のような言葉があった。
「吾(わ)が教会信者が皆吾人(ごじん)と同一信仰(再臨の信仰)に依りて従来養はれ来りしを感謝致し候。当町に組合派も有之(これあり)。過日の岡山御講演に出席して失望したと申さるゝは勿論に候が、同派信者中小生方へ参りて、此の空所を充たさんと努力なし居る向きも有之候云々」と。
分別は、どこにおいても始まっている。これを信じる者と、信じない者と、キリスト教界は、今や判然と二派に分れつつある。
1月24日(金) 曇
家で終日休養、心地よい休日であった。大阪大会有志晩餐会において述べられた、多くの興味ある感想の中で、最も強く私の心を動かした者は、次のような者であった。
神戸在留の広東(かんとん)人、張金棟君は、日本語をよく語り得る支那人であるが、君の言葉によれば、君は今から三年前に、ある古本屋で、金5銭で「求安録」の古本1冊を買い求め、これを読んで自分の罪を悟り、悔改めてキリスト信者となり、続いて他の同国人を導き、今や一小教会を設立するに至ったとの事であった。
私はこの実験談を聞いて思った、為すべきは信仰的著述である、この一人の支那人を救うことが出来て、私が著述のために費やした労力は尽(ことごと)く償われたと。
何も、何十版を重ねて、世の熱狂的歓迎を博するに及ばない。この一人を救うことが出来れば、それで足りるのである。私が今回大阪に行って得た最大の獲物(えもの)は、この一事である。
ああ神よ、今から26年前に熊本市外託摩ケ原槙樹(まき)の下において、古い支那鞄を台にして書いたこの書が、今日この果(み)を結ぶに至ったのは、何という恩恵でしょうか、感謝云々。
(以下次回に続く)