全集第33巻P232〜
(日記No.69 1920年(大正9年) 60歳)
4月14日(水) 雨
「四隣悉(ことごと)く排日運動、其原因は軍人外交」、「今日の模様にては日本は遠からざる将来に於て国際間に第二のドイツ視せらることあらんと思はる」、
「シドニー・サン紙は、米国カナダ及び豪州三国の海軍は太平洋の平和を維持するため、共同一致の行動を執るべき事を切論せり」、これが今日の新聞紙が論じかつ報道することである。
日本は元来、武を以て起きた国である。その日本がこの状態に立ち至ったことは、少しも怪しむに足りない。
かつては狂人視された私の非戦論が、その中に深い真理を宿すことを我が国の人に解されるようになるのは、遠い将来のことではあるまい。この事を思うと、時に暗涙を催すことがある。
◎ 午後7時半、家の青年に送られ、雨を衝(つ)いて大阪に向けて東京駅を発した。車中で大阪商人の金儲け話を聞かされ、既に関西の都に在る感がした。夢と現(うつつ)とのうちに、箱根山を越えた。
4月15日(木) 晴
伊吹山の麓に朝日を仰いだ。近江の湖水は、春の日の琥珀(こはく)の色に輝いた。ヘブル書を読みながら、勢多川の鉄橋を過ぎた。逢坂山のトンネルの辺は、昔ながらの山桜に賑わった。
7時半、多数の本願寺参詣者と共に京都駅に下りた。直ちに伴われて、昔懐かしい新町通り竹屋町下る便利堂主人中村弥左衛門方に到り、ここを二日間の本陣と定めた。
午後友人二人と共に向日(むこう)町に行き、その付近の栗生光明寺ならびに長岡公園を訪れた。関東が粗野なのに比べ、洛外は風雅であり、愛すべき所が多い。
春の野にヒバリがさえずり、竹林にタケノコが萌(きざ)し、好い半日の清遊であった。
4月16日(金) 晴
俗事と交友とに一日を費やした。「四囲の山何ぞ高き、鴨(かも)の水何ぞ清き」であって、洛陽の春の一日は価値のないものではなかった。
4月17日(土) 晴
午前9時半京都を発し、11時に摂津(せっつ)芦屋に着いた。2時に西ノ宮に行き、武庫郡公会堂において、「聖書之研究」読者会を開いた。来会者七十余名、近くは京都から、遠くは備中美作(みまさか)から、旧い読者が来会して、甚だ楽しい会合であった。
私は「聖書の立場から見たキリストの再臨」について語った。キリストの十字架による罪の赦しを実験した者は、早かれ遅かれ、終(つい)にキリストの再臨を信じるに至らざるを得ないと語った時に、全会の強い肯諾(こうだく)を得た。数人の熱心な祈祷があって、5時に散会した。
4月18日(日) 晴
晴天がうち続き、ヒバリの声が天に響き、祝福された聖日であった。昨日に引き続き、読者会を開いた。来会者は百人余、私は「人生の実験として見たるキリストの再臨」について述べた。
再臨に内的なものと外的なものと、消極的なものと積極的なものとがある事について語った。自分にとり甚だ興味ある問題であった。会衆もまた大いに共鳴するところがあったらしく見受けた。祈祷があり感話があって、この楽しい会合を終った。
会費金三円という未曽有の高価な聴講料を取り立てたにも関わらず(私の責任ではない)、このように多数の熱心な来会者があったのは、これまた未曾有の事である。
閉会後有志者四十余の晩餐会が催され、これまた愛と歓喜と感謝とに溢れる楽しい会合であった。
4月19日(月) 晴
未だかつて有ったことのない楽な講演会であった。したがって疲労も少なく、別に休養の必要を感じなかった。
午後永広堂の主人に伴われて、六甲山の中腹にある苦楽園に遊んだ。山ツツジの満開であって、一里余りの山登りは甚だ愉快であった。ラジウム鉱泉に浴し、茅渟海(ちぬのうみ)が春光に輝くのを見下ろしながら、徒歩で山を下った。
午後6時芦屋を発し帰途に就いた。車中では眠れず、窓から星を覗きながら一夜を過ごした。獅子座に止まる土星と天秤座に宿る火星が、列車進行の方向と共に、代わる代わる車窓に映り、これを眺めながら矢矧川(やはぎがわ)を渡り、浜名湖を過ぎた。誠に良い旅中の伴侶である。
4月20日(火) 晴
朝8時に東京に着いた。家に帰れば庭の八重桜が満開であった。私の不在中の聖書講演会がすこぶる盛会であったと聞いて嬉しかった。
相変らず多数の手紙と200頁余りの校正刷りが待っていた。これを片付けるのが一仕事である。講演旅行は好いとして、その後片付けが大変である。しかしこれもしなければならず、彼も避けることは出来ない。聖意(みこころ)をして成らしめよである。
4月21日(水) 晴
汽車の中で風邪を引き頭が重く、室に籠って休んだ。大きな興味を以て、沖野岩三郎(
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E9%87%8E%E5%B2%A9%E4%B8%89%E9%83%8E )君の新著「基督新教縦断面」を読んだ。誠に有益な書である。山路愛山が逝ってから、キリスト教界の歴史家がいないと思っていたが、沖野君がその歴史家であることを知って喜んだ。
私に関する記事に、たいていは間違いはない。我が日本においても、神がその福音を守って下さり、福音の内外の敵に勝って今日に至らせて下さったことは、感謝の至りである。
4月22日(木) 晴
午後2時、今井館において法学士松本実三の葬儀が営まれた。坂田祐が司会し、私が説教した。
松本は名誉を以て大正5年に東京帝国大学を卒業し、大阪住友銀行の社員となり、抜擢されてニューヨーク支店詰めとなり、そこに留まる事一年余り、病を得て帰朝し、去る16日に眠りに就いたのである。
彼は柏木生え抜きのクリスチャンである。柏木において始めて福音を聞き、柏木において結婚し、終(つい)に柏木においてその葬儀を営まれる。したがってその信仰もまた純然とした柏木流の者であった。
洗礼を受けず、いずれの教会にも属せず、ピューリタン的で、殊に深くキリストの再臨を信じた。私は彼の遺骨を前に置き、会葬者に向って言った。
松本の死は、実に惜しむべき事であります。しかしながら、最も悲
しむべき事ではありません。世には松本よりも遥かに不幸な人があ
ります。
松本は病める肉体に健やかな霊魂を宿して外国から帰り、その健や
かな霊魂を以て、この世を去って神の御許(みもと)に行きました。
世には反対に、強健な肉体に萎靡(いび)した霊魂を宿して帰って来
る者が数多あります。
欧米の物質風に吹かれて少しもその霊魂を汚すことなく、その故国
において学び得た単純な信仰に、一層の輝きを加えて帰って来て死
に就いた松本は、これら多くの堕落少壮紳士に優(まさ)る幸福な者
であります。
試みに松本が思う通りに彼の事業に成功したとすればどうでしたろ
う。彼が大実業家となり、百万長者となったとしたならばどうでし
たろう。
彼は大きな危険に陥ったのであります。彼が彼の霊魂を失う機会は
甚だ多くあります。彼は事業に成功して、信仰に失敗したでしょう。
もちろん神の御助けにより、全ての誘惑に勝ち得ない事はありませ
ん。しかしその戦争は、死に就く以上の苦痛であります。
そして私はこの世の成功に勝ち得ずに、成功によって滅ぼされたク
リスチャンを沢山知っています。
神は松本を愛されたのであります。神は松本の霊魂を愛されて、実
業家としての成功を挙げ得る前に、彼を召されました。
松本の死は、彼自身に取っても、最大不幸ではありませんでした。
松本と同じく、この聖書講堂において聖書を学んだ青年は数多あり
ます。
そして彼等は彼と同じく学士となり、洋々とした青春の希望を懐い
て人生の航路に就きました。
ところが少しばかりの成功に恵まれると、養ってきた信仰をたち
まち投げ捨てて、元の俗人と化した者は、決して少なくないので
あります。
その場合における私どもの苦痛は、たとえようがありません。私
どもは永久に彼等に別れ、永久に彼等を失ったのであります。
ところが松本の場合は、全くこれと異なります。私どもは一時彼
と別れました。しかし、永久に別れたのではありません。一時彼
を失いました。しかし、永久に失ったのではありません。
私一個人の立場から申し上げれば、彼と私との間に存した師弟の
関係は、今なお依然として存し、永久に存するのであります。
松本は信仰を持って死んでくれて、私ども一同に言い難い安心と
満足とを与えてくれました。キリストが再び来られる時に、私た
ちが再び相会う時の喜び!
これを思う時に、私どもの今の嘆きは消え去るのであります。
誠に松本と言い、松田と言い、小出と言い、古崎と言い、ここ一
二年間に私たちの内から去って神の懐に帰った者、彼等はみな、
信仰の勇者であります。
彼等は死を以て、私どもが唱える信仰を証明してくれました。こ
の証明に優って貴いものが、何かあるでしょうか。信仰は、死を
以て証明されて初めて、その真価を確かめられるのであります。
彼等は実に私たちに大きな奉仕(サービス)をしてくれました。後
に存(のこ)っている私たちは、彼等に対して大きな責任を有しま
す。
私たちはこの信仰の上に固く立ち、彼等がこの世において為せな
かった事を、彼等に代ってしなければなりません。
彼等は、私たちに代わって死んでくれました。私たちは彼等に代
わって働かなければなりません。実に感謝の至りであります。
私たちクリスチャンは、全ての場合に神に感謝します。そして死
に際しても感謝します。今日のこの場合においても感謝します。
そして万事が感謝と讃美と栄光とに終る事を信じて疑いません。
云々。
と。私たちはこの際、特に彼の妻と三歳の男子立一との上に神の特殊の恩恵が宿る事を祈った。
(以下次回に続く)